第10場 3・誓いの日 - 第11場 4・迷妄の森

テラスに出たパウルはティアーナを探した。テラスにもその外の庭にも、ティアーナとミカエルの姿は見えなかった。

(おかしいな……)

そんなに遠くに行くはずはないと思って、もう一度よく見回すと、庭の片隅の植え込みの側に二人が背を向け、しゃがみこんでいた。パウルはそっと背後に近づいた。二人は地面を眺めているようだった。

「何してるの?」

急に声をかけられて、ティアーナはびっくりして振り返った。それがパウルだったので、彼女はまた赤面する羽目になった。ミカエルは父親に抱きついた。

「ちちうえ!」

パウルは軽々と息子を抱き上げた。

「よしよし、ミカエル、何をしてたのかい?」

「あり。あり、いっぱいいたよ」

「あり?」

「蟻の行列を見ていたんですわ」

恥ずかしそうにティアーナが言った。パウルは目を輝かせてティアーナを見て、楽しそうに笑った。

「ハハハッ……、あなたは本当に面白い人だ。お楽しみ中申し訳ないが、少しお話ししてもいいだろうか?」

「わたしも公爵さまにお話しすることがあります」

「それはちょうどよかった。ミカエル、父上はティアーナとお話があるからね。母上のところへお行き。誰か!!ミカエルを頼む!」

侍女が急いで駆け寄り、ミカエルを引き取り連れて行った。

「あそこで話しましょうか?」

パウルは涼しげな木陰のベンチに誘った。そこへ歩きながら、パウルはティアーナの顔を不思議そうに覗き込んだ。

「あなたはどうしてわたしと話す時、赤くなるの?」

ティアーナはパウルの顔を見ないようにして答えた。

「町の女でも、村の女でも、バイオンに住む女なら誰だって、あなたとこんなに間近で話して、赤くならない人はいないと思います」

「そうかな?」

「そうですよ」

ティアーナは前を向いたまま、小さな声で、しかしきっぱりと言い切った。

ティアーナをベンチに座らせて、パウルは話を促した。

「さあ、あなたからどうぞ。話って何です?」

ティアーナはためらってうつむいていたが、思い切って話し出した。

「公爵さまは勘違いされてます、ユーリとわたしのこと。わたしたちは好き合って結婚したのではありません」

怪訝な顔をしているパウルに、ティアーナは自分たちの結婚のいきさつを話した。

「それじゃ、ユリウスはあなたの運命を引き受けるために結婚したの?」

「そうです。ユーリは自分は恋愛感情がなくなってしまった人間だと、わたしにはっきり言いました。わたしはそれを承知の上で結婚したんです。占いではわたしたちには子供ができないそうですし、きっと普通の女の幸福は得られないだろうと……。でもわたしはもう、多くは望みません。ユーリはわたしと共に生きていくと誓ってくれました。それで充分なんです」

「そうだったんですか。わたしの早とちりだったわけだ。あなたとユリウスは仲もよさそうだし、てっきり……」

「仲がいいのと、愛し合っていることとは違いますわ」

ティアーナはほんの少し寂しさの混じった笑みを見せた。

「それはそうだが……」

パウルは何か言いたそうに口ごもったが、軽く首を振り、別のことを告げた。

「ティアーナ、あなたの気持ちも知らず、余計なことを言ってしまって、済まなかった。どうかお許し下さい」

「いいえ、いいんです。わたし、公爵さまがユーリのこと、とても大事に思っていらっしゃるの、よくわかりましたから。あなたは本当にユーリの良きお友達ですわ」

パウルはまた目を細めてつぶやいた。

「あなたって人は……」

「はい?」

「いや、何でもないよ。こちらの話をしていいかな?」

「はい」

「実はあなたにお願いがある。あなたにしか頼めないことだ」

パウルの表情が一変していた。彼の明るい表情を作っている水色の瞳には厳しい光が宿り、さっきまで軽口をたたいていた彼の口元は――エリーザがねじ曲がったと言っていたように、整ったきれいな顔の中で、彼の口だけは話す時皮肉っぽく歪められることがあった――きりっと引き締められていた。真剣な眼差しで見つめられ、ティアーナは胸の鼓動が大きくなるのを感じた。

「あなたは“世界の変動”についてご存知か?」

「いいえ」ティアーナは目を見開き、不安な顔をして答えた。

「修道院で教わらなかった?」

「聞いてません。何ですか、それは?」

パウルはティアーナの問いに答えず、建物の方へ目を移した。

「そうか、ではユリウスが口止めしたのだな。あなたに、起こるかどうかもわからぬことで、余計な心配をさせないように……」

パウルは再びティアーナを見つめた。

「でもわたしは、あなたに言わなければならない。それが起こる可能性がある以上、あなたに知ってもらった上で、わたしの願いを聞いて欲しいからだ」

パウルの口調はやさしかったが、見つめる目は厳しいままだった。ティアーナはもはや、パウルを意識するどころではなく、不安に押しつぶされそうな気持ちで、彼を穴のあくほど見つめた。

「今から30年前、そう、ユリウスが生まれた年に、わたしの父は爵位を継ぎ、その時この国の将来を、大学の老師たちに占ってもらったのだ。父は心配性だったからね。国の未来に少しでも不安な芽があるなら、できるだけ早く摘み取りたいと思っていた。だが、その時現れた予見は、父の思惑を遥かに越えたものだった。“世界は新しい局面へ向かって変動しようとしている”“天に、地に、人々の中に、力の源が様々に生まれ出で、それらの力が変動を導くであろう”こんな予見がいきなりはっきりと現われ出たのだから、皆たいそう驚いたそうだよ。老師たちはこの予見をどう解釈するかずいぶん調べたそうだけど、結局わからず、予見も二度と現れなかった」

変動……、力……、いったい彼は何を言おうとしているのだろう――皆目見当がつかず、ティアーナは黙ってパウルの言葉を待った。

「予見など不確かなものだ。いつ、どのように起こるのか、そもそもそれが本当に起こることなのかどうかも、わからないのだからね。現に30年間、大学はずっと監視を続けているが、これといった変化は認められていない。ユリウス以外には」

「ユーリが!!どうして?」

ティアーナは思わず口を挟んだ。パウルは諭すようにしてティアーナに語った。

「考えてもごらん。彼の力はクルトの世界では普通かもしれないが、この世界には有り余るものだ。彼は言わば、静かな水面に投げ込まれた石のようなものだよ。彼の存在そのものがすでに変動と言っていいぐらいだ。老師たちは予見が正しいのなら、彼は“力の源”の一つだろうと言っていた」

「ユーリがその変動を導く力なのですか?」

おびえたようにか細い声でティアーナが聞いた。

「まだ決まったわけじゃないよ、ティアーナ。可能性があるだけだ」

「でも公爵さま、確かにユーリの力はすごいと思いますけど、あの人がそんなに特別な存在だなんて、わたしには思えません」ティアーナは必死になってパウルに言いすがった。

「あなたはユリウスを恐ろしいと思ったことはないの?」パウルは静かに聞いた。

「恐ろしい人に見えませんもの。あっでも、一度だけ……」

ティアーナは昨日の誓約式のことを思い出していたが、そのことは黙っていた。

「たった一度だけ?ほんとに?」

パウルは驚いて聞き返した。その瞳に少しだけいつもの明るさが戻った。

「あなたはよほど鈍感なのかなあ。おっと、失礼。また言い過ぎた。たいていの人はね、ユリウスに会う時、いつでも恐れを感じるんだよ。わたしたちバドゥの民は、賢者やマスターのように訓練を積んだ者でないと、気を見ることはできないけど、彼が生まれながらにして持っている力の特性のようなものは感じることができる。それはとても神性に近いものだ。だから人は彼を恐れる。」

「公爵さまも?」

「そうだよ。でも、わたしやエリーザには人一倍強い好奇心があるからね。恐れよりも好奇心の方が勝っている、今のところはね。それにしても、どうしてあなたは感じないのだろう?」

「きっと鈍感なのですわ」

「さっき言ったのは冗談だよ。大体、一目でわたしの気持ちを見抜いたあなたが鈍感であるわけがない。あなたにはきっと恐れを越えられる何かがあるのだろう。だからこそユリウスはあなたを受け入れた」

「………」

「ユリウスを特別な存在ではないと思っているのは、このバドゥの世界ではたぶんあなたと彼の亡くなった父親だけだ」

「ユーリのお父さん?」意外な人物がパウルの口から出てきて、ティアーナは驚いた。

「賢者アステルがユリウスを連れて大学に戻った時、老師や賢者たちは“アルクルト”がこの地にもたらされたことの意味を図ろうとした。しかし彼は、意味などないとあっさり言ったそうだよ。あなたにとっても、きっとそうなんだろうな」

「意味……」

「でもね、ユリウスの存在はやっぱり意味のあることなんだよ。わたしの父にとって、ユリウスの出現は予見の具体化に他ならなかった。父は恐れていた。世界の変動とは、ユーレシア200年の平和の崩壊を意味するのではないかとね。わたしは後継ぎになってから、父にずっとその話を聞かされてきた。いい迷惑だったよ」

パウルの口から皮肉な微笑がこぼれた。

「わたしには兄がいてね。本当なら兄が家督を継ぐはずだった。だが兄は、わたしが13の時に亡くなり、わたしにお鉢が回ってきたんだ。父の話を聞くたび、腹立たしかった。なぜ、よりにもよって、そんな時にわたしが後を継がなくてはならないのか、なぜわたしなのかと思ってね。ずっと恨みに思っていたよ。もし運命というものがそうさせているのなら、そいつをね」

パウルは庭の木立に目をやった。そしてそれを眺めながら話を続けた。

「わたしは父の不安の元になったユリウスに興味を持った。アルクルトと呼ばれるその子供が、どれほどの力を持っているのか知りたくなったんだ。中等科の途中から同じクラスに入ってきた彼は、恐ろしく頭のいい子供で、人に馴れない猫のようなやつだった」

「猫?」

「そう。かまってもたいていは無視される。でも度が過ぎると、黒い目をギラつかせて威嚇するんだ。それ以上かまうと鋭い爪でひっかくぞってね。そんな猫のようなやつだったよ。その頃のわたしはひねた子供でね。面白がってちょっかい出していた。手を差し出しといて、ひっかかれる寸前に引っ込める……、新しいおもちゃを手に入れた気分だった。だが、調子に乗りすぎて、ひっかかれたことも何度かあってね。そんなことをしているうちに、彼の苦しみが見えてきた」

「………」

「同じだった。彼もなぜ自分なのかと思っていたんだ。そう望んで生まれてきたのではないのにとね。わたしの悩みより、彼の苦しみの方がずっと深かった。いつだったか、彼が自分の血がその力をもたらすのなら、全て抜き取って捨ててしまいたいとわたしに言ったことがある。わたしは軽い気持ちで、そんなに嫌ならそうすればいいじゃないかと彼に言った。そしたら彼、どうしたと思う?」

ティアーナはわからないと言うように首を振った。

「彼は持っていた小さなナイフで、いきなり手首を切ってみせた。驚いたよ。でももっと驚いたことには、見ているうちに、その傷口が光の泡のようなもので包まれ、光が消えた時はもう傷口はふさがっていた。彼は、自分には自分が直ろうとする力を止められない、2,3度試してみたけど、いつも勝手に直ってしまうから、ばからしくなって自殺のマネはやめたんだと歪んだ笑みを浮かべて言った。人と違う力を持つことの苦しみはわたしにはわからない。いつしか、わたしのちょっかいはおせっかいに変わったよ」

「それでお友達に?」

パウルはうなずいた。

「嫌がりながらも、あいつはあいつなりに、わたしに興味を持ってくれたみたいでね。そのうち側にいても嫌がらなくなった。それからは、二人でよく授業をサボったりしてたな……。父が亡くなって、後を継いだわたしは考えた。もし予見通りのことが起こるとすれば、彼の力がどう働くのかと。とりあえず、彼をわたしの側において、味方にしておくしかないと思った。どんなことが起こるにせよ、敵にはしたくなかった。だが、それは無駄な努力だと彼が旅に出ている間に悟った。わたしには彼を縛りつけておくことはできない。そしていつそれが起こるとも限らない」

「公爵さま」敵だなんてそんな――そんな言葉は聞きたくないとティアーナは思った。

パウルはティアーナに真剣な目を向けた。

「何が起ころうと、ユリウスがどうなろうと、わたしは彼に協力したい。しかし、わたしはこの国の領主、バイオン公だ。もし万が一、ユリウスがわたしの国に害を及ぼすことになったら、わたしは彼の味方ではいられない」

「公爵さま!そんなことおっしゃらないで!!」

悲しげに眉を寄せて叫ぶティアーナに、パウルはひざまづき、思いつめた表情で見上げた。

「だから!あなたに、ユリウスの味方になって欲しいのです。いつでも、どんな時でも、たとえ世界中を敵に回したとしても、あなただけはユリウスの味方であって欲しい。お願いします。あなたにしかできないことなんだ!」

「味方……、わたしが?」パウルの語気の勢いに押され、ティアーナは言いよどんだ。

「そう、味方だ。やつは味方などいらないと思っているだろう。あなたにだって、それを期待などしていないはずだ。しかしね、どんなに力が強くたって、味方はいた方がいい。人間なら誰だってそうだ。それは力じゃなく、気持ちの問題だから。わたしはそう思う。ずっとそう思ってきた。ずっとこの時を待っていた。あなたさえ承知してくれれば、ようやくわたしの願いがかなうわけだ。ティアーナ、もしかしたらあなたにとって、それはとても辛いことになるかもしれない。だがわたしの願い、どうか聞き届けて欲しい」

ティアーナは表情に少し明るさを取り戻した。暗い雲間から射し込む、一筋の光を見ている気分がした。

「公爵さま……、それがわたしにできることなのですね」

「ティアーナ」

「わたし、ずっと考えてました。ユーリは、それが自分にできることだからと言ってわたしと結婚してくれたけど、じゃあ、わたしはユーリに何ができるのだろうって……。公爵さまとユーリが仲違いするなんて、絶対にないとわたしは信じます。でも、わたしはユーリの味方になりますわ。わたしたち、誓約式で賢者の定めを分かち合う約束をしたけど、もしユーリが賢者でなくなったとしても、わたしと共に生きてくれる限り、わたしはユーリの味方でいます」

パウルは感激の面持ちで、ティアーナのひざに置かれた手を取った。

「ありがとう、ティアーナ。嬉しいよ。あなたの言葉は精霊の慈雨のように、わたしを潤してくれた」

彼はティアーナの両手を両手で包み込み、しっかり握った。

「ユリウスのこと、よろしくお願いします」

「わ、わたしの方こそ……」

両手を握られ、じっと見つめられて、ティアーナはまたパウルを意識せざるを得なかった。カーッと頬に血が上ってくるのを感じながら、彼女はパウルの瞳に見とれた。パウルはふわりと軽く笑い、立ち上がるとティアーナの肩をたたいた。

「さあ、戻りましょう。あまり長いこと二人でいると怪しまれてしまう。それとも、怪しまれるようなことしましょうか?」パウルはいつものように軽口をたたいた。

二人が部屋に戻ると、エリーザがミカエルをひざに乗せ、子供の成長の話をユリウスに聞かせていた。

「遅かったね。何話してたの?」邪推のない声でユリウスが聞いた。

「あなたのこと」ティアーナは微笑みながら答えた。

「わたしの?」

「そう。あなたは子供の頃、かまいすぎるとひっかいてくる、人に馴れない猫のような子だったって」

「やめてくれ、昔の話なんて」ユリウスは手を振りながら苦笑いした。

「ティア、そろそろ行こう。森に戻るのが遅くなる」

「はい!」

森と聞いたとたん、目を輝かせてティアーナは元気よく返事した。それから、エリーザに話しかけた。

「ねえ、エリーザ。わたしが着てた服、まだあるかしら?」

「こちらに運んであるけど、着替えるの?」

「ええ」

「ドレスはどうするつもり?」

ティアーナは輝く瞳をくるくると光らせて、エリーザの瞳を覗き込んだ。

「預かってていただける?エリーザ、ドレスは森の暮らしには必要ないんですもの」

「ティアーナ、あなた本当に森に住むのね。寂しくない?」

エリーザは自分ならとても我慢できないと思いながら尋ねた。

「平気です。わたし、東の森が好きですもの。それに村に出れば父も母もいるし、シスター・ロージナや子供たちもいるから。たった一人で他国に嫁いできたエリーザに比べれば、わたしなんて恵まれているわ」

「ティアーナ」

エリーザはティアーナの言葉に感激して、立って彼女の側へ行き、彼女の手を取った。

「またお城へ遊びに来てね。無理ならお手紙でもいいわ。必ずちょうだい」

「ええ、そうするわ。それじゃ、わたし着替えてきますから。ユーリ、ちょっと待ってて」

明るい声を残して部屋を出て行くティアーナを、3人はそれぞれの思いを抱きながら見送っていた。


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