第10場 4・迷妄の森 - 第11場 第12場

魔法の術――人智を越えた力を使い、人の技ならぬ業をなすもの――ティアーナが自らそれを行う時恐れを抱くのは、それが人智人技を越えたもの故のごく自然な感情の動きだった。ウェルタのくれた魔法のしおりにしても、彼女は使うのを躊躇し、しばらくはそのままにしてあった。しかし、自分の物語の世界をもっとたくさん、もっときれいに描きたいという欲望が、彼女の恐れを押え込んだ。

ティアーナはおそるおそるしおりを使って、呪文を唱えた。すると、思念を集中させようとする前に意識を失った。彼女は夢を見た。物語の夢を。そして物語の中をさまよううちに、彼女の描きたい場面が鮮やかに、生き生きと輝いて広がった。そう、わたしが描きたかったのはこれよ!――そう思ったとたん、目が覚めた。鏡には今、夢に見た通りの場面が鮮明に写っていた。ウェルタの言った通りだった。

彼女は夢中になって、絵を描いた。今まで何日もかけて少しずつ作っていたものが、夢を見て、その場面を探し当てるまでの時間だけでできてしまう。数日のうちに、彼女が描きたかった挿し絵の大半は仕上がってしまった。しかしある時、夢の中に異変が起こった。主人公の王子や姫君が勝手に動き出し、彼女がまったく書いた覚えのない行動をとり始めた。夢の中で、彼らは沈痛な面持ちで、このままでは世界が壊れてしまうと話し合っていた。そして呆然と見ている彼女に向かって、助けを請うのだった。目が覚めると、悲しい目で助けを求める王子の姿が鏡に写っていた。それからはしおりの魔法を使うと、いつも同じ夢を見た。いくら違う場面を探し求めても、結局最後には、主人公たちは話の筋から外れ、この世界を助けてくれと哀願するのだった。

ティアーナは恐くなって、しおりを使うのをやめた。だが、その夢の意味が気になって仕方なかった。王子の悲しい目が忘れられなかった。どうすればいいの?――ウェルタに相談したかったが、彼女はあれっきり、姿を見せなかった。

夏の盛りを少し過ぎた頃、予定より1週間早く、ユリウスは旅から帰った。彼は7週間という時間がまるでたった1日のような、昨日大学へ行って、今日帰ってくるような気安さで、ただいまと言いながら仕事部屋から出てきた。そのあっけらかんとした様子がおかしくて、ティアーナは笑いながら、彼を迎えた。ひとしきり笑って、改めてユリウスを見ると、少し伸びた髪と、少しやせた顔が旅の長さを感じさせた。彼女は彼に抱きついてしまいたかったが、微笑んでもう一度、お帰りなさいと言うだけにとどまった。

ユリウスが予定より早く帰った理由は、この時期に見える流星雨の観測にあった。

「別に帰り道までパウルに付き合う必要はないし、それより流星を見た方が有意義だと思ったから、一足先に闇の道で帰ってきたんだ。悪いけど3日ほど、夜は大学に詰めることになるよ」

その言葉が何を意味しているのか、彼女にはわかっていた。

「あなたらしいわね。いいわよ、わたしのことは気にしないで、行ってらっしゃい」

ティアーナは微笑んで言ったが、心の中では寂しいと思っていた。彼女は自分の気持ちをはっきり自覚してしまった今、もはや気持ちが素直に動くのを、止めることはできなかった。ただ彼女は気持ちが表に現われないよう、行動に出ないよう耐え忍んだ。以前のように、心が揺れ動くことはもうなかった。ただ耐え忍ぶことに慣れればいいのだと、彼女は思った。

ユリウスは数日間、夜は流星の観測、昼は旅行の後にお決まりの、たまった雑事の片づけと報告書の作成に忙殺された。ティアーナはユリウスのいない間に、もう一度あのしおりを使ってみることにした。ウェルタは現われないが、彼女にはそのまま放っておくことができなかった。彼女は勇気を出して、しおりの魔法で夢を見た。そして助けを請う王子に、そのわけを尋ねた。王子は沈んだ顔で語った。

「この世界のあちらこちらに穴があき始めたのです。暗黒の穴はやがて世界を壊してしまう。そうなる前に穴をふさいで欲しいのです。それができるのはあなただけ。お願いです、どうかこの世界をあなたの手で救って下さい」

「でも、わたしにはどうすればいいのか、わからないわ。どうすればいいの?」

「来て下さい、この世界に。時が来たら、お迎えに上がります。来て下さいますね?あなたの世界のために」

悲しみに沈んだ王子の水色の瞳に、彼女の心は痛んだ。彼女はいたたまれなくなって、すぐに返事をした。

「ええ、わかったわ」

「約束ですよ、必ず」

そこで夢は途切れた。彼女はますます悩んだ。いったいどうして、自分の物語の世界の中に、穴などあくのだろう?それに王子はどうやって、迎えに来るのだろう?どうやって、その世界へ行くのだろう?――わけがわからず、彼女はあせった。どうすれば?――

(いっそのこと、ユーリに相談してみようか……)

ようやく仕事が一段落して、久し振りに一緒に夕食を取った後、くつろいで本を読んでいるユリウスを見つめながら、ティアーナは思った。

「ねえ、ユーリ」

「何?」

思い余ってユリウスに声をかけたものの、こちらを見た彼の顔を見て、ティアーナは大事なことを思い出し、言うのをとどまった。

(やっぱりだめ、言えないわ。ウェルタさんに絶対内緒って、約束してるんだもの)

「ううん、何でもないわ。ごめんね、読書の邪魔して」

しかしユリウスはティアーナの側に来て、彼女を見つめた。

「どうしたの?」

「ほんとにもういいのよ。何でもないから」

そう言いながら、彼女は自分のユリウスを見つめる目が熱っぽくなるのを感じ、目をそらさなければと思った。だが、彼女の目は吸い寄せられたように彼を見つめ続けた。ユリウスはティアーナの視線を受け止めながら、彼女のあごにゆっくりと手を掛けると、唇にキスをした。久し振りのキス……、久し振りの……。

(わたし、また誘ってる、求めてる……)

ティアーナは自分が疎ましくなって、キスに夢中になる前に、自分から唇を離した。

「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの」

うつむくティアーナに、ユリウスは優しく微笑んだ。

「いいんだよ。じゃ、また今度ね」

彼は彼女の額に軽くキスして、読書に戻ろうとした。その時、ティアーナがガタンと音をたてて椅子から立ち上がった。彼女は引きつった顔で、驚いて見ているユリウスの前を急いで通り過ぎ、寝室に閉じこもった。そして、枕に顔を押し当てて、自分を激しく叱責した。彼女は自分自身が許せなかった。自分で拒絶しておきながら、なぜ強引に抱いてくれないのかと未練たらしく思っている自分が。

次の日の午後、畑からの帰り道、ティアーナは何気なく、あの光のあふれている森の小さな空間へ足を運んだ。光の中に立ち、きらきらと輝いている木漏れ日を見上げた。

(あーあ、夕べは嫌なことしちゃった。わたし、まだ感情をうまく抑えられないわ)

彼女はため息をついた。

(まだまだ出口は遠いなぁ……。夢のことも気になるし、いつになったら、この状態から抜け出られるのかしら……)

浮かない顔のまま、彼女は家に戻ろうとして立ち止まった。彼女の行く手にユリウスが立ち、彼女を見ていた。その場に凍りついたように立っている彼女の側に、彼は近づいた。

「初めて会った時も、きみはここで光を見上げていたね」

「ええ、そうね。もう遠い昔のことのような気がするわ」

「そう?わたしにはつい昨日のことのように思い出せるよ」

「………」

「あの時みたいに笑ってくれないんだね」

ティアーナはその時のことを思い出し、口元をゆるめた。

「あの時はまだ何も知らなかったもの。人は変わるわ、もう同じようにはできない……。あなたは変わらないわね。あの頃のままだわ」

「ティア……」

「瞑想するの?」

「ああ、そのつもりで来たんだけど」

ティアーナは懐かしそうに目を細めた。

「わたし、あなたがここで瞑想しているのを初めて見た時、それはもう驚いたわ。だってあなた、地面の上に浮いてるんだもの。でも、きれいだった。黒い服が光で縁取られて、黒い髪がつやつや光ってて……」

「………」

「ねえ……」彼女は何かを言いかけて、口をつぐんだ。

「何でもないわ。じゃあ、わたしは家に戻るから」

ティアーナは走り去った。後に残されたユリウスは回りの木々を見渡した。

(木々が息を潜めている。彼女の辛い心に同調して……。彼女はまだ迷っている……)

彼は目を閉じ、木々に心を合わせた。

(大丈夫。心配しないで。彼女はきっと戻ってくるよ……)


第10場 4・迷妄の森 - 第11場 第12場