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籠所のベッドに座り、ぼんやりと月を見ていた時、ユリウスはそれを感じた。意識の遠い所に何かの気配があった。彼は目を閉じて、その気配をもっと強く感じようとした。神殿は人の敬謙な心が積み重なっている聖域であり、その空気は硬く澄んで、邪気の入り込む余地もない。ユリウスは神殿に来ると、時々その澄み切った空気の中でそれを感じた。
(オオイナルモノヨ……)彼はクルトの言葉でそれに呼びかけた。
(オオイナルモノヨ、ワタシハ ナニモノカ)
それはいつもユリウスがそれに問いかける言葉だった。心を静かにして彼は答えを待った。しかしいつもと同じようにそれは遠い所に在るだけで、答えは返ってこなかった。
(オオイナルモノヨ、ワタシハ ナニモノカ、ナンノタメニ ココニ イルノカ)
彼はむなしく問い続けた。そしてまた心を澄ませて答えを待った。問いかけてから、どのくらいが経ったのだろう。やがてその気配は消え、その代わり、一人の全く見知らぬ男の顔が心に浮かんできた。白っぽい髪を長く伸ばし、顔は白い髭で覆われ、歳を取っているようなのに顔にはしわがなく、若いようにも見えた。その老人とも若者とも見える男は、ユリウスをじっと見据えたまま言った。
「オマエガ ナニモノカ、ソレハ オマエニシカ ワカラナイ」
言い終わるか終わらないかのうちに、男の顔は老女の顔に変わった。
「オマエガ ナニモノカ、ナンノタメニ ココニ イルノカ、ソレハ オマエニシカ ワカラナイ」
老女の顔は子供の顔に、みすぼらしい乞食の顔に、光り輝くような美しい女の顔に、セムの大陸に住むつややかな黒檀のような肌をした男の顔に、立派な角を持つ鹿の顔に、昔、竜の島で見た青い鱗の竜の顔に変わっていったが、彼らの発する言葉はみな同じだった。
「……、ソレハ オマエニシカ ワカラナイ……」
最後に現れた竜は、しかしもう一言付け加えた。
「ソレヲ ワレラニ トウテモ ムダナコト。ナゼナラ ワレラモマタ、ワレラガ ナニモノカ シラヌノダカラ」
竜は言い終わると、青い翼を広げて飛び去り、後には薄暗い青い闇が残った。ユリウスは青い闇の中に一人でいた。上下左右なく、広がる闇の中のたった一人の存在だった。時の動きすら感じられないような静寂に包まれ、彼は深い孤独を静かに受け止めていた。しかし、しばらくすると、闇の中にまた何かの気配がした。それは近づいてくると、一人の男の姿となって、闇の中から浮かび上がってきた。今度は知っている顔だった。
「パウル」
ユリウスはその人物に呼びかけた。パウルは意地の悪い笑顔を浮かべて言った。
「ユリウス、なぜ結婚する気になった?」
以前、同じ問いをされたことを思い出し、ユリウスも同じ答えを言った。
「ただ単に、気が変わっただけさ」
すると、パウルの歪んだ口が耳の近くまで裂け、その顔と姿は小さな鬼のそれに変わっていた。小鬼はユリウスを嘲笑った。
「気が変わっただと?ケケケ、バカなことをしたもんだよ、あんたも」
「おまえは何者だ!?」
気色ばんだユリウスが問うと、小鬼は愉快そうに腹を抱えて笑った。
「ケーッケッケッ、なんとまあ、陳腐なセリフ!!ケケケッ、あっきれたヤツだね!自分が何者かも知らないのに、オイラにそんなこと聞くなんて!フン、オイラはあんたの心の中の邪鬼さ、わかってるくせに。こんな聖域でオイラを呼出すなんて、あんたもたいしたタマだね」
「呼出した覚えはない」ユリウスは怒りを押さえて言った。
「なーにを言ってる?あんたが呼ばなきゃ誰が呼ぶのさ?あんたが迷っているようだったから、こうしてわざわざ出て来てやったんだよ。あんたにご忠告申し上げるためにね。なあ、結婚なんざするもんじゃないよ。このままだとあんた、自分の求めるものから遠く離れちまうよ」
「そんなことはない」
ユリウスは小鬼をにらみつけたまま反論した。小鬼は馬鹿にした表情で肩をすくめた。
「おおありだよ。バカなヤツ!!ケッ、あんたにとって、女は足手まといにしかならないよ。あんたがどんなに真理の道に近づこうとしても、女はあんたの邪魔をするさ。そのうち、あんたは女を捨てなきゃなんないかもね。ケケケケ……」
小鬼はケタケタと笑いながら、あたりを飛び跳ね回った。その姿を見ているうちに、ユリウスは心が静まってくるのを感じた。
「鬼よ、確かにおまえの言うとおりかもしれない」
静かに言うユリウスを見て、小鬼は跳ねるのをやめた。そして大きな目で彼をギロリとにらみつけたが、また耳まで裂けた口で笑った。
「ケッケッケッ、そう思うんなら、今すぐここを出ようよ。その腕輪を捨ててさ、ねぇ……」
ユリウスは首を横に振った。
「確かにおまえの言うとおりかもしれない。だが、違う可能性だってあるかもしれない。それは今はわからないことだ。いずれにしても、わたしはここを出るつもりはない」
小鬼は顔色を変えた。
「じゃ、あんたはこのままでいいのかい?そこにとどまったままで?ハッ、もったいないことだ。今ここから出て行けば、あんたはもっと大きな力を得られるのに?来るべき変動の時に、求めるもの全てを手に入れることだってできるってのに?」
「わたしに狂王ガルヴァナスのようになれと?それこそ愚かなことだ」
「愚か!?あんたにそんなことが言えるのかい?あんただって、求めてるものがあるじゃないか。今までずっと追い求めてきたのに、それが妨げられようとしてるんだよ!妨げるものは排除するのが当たり前じゃないか」
ユリウスは目を吊り上げて言い立てる小鬼を見つめた。
「妨げになるかならないかが問題なのではない。大切なのは求めることではなく、求めようとする心だ。鬼よ、そうは思わないか?求めるものに到る道は一つではないし、得るものも決まってはいない。だから、心さえあれば、いつかどこかへたどり着き、何かしら得るものがあるはずだ。わたしはそれでいいと思う。もちろん、状況が少し変わったくらいで、わたしの心は変わりはしない」
小鬼は真っ赤になって怒り出した。
「ハン、バカバカしい!あんたいつから、そんなに物わかりよくなっちゃったんだよ。ケッ、悟りきった顔しちゃってさ」
ユリウスは小鬼に微笑んだ。
「悟ってなどいない、鬼よ、そうだろう?おまえは今でも、わたしの内にいるじゃないか」
小鬼はユリウスの微笑に苛立ち、唸った。その目が残酷に光り、裂けた口で吠えた。
「おまえなんか……、おまえなんか、あの時食べちゃえばよかったんだ!!」
小鬼は膨れ上がるように大きくなり、かつて彼が滅したセムの食人鬼に姿を変えた。鬼は恐ろしい唸り声を上げながら、血走った目でユリウスをにらみ、鉄のような爪で彼をつかんだ。抵抗する間もなく、ユリウスは鬼の大きな口に入れられた。牙からしたたる唾液が彼の体に降りかかり、そのまま闇に飲み込まれるその瞬間、彼は目を開いた。窓の外の空は、すでに夜明けを迎えようとしていた。
(いつの間にか眠っていたのか……)
ユリウスは大きく息を吐き、ベッドに横になった。鬼の爪が体に食い込んだ時の痛みと、粘ついた液体が体に絡みつく感触がまだ残っていて、気分が悪かった。窓に見える明け方の白っぽい空の色を見ながら、彼は呼吸を整え、また目を閉じた――
ユリウスは緑の森の中を、黒い服の男の後ろについて歩いていた。男の背中には見覚えがあった。男は立ち止まり、ゆっくりと振り返って言った。
「ユリウス、おまえは何を恐れるのだ?」
ユリウスはその男に向かって訴えた。
「恐れてなどいません。わたしはただ、この世界にわたしがどう関わっているのか、知りたいだけなんだ、父さん!」
ユリウスの父は、ユリウスが幼い頃には決して見せたことのなかった、灰色の厳しい目を彼に向けた。
「おまえは河のほとりにいる者だ。おまえはそのほとりにいて、やがて流れの変動に手を貸すことになろう。だが、おまえの手が加わったことで、流れがどのように変わったとしても、おまえにはそれが良きことか悪しきことか判断することはできない。なぜなら、おまえもまた河の一部だからだ」
「父さん」
「河は流れていく。誰にも止められない。誰もその行き先を知らない。おまえはその時、すべきと思うことをするしかないのだ。さあ、行きなさい。おまえの今、いるべき場所へ」
父は森の出口の明るくなっている方を指差した。去りがたい気持ちを残しながら、ユリウスは父の言葉に従って、森の出口へ歩いて行った。
森を抜けると、そこは広い河の土手の上だった。エルツ河の3倍はありそうな広い河面を見下ろすと、暗い流れの中に空の星々が瞬き、その星宿の中をゆっくりと土星が横切っていくのが見えた。不思議な思いで眺めていると、それはやがて流れの中へ消え、今度は月の光射す森の影が見えた。ウラジロガシの白い葉裏がちらちらと揺れ、それは河面の水のきらめきになり、さらにそれはたくさんの人々のさざめきへと変わった。どこかの街の大通りを人々が通り過ぎていく。ユリウスは河に映るその光景を飽かず眺めていた。しかし、白い霧が流れ来て、あたりを真っ白に包み、河の流れを隠してしまった。
ユリウスは河原へ降りていった。霧がゆっくりと流れ去ると、河は一面の浅瀬に変わっていた。その浅瀬の中を、ずぶぬれの女がよろめきながら歩いていた。女は時々何かを探すようにあたりを見回し、またのろのろと進んだ。ユリウスは黙って女を見ていた。浅瀬の石に足を取られ、女が転んだ。立ち上がろうとした時、女はこちらに気づき、ゆっくりと近づいて来た。ユリウスは女の顔を見ようとしたが、濡れた長い髪に隠れて見えなかった。女がまた転んだ。しかし、今度は立とうとせず、その場に座り込んだ。思わずユリウスは女の方に向かって跳躍した。彼女との距離は3メール1ほどあったが、彼は軽々と飛び越えて、すぐ側に着地した。女は顔を上げてユリウスを見た。
「ティア……」
全身濡れそぼったティアーナがうつろな目で見上げていた。頬に光る水のしずくが涙のように見えた。ユリウスは手を差し出した。ティアーナは差し出された手を見て、それからまたユリウスを見上げながら手を伸ばした。二人の手がまさに触れ合おうとする寸前に、彼は目を覚ました。
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