第3場 4・迷妄の森 - 第4場 第5場

ティアーナの心の中の秋風は、ユリウスの優しい心遣いによっても止むことはなかった。ユリウスはそれから以後も時折、わずかな時間でも彼女の都合に合わせて、家にいるようにしていた。彼はそれを何も言わず、さりげなくしていたのだが、ティアーナは自分のためにしてくれているのだと気づいていた。

(わたしなら、平気なのに……)

小さなわだかまりは消えることなく、彼女の心の中でうずいていた。

(もう、そんなに優しくなくってもいいのに……)

子供の家の庭で小さな子たちが走り回っているのを眺め、新入りの赤ん坊をひざに抱きあやしながら、ティアーナはぼんやり考えていた。ユリウスはいつでも彼女に優しかった。それはさながら、彼女の心の行き先で待っていてくれるような、そんな優しさだった。前の夫ギディアスも優しい人だったが、その優しさはもっと直接的なものだった。

(それにギドとはけんかもしたもの。言い争って、へそ曲げて、でもすぐに仲直りして……。ユーリとはけんかもしないわ)

ユリウスは彼女に怒ったことは一度もなかった。彼女が何か気に入らないことがあって、彼にあたっても、彼は不機嫌になることも言い返すことも決してなかった。だからけんかにならないのだ。

(時にはけんかしたっていいのに……)

冷たい風がティアーナの髪を乱し、彼女は我に返った。

(わたしったら何てこと考えてるの。優しくなくていいとか、けんかしたいとか、それってとても勝手な言い草だわ。そうよ、優しければいいじゃない。それが一番よ)

その時、遊んでいた女の子が二人、ティアーナの所へやって来た。

「ねえ、ティア、この前のお話、また聞かせて」

「続きを聞きたいの、お願い」

「えーっと、お話ね。どこまで話したっけ?」ティアーナは二人に笑いかけ、尋ねた。

「王さまの弟が悪い人で、王さまをやっつけて自分が王さまになるの」

「そうそう、王さまとお妃さまは死んじゃって、二人の王子さまが森の中を逃げていくのよ。それからどうなるの?」

「えーっと……」ティアーナは苦笑いした。

「ごめんね、まだまとまってないの。今度必ず話してあげるね」

彼女は近頃、吟遊詩人の真似事をして自分で物語を作り、子供たちに話して聞かせていたのだった。8公国になる前の東ユーレシアの王国の物語は、話し始めると彼女の中でどんどん膨らんでいき、1回や2回ではとうてい話しきれないものになっていた。そうなると頭の中だけでは処理しきれず、彼女はそれを書き留めておくことにした。寝室の鏡の置かれた小さな机の上を片づけて、彼女が夢中で紙にペンを走らせていると、ユリウスがいつの間にか戻ってきていて寝室を覗いた。

「ただいま。何してるの?」

「あ、お帰りなさい。今ね、子供たちに話してあげる物語を作ってるの。書いておかないと途中でわからなくなりそうだから」

「へえ、どんな話?」ユリウスがティアーナの側に来て、覗き込んだ。

「昔々の国を追われた兄弟の王子さまの冒険のお話よ。ありきたりだけど子供は喜ぶわ」

「どれどれ」ユリウスは紙を取り上げて目を通した。

「書き直しが多いね」

「だって、あらすじは決まってるけど、細かいところになるとああしようかこうしようかっていろいろ考えて、まとまりがつかないんですもの」

ティアーナは困り顔で言い訳した。

「ねえ、この兄王子の容貌、お日さまの光に透けるような淡い金髪に明るい水色の瞳って、まるで誰かさんみたいじゃないか」

ユリウスは感心しない様子で言ったが、ティアーナは悪びれずに明るく答えた。

「そうよ、その誰かさんがモデルなんだもの。やっぱり王子さまは素敵でないとね」

「まさかその素敵な王子の性格は、あることないこと言い散らかして皆をけむに巻くような、煮ても焼いても食えないやつ、なんじゃないだろうね」

ユリウスがニヤニヤしながら言い、ティアーナはその言い方がおかしくて笑い出した。

「そんなんじゃ子供たちに嫌われちゃうわ。ちゃんと王子さまらしく、正義感あふれる勇敢な王子さまよ」

「そうだな、借りるのは外見だけにしておいた方がいい。ところで、まだまとまってないんだったら、直接紙に書かずに鏡を使ったら?」

「鏡?でもどうやって?」

「今、教えるよ」

ユリウスは仕事部屋へ行き、何冊かのノートとインク、刷毛などを持って出てきた。

「鏡の本当の使い道はね、記述することなんだ。これを使えば文字でも絵でも記号でも、速く正確に書けるから」

彼は鏡の前に何も書かれてない、真っ白なノートのページを開いた。

「この文章、鏡に写してみて」ティアーナはそうした。

「それをノートに写し取るんだ。呪文は“ウォユ・シアン・ジルイルターブ・ハ”だよ」

彼女は呪文を唱えた。鏡の文字は消えたが、ノートには何も写っていなかった。

「できないわ」

「できてるよ。見えないけど、ちゃんとこのページに写っている。手を当ててごらん。隣のページと比べて、違いがわかるだろう?」

「ほんと、感じが違う。じゃあ、これでいいのね」

「逆のこともできる。呪文のとを入れ替えればね」

ティアーナは試してみた。すると、鏡にさっきの文字が戻ってきた。

「この状態なら何度でも書き直しができるよ。紙を汚すこともない」

「でも、これじゃ鏡がないと読めないわ」

「もちろん、見えるようにできるさ。ここのところはもう書き直しはないね?」

「ええ」

「じゃ、もう一度ノートに写して」

ユリウスは文字を写し取ったページに、刷毛でごく薄い青色のインクを一面に掃いた。そして、黒いフェルトを何枚も重ねたような分厚い大きな吸い取り紙のようなものを押し当てた。それを取り除くと、鏡に映っていた文字がノートにはっきりと黒々と刻まれていた。ティアーナは目を丸くした。

「すごいわ、魔法みたい」

ユリウスは吹き出して、彼女の言葉を訂正した。

「みたいじゃなくて、魔法の術だよ、間違いなく。定着液もインク紙も特別な仕掛けがしてあるんだ」

「どうして水色のインクが黒になるの?」

「だから、インクはこっちの黒い紙の方なんだよ」

「ふーん」ティアーナはそれらの道具をしげしげと眺めた。

「絵も同じようにできるの?」

「できるよ」

「やってみて!」

ティアーナは目を輝かせて、席をユリウスに譲った。ユリウスは椅子に座り、何を描くか少し考えた後、目を閉じた。やがて、鏡の中にティアーナの見知らぬ風景が現われた。黒いごつごつした岩場の向こうに広がる、空の色より濃い青い色――

「これ、海?」ティアーナは鏡に見入ったまま尋ねた。

「そう、レガの近くの海岸」

「海なんて初めて見るわ。きれいな青。あなたのローブと同じ色ね」

「………」

「いつもこんな色なの?」

「いや、変わるよ。天気や海の深さ、光線の具合によっても変化する」

彼はそれを別のノートに写し取った。

「これは印刷しない方がいいね。色は黒しか出ないんだ」

「いいわ。時々鏡で眺めてもいいでしょ」

「ああ」

ティアーナは嬉しそうにそのページに手を当てて、感触を確かめた。それからふと思いついて、ユリウスに話しかけた。

「ねえ、北の海には島があって、そこに竜が住んでるって話、ほんとのことなの?」

「本当だよ」

「竜を見たことあるの?」彼女は息せき切って尋ねた。

「あるよ」

「ほんと!?見せて!!」

子供のようにせがむティアーナに、ユリウスは戸惑いの表情で彼女を見たが、結局は彼女の言う通りにした。鏡の中に竜が浮かんだ。全身に青い鱗が張り付き、腹は銀青色、背は黒みがかった青で、その背から青い大きな翼が生えている。長い尾、鋭い爪を持つ四足、顔は細長く、裂けたような大きな恐ろしげな口と気味の悪い黄色いギョロリとした目、それが彼の見た竜の姿だった。ティアーナはまばたきもせず、それを見つめていた。

「これが竜なの?大きさはどのくらい?」

「頭の先からしっぽの先までで、1.5メールくらいだな。翼も広げると同じくらい。ちょうどこの部屋の斜めの長さかな」

ユリウスは部屋の片隅の天井を指し、それから斜め向かいの床を指した。

「大きいのね。想像つかないわ。それになんて恐ろしい顔。人を襲ったりしないの?」

「竜は幻獣だもの。そんなことはしないよ」

「そうよね。ねえ、これは印刷して」

「いいよ」

その竜の絵は海の絵があるはずの白いページの隣に描かれた。

「ありがと、ユーリ。いい物語の種ができたわ」

ニコニコして言うティアーナに、ユリウスはあきれた顔を向けた。

「それが目的だったのか」

「ウフフ……」ごまかすような照れ笑いを浮かべた後、ティアーナは真顔に戻って尋ねた。

「でも、術をこんな私事に使っていいの?」

「いいさ、このくらいなら。この家の中で使う限りは他に影響はないし……。これできみの気が紛れるなら結構なことだよ。久し振りだね、きみのそんな生き生きした顔見るの」

ティアーナはハッとしてうつむいた。

「また、そんな顔しないで」ユリウスは立ち上がり、ティアーナの腕を軽くつかんだ。

「せっかくきみらしい顔に戻ったのに……。ほら、続きをやってごらん。わたしは隣の部屋にいるから、わからないことがあったら呼んで」

切なそうな表情を浮かべるティアーナにユリウスは笑いかけ、それから仕事部屋へ入っていった。


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