第2場 4・迷妄の森 - 第3場 第4場

季節は巡り、ユリウスとティアーナが結婚して、3度目の夏が過ぎようとしていた。ティアーナは今や一人で森を歩き、迷わずに目的地へ行って帰ってくることができたし、森がこの時ばかりは優しさをかなぐり捨てて荒れ狂う嵐の晩も、一人で家を守って過ごすことができた。彼女が森に慣れ、ユリウスの仕事を手伝うようになると、彼の生活にもゆとりができ、彼はそのゆとりを喜んで享受していたが、大学はそれを許さなかった。受け持ちの講義と研究会は一つずつ増やされ、他の研究会からも度々要請を受け、顔を出さなければならなかった。

仕事が忙しくなって、家にいる時間が減ってしまうことをユリウスはティアーナにぼやいた。「せっかく読書と瞑想の時間が増えたって喜んでいたのにね」とティアーナが同情すると、ユリウスは「隠遁生活を送るには30年早いってミノス老師に言われたよ」と浮かない顔で答えた。彼はミノス老師から更に新しい仕事を依頼されていたのだ。それはクルトの文字と言葉に関する新しい解説書の作成で、ユリウスの父が集めた膨大な資料を、彼は父の蔵書の中から見つけ、暇を見ては少しずつ整理していたのだが、それを本格的に編纂するよう頼まれたのだった。確かにそれはユリウスに打ってつけの仕事だった。ミノス老師はしぶしぶ承諾したユリウスに、ニッコリと微笑みながらくだんのせりふを言い、そしてこう付け加えた。

「何事も修業のうちじゃよ。そなたは大学の宝、輝ける宝石だ。だが宝石は磨かなければ輝かない。のう、ユリウス、そなたにはこれからまだまだたっぷりと、修業を積んでもらわねばな」

ユリウスは週に5日は大学に出るようになり、しかも泊まり込む日も多くなった。ユリウスが家にいる時は、ティアーナが村へ出かけている時もあって、二人が一緒にいる時間はますます少なくなった。しかしティアーナにとって、すでにそれで困ることはほとんどなかったし、シスター・ロージナやドーラがほったらかしにされて寂しくないかと聞いても、彼女は笑って平気だと答えていた。実際、彼女は寂しいとか一緒にいたいとか、今まであまり考えたことはなかった。ただ二人で森の中を歩く機会が減ってしまったことは、とても残念に思っていた。ティアーナはユリウスと森を歩くのが好きだった。一人で歩くよりもずっと楽しかったし、何度も歩いた所でも、いつも何かしら新しい発見があった。そして二人で森の中にいる時に感じる、あの心を豊かに包んでくれるような森の輝きが好きだった。だが、わがままは言ってられないと彼女は自分に言い聞かせた。彼の大切な仕事の邪魔にはなりたくなかった。

秋風が立ち、やがて森が見事な錦の衣をまとうようになる頃、いつしかティアーナの心の中にもだんだんと秋風が吹くようになってきた。鏡の前に座り、あるいは収穫の終わった畑に立ち尽くしてぼんやりすること多くなった。空虚な心の中を冷たい風が吹き、心のひだを波立たせているのを彼女は感じた。しかし、彼女はそれを新鮮味のない、惰性で動いている日常生活の倦怠によるものだと思っていた。ぼんやりしている暇があるんだったらもっと働こう、やることはいくらでもあるんだもの――彼女は忙しく立ち回ることで、気を紛らわせようとした。

ティアーナの心の変化に最初に気づいたのは、ユリウスの方だった。ある日、久し振りに二人でゆっくりと朝食を取っている時、ユリウスが突然、今日はこれから森を歩こうかと言い出した。

「でも、今日は大学へ行くって、昨日言ってたじゃない。研究会のある日でしょ?」

ティアーナは驚いて彼の予定を確かめた。

「ああ、いいんだ。今日はサボる」

「そんな簡単にサボるなんて……、いいの?」

「いいんだよ、たまには」

ユリウスは開け放したドアの外をまぶしそうに眺めながら、つぶやいた。

「いったい、急にどうしたの?」ティアーナは心配になってユリウスに聞いた。

「ん……、きみが寂しそうだから。もうずいぶん一緒に出かけてないしね、奥さん?」

ユリウスは頬杖をついてティアーナをじっと見た。ティアーナは目を丸くしてユリウスを見つめた。

「わたし、寂しそうに見える?」

「うん」

「でも、寂しくなんかないわよ、ちっとも」戸惑いながらティアーナはユリウスに言った。

「嘘ばっかり。顔見ればわかるよ」

心の中まで見透かすようなユリウスの目に、ティアーナはドキッとした。寂しい?わたしが?じゃあ心の中の空しさは寂しさのせいなの?――彼女は自分の気持ちを確かめようとした。しかし結論が出る前に、言葉が口をついて出た。

「ほんとに寂しくなんかないわ。寂しいなんて考えたこともないもの。いいかげんなこと言わないで」

「いいかげんじゃない。ちゃんときみの顔に書いてあるよ、ほっとかれて寂しいって」

ユリウスはクスッと笑った。

「嘘よ、そんなの。またからかってるんでしょ」ティアーナは顔をしかめた。

「からかってなんかいないよ。鏡を見てきてごらん、嘘かどうかわかるから」

やけに自信たっぷりに言うユリウスを見て、何かあるなとティアーナは怪しんだが、何があるのか確かめようとして、黙って寝室へ行った。ほどなくして、彼女の叫び声が寝室から上がった。

「何よ、これ!やっぱりからかってるんじゃない!!」

ティアーナの声を聞いて、ユリウスがクスクスと笑い出した。ティアーナはふくれっ面で寝室から出てきた。

「ね、顔に書いてあっただろ」笑いながらユリウスが言った。

「鏡に細工したのね。あきれた人」

ティアーナがユリウスをにらんだ。ユリウスはようやく笑いを収めて、いとおしむ目でティアーナを見つめた。

「確かに鏡にイタズラはしたけど、きみが寂しそうな顔をしてるのは本当だよ。きみ、自分の気持ちに気づいてなかったの?」

「わからないわ。でも、仮にそうだとしても、そのために仕事を休んだりしちゃいけないわ」

「平気だってば。1日くらいどうってことない。学生の頃は平気でよく授業をサボってたけど、その頃に比べたら今はおつりが来るぐらい優等生さ。きみは気にしなくていいんだよ。さあ、早く支度して。パンとチーズとワインも忘れずにね」

(授業をサボるのと仕事をサボるのじゃ、わけが違うと思うけどなあ……)

ティアーナはそれでもなお気がかりに思ったが、もう何も言わずにユリウスの言葉に従った。降り積もる落ち葉を踏みしめて、二人は森の中をゆっくり歩いた。短い会話と二人の足音、風の鳴る音、木々のざわめき、そういったものを二人で共有するのは本当に久し振りで、ティアーナは懐かしい感覚さえ覚えた。わざわざ仕事を休んでまで、時間を作ってくれたユリウスの心遣いは嬉しかった。けれど、彼女はせっかくのこの時間を、素直に心ゆくまで楽しむことはできなかった。

(確かに一緒に出かけることが少なくなってしまって、つまらなく思っていたけど、彼に迷惑をかけてまで、こうしたかったわけじゃないわ。むしろ迷惑をかけないことを望んでいたのに……。なんだかつらいわ)

気持ちの中に小さなわだかまりが残った。夕方、家に戻ると夕食もそこそこに、ユリウスは大学へ出かけた。やっぱり平気じゃなかったんだと思いながら、ティアーナは出かけようとする彼に言った。

「今日はありがとう、ユーリ。久し振りに楽しかったわ。でも、もう仕事サボったりしちゃだめよ」

「ティア」

「わたしのことなら大丈夫。少しくらい寂しくても平気よ。だから気にしないで、無理しないで、お願い」

ユリウスは気遣うようにティアーナを見ていたが、彼女の気持ちを察して黙ってうなずいた。


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