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日々は瞬く間に過ぎ、修道院に入る日が近づいてくると、ティアーナの気持ちもさすがに期待より不安の方が大きくなっていった。彼女はユリウスからの伝言を伝えにきたドーラをつかまえて、あれこれ尋ねた。ドーラは自分がまとめた話だからと言って、喜んで二人の間に入り、何くれとなく世話を焼いていたが、大学や修道院のことは聞かれてもよくわからないと顔をしかめた。
「だってそうだろ。あたしはガイル山の魔女の館に属する者なんだよ。500年前この地におわした精霊が西の島へ去り、精霊の御言葉を伝えた巫女たちはガイル山にこもった。その巫女たちがあたしたち魔女の“母なる者たち”さ。大学とは全く系譜が違う。あたしに聞くのはお門違いだよ」
「そうなの」ティアーナはがっかりしてうつむいた。
「そりゃあ、昔からお互い交流はあるから、共通の知恵も術もあるがね。術は同じでも、呪文は違うのさ」
「それは前にユーリから聞いたわ」
「修道院のことなら、シスター・ロージナにお聞きよ」
「それもそうね」
ティアーナはふくらんでしまった不安を、今度はロージナにぶつけた。ロージナは急に弱気になっているティアーナに優しい笑顔を向けた。
「どうしたの、ティア。修道院に入るのを、あんなに楽しみにしてたじゃないの」
「だって、修道院のシスターたちが、何十年かぶりに賢者の妻になる者を迎えるから、張り切って準備してるって聞いたら、なんだか怖くなって……」
ロージナは明るく笑った。
「大丈夫よ!先生やシスターは誰もあなたをいじめたりしないわ。そりゃ、中には厳しい方もいらっしゃるけど、それは教え子を思ってのことなのよ」
「ねえ、ロージィ、修道院と大学ってどういう関係なの?勉強する内容は別なんでしょ」
「専門は確かに違うけど、基礎的な学問は一緒よ。わたしたちシスターも大学の老師さまに来ていただいて、教えを受けるの。もともとユーレシアにあった天文や暦や医薬の技術は神殿のものだったけど、戦乱の世を経て、祭司は神と人との仲立ちをする役目のみを果たすようになって、技術のほうは専門家が伝えるようになったの。それが賢者の由来よ。クルトの知恵だけでなく、神殿の祭礼に必要な暦などの知識も大学が伝えてるから、神殿にとって大学はなくてはならないものなのよ」
「ふーん」
「あなたの場合はきっと特別なプログラムが組まれているのね。でもその内容までは、わたしにはわからないわ」
「そうよね」相変わらず不安げな顔でティアーナがつぶやいた。
「まあ“あたって砕けろ”だわね。しっかりおやんなさい」
ロージナはティアーナを励まし、それからほおづえを突き、目を細めて昔のことを思いやった。
「ああ、修道院……、懐かしいなぁ。院長先生やシスター・サリアナはお元気かしら。もうずいぶんお会いしてないわ……。そうだ!久し振りにお手紙書こう。ねえティア、修道院に行ったらお渡ししてくれる?」
若い娘のように目を輝かせて頼み込むロージナに、ティアーナはようやく笑顔を見せた。
「ええ、いいわよ、まかせて」
それから数日後、ついにその日がやってきた。ティアーナは迎えに来たユリウスと共に、身一つで両親の見送る家を出た。二人はドーラの家へ向かった。大学への闇の道を開くための場所を借りることになっていたからだった。東の森へ戻るには時間がかかるし、村の中では人目につくからとユリウスがドーラに頼んでおいたのだ。ドーラは二人を快く迎えた。
「いよいよだね、ティアーナ。太陽(エイロス)と月(ルディア)と全ての精霊たちの名にかけて、おまえに幸あらんことを祈っているよ」ドーラはティアーナの手を取り、優しく握りしめた。
「婆さま、ありがとう」
「ドーラ、世話になったな」ユリウスも礼を言い、ドーラと握手した。
「なあに、あたしも嬉しいよ、あんたらの結婚を取り持ったのがこのあたしと世に知れ渡れば、あたしの魔女としての名も挙がるってもんだからね」
ドーラは茶目っ気たっぷりにウインクした。
「さあ、早くお行き」
ドーラは二人を裏庭へ案内した。そこは様々な木や草がうっそうと茂り、ひっそりとした場所だった。ユリウスはティアーナの手を握った。
「絶対に手を放しちゃいけないよ」
ティアーナがうなずくと、彼は自分の前に闇を広げた。握った手に力がこめられ、彼女の緊張がユリウスの手に伝わってきた。ティアーナはこわばった声でユリウスに聞いた。
「ねえ、目をつぶっててもいい?」
「だめ。自分が何をするのかちゃんと見てないと、恐怖は乗り越えられないよ」
ユリウスはきっぱりと言った。
「じゃあ、行くよ」
彼は闇の中へ入って行った。手を引っ張られてティアーナも闇の中に足を入れた。自分の手足が闇と交わるのを見て、彼女は思わず目をつぶった。その時、ユリウスが手を強く握った。まるで目を開けてと言われているような気がして、彼女は思い切って目を開き、体を闇の中に入れた。闇をくぐり抜けると、そこは薄暗い部屋だった。ティアーナはあたりを見回し、振り返った。もう闇は消えていた。
「どう?気分は」
ユリウスが聞くと、ティアーナは自分の体を見て、それから寒気をこらえるかのように、両手で両腕をかき抱いた。
「なんか、気持ち悪い。何かが、何かとても空っぽなものが、わたしの中を通り抜けた気がする……、あれは何?闇なの?闇を通った時、闇もわたしを通っていったのかな……、よくわからない。でも、いい気分とはとてもじゃないけど言えないわ……」
ユリウスはティアーナをまじまじと見た。
「えっ?わたし、変?」見つめられて、彼女はうろたえた。
「いや、きみって勘がいいなと思って。立派な魔女になれる素質があるよ」
「そうかしら?ねえ、それよりここどこ?」
魔女にはほとんど興味を示さず、ティアーナはもう一度あたりを見回した。
「大学のわたしの部屋。ちょっと待ってて、老師に連絡するから」
ティアーナが返事をすると、ユリウスは背を向けた。彼女は部屋の様子を見るために彼から離れた。部屋には、前に覗いたユリウスの家の仕事部屋と同じように、たくさんの書物の納まった書棚があり、片隅にはわけのわからない器具がいくつか並び、窓際に散らかしっぱなしの机と椅子が置かれていた。ティアーナは部屋の一隅に小さな絵が掛けられているのを見つけ、その前に行って絵を見た。それは40才位の賢者の肖像画だった。絵には“賢者・アステル・アルキリアム”と書かれていた。
(アステル……、ユーリのお父さん……)
絵の下に置かれた飾り台の上には、燭台や香炉などと一緒に、細かい彩色を施した美しいミニアチュールが飾られていた。ティアーナはミニアチュールを手にとって眺めた。手のひらほどの小さな額に納められた絵には、筒袖に変わった前合わせの異国風の服を着た女性が描かれていた。長い黒髪をたくさんの三つ編みにし、黒い大きな瞳をこちらへ向けている。絵の隅に小さな小さな字で“愛しきミリエ”と書かれていた。
(きれいな人……)
「それは母だよ。父が描いたんだ」
いつのまにか背後にユリウスが来ていた。ティアーナはミニアチュールを元に戻し、もう一度、灰色の遠い目をした賢者の肖像を見た。
「ユーリ、お父さんに似てるね」
ユリウスはそれには答えず、ティアーナを促した。
「行こう。老師がお待ちだ」
二人は片側に窓、反対側にドアの並んだ長い廊下を渡り、階段を上り、ザイナス老師の部屋に向かった。部屋の前でティアーナは深呼吸を一つした。まずユリウスがドアを叩いて先に入り、後についてティアーナもおずおずと中へ入った。
「老師、ティアーナを連れて参りました」
いつもの礼をしてからユリウスが言い、老師は黙ってうなずいた。それから、ユリウスはティアーナにささやいた。
「ザイナス老師だ。ご挨拶して」
ティアーナは前に進み出て、「老師さま、初めてお目にかかります。ティアーナと申します」と言い、スカートを広げ、正式な礼を丁寧にした。穏やかな老人の声が彼女にかかった。
「ティアーナか。顔を見せておくれ」
ティアーナは顔を上げて、老師を見た。老師は白髪白髭のしわ深い顔に深緑色の瞳で、優しく彼女を見つめていた。その目を見た途端、ティアーナの緊張や恐れが消えた。
(なんて、お優しい方なんだろう……)
老師はティアーナの表情が和らぐのを見て微笑んだ。
「そなたは……、まっすぐな目をしておるな……。心の内に真実のありようを識(し)っている目だ。まこと賢者の妻にふさわしい」
「そうでしょうか?」信じられないという顔をしてティアーナは言った。
「そうじゃよ。そなたがその目を持つ限り、そなたとユリウスは与え与えられる関係を保てよう。自信を持ちなさい」
「はい……」ティアーナは戸惑いながら返事をした。
「そうだ、そなたたちの出会いのきっかけを、まだ聞いていなかったな。ティアーナ、そなたはどのようにして、ユリウスのもとに導かれたのか?」
「わたしはフリルド村の占い婆さま、ドーラさまに再婚相手を占っていただいたのです。そして婆さまにこの人しかいないと言われました。それでわたし、ユーリの所へ行きました」
そこまで言って、ティアーナは自分がユリウスのことをユーリと呼んだことに気づいて、決まり悪そうな顔をした。しかし老師はそれを察して、「構わんよ。そなたがそう呼びたいのなら、そうしなさい」と言った。その言葉にティアーナは笑顔を見せ、話を続けた。
「わたしはユーリにいろいろ話を聞いたり、術も見せてもらいましたけど、賢者とはいかなるものか、まだよくわかりません。まして賢者の妻など皆目見当もつきません。でもユーリがこの話を受けてくれたので、わたしもこの道を行こうと決めました」
老師はうなずいた。
「うむ、出会いを与えてくれたその魔女どのには感謝せねばならんな、ユリウス」
老師はユリウスの方へ向き直った。
「はい」
「そなた、良い女性を得たな。彼女はそなたに大事なことを教えてくれよう。大切にしなさい」
「はい」
ユリウスはかしこまった態度で返事をした。目を伏せたユリウスに、老師は笑みを含みながら更に言った。
「ユリウス、そなたは懐に飛び込んでくる者に弱いな」
「は?」ユリウスは顔を上げた。
「自らの壁も、そなたの壁をも軽々と飛び越えてくる者にそなたは惹かれる。ティアーナもパウルどのもそういう者であろう?自分で気づかなんだか」
ユリウスはハッとして自分を見つめ、そして答えた。
「そのとおりです、老師」
「そのこと、よく自覚しておくようにな。さて、もう行った方がよかろう。ティアーナ、1ヵ月間覚えるべきことは全て覚えるよう励みなさい。努力すれば、それはそなたのものとなる」
「はい、老師さま」
二人は挨拶をして、老師の部屋を辞した。それから、ユリウスは結婚式の世話役を勤めている賢者と共に、ティアーナを神殿へと連れて行った。小高い丘の上にある大学の敷地の東にある石段を降りると、神殿に通じる門がある。エイロス神殿の後ろには男子修道院が、ルディア神殿の後ろには女子修道院が控えていた。門には中年のシスターが二人、ティアーナを迎えに来ていた。
「それじゃ、ティア、がんばって」
「ええ」ユリウスの言葉に押し出されるようにして、ティアーナは門をくぐった。そして、新しい世界へと足を踏み入れていった。
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