3・誓いの日 4・迷妄の森 - 第1場 第2場

4・迷妄の森

フリルド村の東に、うっそうと広がる“東の森”。そこに住む人は何家族かの木こりたちと、“東の森の賢者”だけだ。人里離れたその森の中の家で、ティアーナの新しい生活は始まった。新しい生活といっても、することはこれまでとほとんど変わらない。掃除、洗濯、食事の支度、畑仕事に薪割りなどの雑事は、田舎育ちの彼女にとっては、ごく当たり前の仕事だった。そして彼女は相変わらず週に3回、子供の家へ通い、子供たちの面倒を見ていた。森の家から村へ通うのは、馬を使っても2時間近くかかってしまうが、ティアーナはそれほど負担に感じていなかった。それというのも、夫ユリウスが週の半分は家にいなかったし、いても自分でできることは何でもやり、手が空いている時は家事もやってくれたので、夫の世話と家事にかかる時間が思った以上に少なかったからだった。

ユリウスの生活はとても不規則で変わっていて、朝決まった時間に仕事に出て、決まった時間に戻る男しか知らなかったティアーナには、新鮮な驚きだった。週に一度の講義と二度の研究会、その合間に不定期に回ってくる観測当番、それに月に三度の諮問会議、必ず大学及び城へ行かなければならない日はそれだけだが、彼は必要とあらば、いつでも大学へ出かけた。そして用事が済むといつでも帰ってきた。つまり彼には、決まった時間に仕事に行くという感覚がなかったのだ。朝出かけたきり夜になっても帰ってこず、明け方にひょっこり戻ってきたり、夜中彼女が寝ている間に出かけて、真っ昼間に帰ってきたり、一日中仕事部屋にこもっていたかと思うと、知らない間にいなくなっていたり、彼女が一人黙々と畑仕事をしている時に、突然現れて手伝ってくれたりという調子だった。

しかもユリウスは闇の道を使うので、家の戸口などあってないようなものだった。家で闇の道を使う時は、仕事部屋に限っていたので、ティアーナの目の前で闇を開くことはしなかったが、それでもいつの間にか部屋から消えていたり、いないはずの人がいきなり部屋から出てくることに慣れるまで、彼女は多少苦労した。しかし慣れてしまえばどうということはなく、たまに彼が森で寄り道をしながら帰ってきて、ちゃんとドアから入ってくると、かえって驚くようにすらなった。

ティアーナの生活もそれにつられて不規則になり、以前は子供の家へ通うのも曜日を決めていたが、今はユリウスやシスター・ロージナの都合に合わせて通うようになった。2日続けて村にいる時は、実家に泊まることもあったので、2,3日ユリウスと顔を合わせない時もあった。旅に出たわけでもないのに、夫婦が顔を合わせない日が3日も続くなんて、おかしなことだとティアーナは思ったが、それを不満に思うことはなく、当たり前のように過ごしていた。

神出鬼没のユリウスの行動に、ティアーナ自身は慣れることはできたが、彼女の予定が立たないという不都合はどうしてもあった。その不都合を解消してくれたのが、寝室に置かれた魔法の鏡だった。その鏡の魔法とは、人の思念を写し出すもので、“心話”の呪文を使って鏡に思念を送れば、言葉は文字となって、映像は絵となって鏡面に浮かび上がるのだった。

「きみが心話を使えればいいんだけど、心話は送るより受ける方が難しいからね」

ユリウスはそう言って、鏡の使い方をティアーナに教えた。彼女は呪文を唱えて、言葉を思い浮かべることに集中し、ようやく鏡に文字を写すことに成功すると、嬉しそうにその文字を眺めながらユリウスに言った。

「もしわたしが心話を使えたとしても、鏡に伝言を送ってくれた方がいいわ」

実際に、二人が暮らしていくうちにでき上がっていく夫婦間の小さなルールの中で、この鏡の伝言板はティアーナにとって、楽しいルールの一つだった。うすぼんやりと光る鏡の中の短いメッセージのやり取りは、彼女の毎日に一滴の潤いを与えた。

二人が家にいる時は、ユリウスはできるだけ時間を作って、ティアーナを連れて森の中を歩いた。不規則な生活を送っている彼がそうした時間を作るのは、大変なことだろうとティアーナは気遣ったが、そのために睡眠時間が減ったり、食事が取れなくなっても彼は平気な顔をしていた。そうでなくても、普段からユリウスはいつ寝てるのだろうと思うほど睡眠時間が少なく、それで足りるの?と聞いてしまうほど少食だった。それもティアーナにとって驚くべきことだった。

森の中を知るのは、ティアーナにはとても重要なことだった。まず第一に、地理を知らなければ家に戻ることすらできない。初めのうちは、結界の中の道もきちんと教えてもらったにもかかわらず、村から家に戻る時でさえ迷って、青カケスのお世話になる始末で、よくユリウスに「ティア、森の中で暮らすのに方向音痴は致命的だよ」と言われて笑われていた。だから、彼女は少しでもたくさん森を歩いて、どの道がどこに通じているか、目印の木や泉、親しくしている木こりのデイル一家やサムソン夫婦の家のある場所などを覚えなければならなかった。

それからユリウスは森の生き物について、ティアーナに教えた。木や草の名前、食べられるもの、毒になるもの、薬になるもの、鳥や獣、虫たちの様子、そして危険なものに出会った時、無事にやり過ごす術……。季節が変われば森も姿を変える。教わることはいくらでもあった。

時として二人は興味の趣くまま、一日中森をさまよい歩いた。そんな時でも、ティアーナは森を歩くことを少しもいとわなかった。田舎の生活が作った彼女の丈夫な体は、一日中歩いてへとへとに疲れても、夜ぐっすり眠れば朝にはまた元気になることを知っていたし、ぬかるみに足を突っ込んで泥だらけになったり、木の根につまづいて転んだり、そんな嫌になるようなことも、ユリウスが側にいれば不思議と気にならなかった。彼にとっては、意地悪な木の根もぬかるみの泥さえも、森の親しい存在だった。ティアーナはユリウスと共に、それらに親しむことを覚えた。そうやって、彼のように全てを柔らかく肯定的に受け入れれば、森も彼女を優しく受け入れてくれる。そして心も体も森の息吹に満たされて見渡せば、森は生き生きとした輝きに包まれているように感じた。これもユリウスの力の一つなのだろうかとティアーナは考えた。しかし彼女にとっては、それが力によるものであろうとなかろうと、たいした問題ではなかった。彼女はあるがままの彼に従い、森を歩くことを楽しんだ。

覚えたことが増えていくにつれ、生活の中の無駄な時間がなくなっていき、ティアーナは新しい仕事に手をつけることができた。ユリウスに薬草の扱い方を教わり、畑で育てている薬草や森でその時期に生えているものを採ってきて、乾燥させて粉にする、そうした作業も彼女の仕事になった。簡単な薬の調合まで教えてもらい、彼女はすっかりユリウスの弟子になった気分だった。


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