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ユリウスがティアーナの家を訪れてから10日程経ち、ティアーナがあの日の出来事は夢だったのかしらと思い始めた頃、家路を急いでいた彼女の前にひょっこりとドーラが現れた。ティアーナはドーラのおしゃべりに腹を立てていたので、会った途端ドーラにかみついた。
「婆さまのおしゃべり!!なんで村の人に言ってしまったの?大騒ぎになっちゃったじゃない。もう、よくそんなおしゃべりで占い婆が勤まるわね」
「おや、あたしはおまえに口止めされた覚えはないけどねえ。いいじゃないか、どうせいずれはわかっちまうことなんだからさ」ドーラは澄まして言った。
「でも!!婆さまさえ黙ってらしたら、こんなにすぐに大騒ぎにはならなかったはずよ。こんな状態で、もし今この話がだめになったらどうするの?わたし、村の笑われ者になっちゃうわ」
ティアーナはドーラに当たり散らしたが、ドーラはまじめな顔でティアーナを見つめた。
「ティアーナ、だめになんかならないよ。あたしはね、こないだおまえの家で、おまえとユリウスが顔を合わせた時確信したんだよ。あたしの読みは正しかったってね。おまえたちのオーラは何の障害もなく自然に共鳴し、混ざり合っていた。心配ないよ、うまくいくさ」
「婆さま……」
「ただ一つ、気をつけなければいけないのは、おまえの内なる炎の揺らぎだよ。それは思わぬ迷妄をもたらす……」静かに厳かにドーラは付け加えた。
「迷妄……、心の迷い……。ええ、婆さま大丈夫よ、それは。わたし、揺らいでなんかいないし、迷いもないわ」
「そうかい、それじゃ安心して、明日ユリウスのところへお行き。明日は“子供の家”へは行かなくていいんだろ。結婚式の予定が決まったそうだよ」
ティアーナはハッとしてドーラを見た。
「あっ、そうか、婆さま、そのこと伝えに来て下さったのね。……わたし、ほんとに結婚するのね……」
「なにとぼけたこと言ってるんだい、しっかりおしよ。それじゃ、確かに伝えたからね」
ドーラはさっさと歩き出し、ティアーナは去って行くドーラをぼんやりと見送っていた。
それから翌日東の森へ出かけるまで、ティアーナは何をするにもどこか上の空で、ぼーっとして、両親を心配させていた。しかし、森に来ると、そうした気分も晴れて、彼女は久し振りに緑の息吹を胸いっぱいに吸い込んだ。再び森を歩けることに喜びを感じていた。
(もう二度と来ないと思ってたのに……、こんなこともあるのね)
ティアーナは嬉しくなって、梢に向かって叫んだ。
「わたしのこと覚えてる?ティアーナよ!また来たの!また来れたのよ!!」
木々がさわさわと枝を揺らした。返事してくれたみたい――そう思ってティアーナは一人クスクス笑った。
賢者の家に着くと、ユリウスは表で布を広げ、薬草を干しているところだった。
「こんにちは、賢者さま」
「やあ、来たね。馬は向こうにつないでくれる?薬草、食べちゃうといけないから」
「はい」
10日前に結婚の約束をしたというのに、ユリウスの態度はそれ以前とまったく変わらなかった。だが、ティアーナはかえってほっとして、馬をつなぎ、彼の側へ行った。
「手伝いましょうか?」
「ああ、頼むよ。葉をきれいに広げて並べて」
ティアーナは作業に取りかかった。草を手に取ると、何ともいえない臭いが鼻をついた。
「うわ、すごいにおい、なんですの?これ」
「シキネ草。神経痛の薬だよ。今、干しとかないとね。2,3日は晴れが続くから」
「そんなこと、わかるんですか?」
「わかるよ。気象を読むのはわたしの仕事の一つなんだ」
「へえ、いいなぁ、あらかじめお天気がわかるなんて」
ティアーナは素直に感心した。それからまたせっせと手を動かした。ユリウスはそんな彼女の様子を見て言った。
「なんだか楽しそうだね」
「ええ、ここへ来ると、気が晴れるんですよ」
ティアーナは言いながらも手は休めなかった。
「村じゃ、わたしが賢者さまと結婚するって大騒ぎなんです。みんな噂の真相知りたいから、なにかっていうと話しかけてくるし、うるさくって。ここは静かでいいですよね」
「きみには苦労をかけてしまうね」
ユリウスがすまなそうに言ったので、ティアーナは手を止めて彼を見た。
「村のこともそうだけど、結婚式もね、思った以上に大変そうだよ。きみの方が特にね」
「それはそうですよね。賢者さまと結婚するんですもの」
ティアーナは他人事のように言った。
「きみはいいの?その面倒な賢者と結婚しても」
ユリウスの問いに、ティアーナは困ったように眉根にしわを寄せて叫んだ。
「そんなこと、おっしゃらないで下さい!!わたしは賢者さまと結婚することが、どういうことなのかまだよくわかってないけど、賢者さまが大丈夫と言って下さったから決めたんです。これでやっと、やっと父と母を安心させることができるんですから。わたしは、それでいいんです」
ユリウスはそれを聞いて眉をひそめ、ティアーナを見つめた。
「それじゃ、きみはご両親のために結婚するの?きみ自身の気持ちは?それでいいの?」
ティアーナは両親のためにと言われてハッと表情を変えたが、すぐに反抗的な光を含んだ目でユリウスをじっと見返した。ユリウスが自分に向けられた目の意味がわからず、小首をかしげると、ティアーナは怒ったように言い出した。
「その言葉、そのまま賢者さまにお返ししますわ。あなただってわたしのために結婚して下さるのでしょう?同じじゃありませんか」
ユリウスは図星をさされて返す言葉もなく、ティアーナを見ていた。彼女はまた手を動かし始めた。
「誰かのためにってことが、自分のためになることだってあるでしょう?それでいいじゃないですか。それに、わたし、賢者さまのこと嫌いじゃありませんもの。いくら両親のためでも、いやならちゃんと断ります」
「それはわたしも同じだ」
ユリウスは微笑んだ。そして、薬草を全部広げてしまうと立ち上がった。
「手伝ってくれてありがとう。それじゃ本題に入ろうか」
「はい、賢者さま」ティアーナも立ち上がった。
「あ、ユリウスでいいよ。一緒に暮らすんだから、いつまでも“賢者さま”じゃ変だろ」
「ユリウス、ですか。なんか呼びにくいな……」
二人は表の水場で手を洗った。手を拭きながら、ティアーナは目を輝かせて、その時思いついたことを言った。
「じゃあ、ユーリって呼んでいいですか?」
「えっ?それはいいけど……」
ユリウスはティアーナの突然の申し出に面食らって、彼女を見つめたまま何も言えなくなってしまった。
「どうしたの、ユーリ?」
ティアーナは微笑んで、戸惑っているユリウスの顔を覗き込むように見上げた。
「いやあ、そんなふうに呼ばれるの初めてだから」
照れて頭をかくユリウスを見て、ティアーナはクスクスと笑い出した。
「あなたでも照れることがあるのね。ウフフッ、おかしい」笑いながらティアーナは続けた。
「わたしのことはティアと呼んで下さい。親しい人は皆そう呼びます」
家に入ると二人は向かい合って座り、ユリウスは結婚式の予定を書いた書類とワインをテーブルに置いた。
「式は七の月の満月の日だ。夜半にルディア神殿で、それから正午にエイロス神殿でそれぞれ儀式をやって、午後は大学で誓約式、夕方になってから暁の塔の儀式、翌日にはバイオン公に会見と……。まったく、婚姻の誓いをするのに2日も費やすなんて、ずいぶん大袈裟なことだな」
ユリウスはいかにもうんざりした表情で言った。
「あら、結婚式なんて2日がかりはざらですよ。お金持ちの結婚式なら最低3日はかかるわ」
「それはお披露目だの宴だのに時間がかかるからだろう。わたしたちの結婚には、そういうものはないんだよ。神殿の内陣で行う式では、身につけるものは何の飾りもない白い衣のみ。花嫁を飾る花も衣装もなく、楽の音も宴もない。誓約式なんて、立ち会うのはしかめっ面した賢者たちだけ。きみには面白くない式だろうね」
「いいんです。わたし、普通の式は一度やっているから」
ティアーナは静かに微笑んだ。
「それより、お披露目とか宴とかがないって今言ってたけど、このバイオン公の会見って、お披露目じゃないんですか?」
もう一度、書類に目を落してティアーナが聞いた。ユリウスはその紙を取り上げて、つまらなそうに眺めた。
「ああ、これね。ほんとは大学の行事はバイオン公のあずかり知らぬことだから、そんなことしなくてもいいはずなんだけど、彼がどうしてもきみに会いたいと言ってね。無理やり予定に入れられてしまった」
「わたしに会いたいって、どうして?」思わぬ答えに驚いてティアーナは目を見張った。
「あいつはね、わたしの結婚相手に興味津々なんだよ」
ユリウスは薄く笑ってティアーナを見た。ユリウスがいきなりバイオン公をあいつと呼んだので、ティアーナはますます驚いた。
「あの、あいつって??」
「あれ、あっ、そうか、あの時言わなかったね。バイオン公はわたしの友人なんだよ」
ティアーナは手を口に当てて息を飲んだ。
「じゃあ、この前話して下さったたった一人のお友達って、公爵さまのことだったんですか?」
「そういうことになるね。おまけにわたしはあいつには頭が上がらない」
手に持っていた紙をテーブルに戻し、ユリウスはため息交じりにつぶやいた。
「何かあったんですか?」
この間の話ではその友人――バイオン公はユリウスの良き友人という印象を受けただけだった。二人はいったいどういう関係なのだろうと思ってティアーナは尋ねた。ユリウスはグラスに残ったワインを飲み干し、自分とティアーナのグラスに新たなワインを満たした。
「バイオン公という立場は他の公爵より難しいものだ。国の運営の他に、大学を維持する役目も担っているからね。またそのために8公国の扇の要にもなってるし。とにかく、その大変なバイオン公の爵位を継ぐ時、彼はわたしがマスターになったら、わたしの助けを借りたいと言ってきた。もちろん、マスターは公と主従関係は結べないから、あくまで相談役としてだけどね。わたしは彼がわたしのことを、普通の友人として付き合ってくれたことに感謝していたから、彼に協力するつもりだった。けれどマスターになって、すぐに旅に出ることになってしまったからね。彼はわたしに3年で帰ってくるよう願い、わたしはそれを約束して旅に出た」
「3年?でも……」
「そう、帰れなかった。約束は守れなかったんだ。もし、クルトと出会わなければ、3年で帰れただろう。だがわたしはクルトと出会い、彼との約束よりクルトとの生活を選んだ。彼はわたしの事情をよく知っていたから、わかってくれたけど、わたしがそのことで彼に負い目を感じているのを知っているものだからね、こういう時に利用されてしまうんだ。今回も結局、断りきれなかった」
「そうだったんですか……」
「まあ、この会見は公の私的なものだから、そんなに固く考えなくてもいいと思うよ」
「私的って言っても、公爵さまは公爵さまでしょ。いやだなぁ、今から緊張しちゃう」
「きみに嫌がられそうなことが、あと二つある。」
ユリウスはティアーナの顔色をうかがいながら言った。
「えーっ、なんですか?」
不安な表情を浮かべるティアーナに、ユリウスは幾分同情的な目を向けて説明した。
「まず一つ目は、式の一月前から、きみはバイオンの修道院に入って、修養しなければならないってこと」
「修道院で?」
「ああ、賢者の妻になるものが、賢者について何も知らないんじゃ、困るだろうということらしい。修道院は神学校だから分野が違うけど、女子の修学の場が大学にはないからね。修道院で預かることになってるんだ。きみは1ヶ月間修道院で勉強漬けだ」
ユリウスはティアーナがこれを聞いたら、嫌な顔をするか、泣き言を言うか、少なくともぼやきの一つや二つは出るだろうと思っていた。しかし彼女は予想に反して、嬉しそうな顔をして宙をうっとりと見つめた。
「修道院かぁ……」
一人悦に入ってたティアーナは、ユリウスが意外そうな顔をして見ているのに気づいて、明るい顔を彼に向けた。
「えっ、なあに、ユーリ?」
「なにって、いやじゃないの?ティア」
「わたし、これでも勉強、嫌いじゃないんですよ。だから平気、がんばるわ」
ティアーナはにこやかに言った。彼女の笑顔には別の理由がありそうだとユリウスは思ったが、詳しく聞きだそうとはしなかった。
「それなら、いいけどね。一番の難問はこれだな、暁の塔の儀式」
「暁の塔って、あのバイオンの北のエルツ河の崖の上にあるルディアの塔でしょ。6年前に公爵さまがご結婚された時、暁の塔までパレードされて、それから新婚さんが暁の塔へ参拝しに行くのがはやりだしたんですよね。わたしたちもあそこへ行くの?」
「行くよ。ただし、馬車じゃない。大学から直接、闇の道を開く。二人でね。それが賢者としての暁の塔の儀式だ」
ティアーナは闇の道と聞いてギクリとした。一瞬だって入りたくないと思っていた、あの闇が口を開けて自分を待っていると思うと、背筋がぞっとした。想像したくもなかった。
「闇の道、わたしも通らなきゃならないんですか?」ティアーナの声が心なしか震えた。
「二人で通るんだよ。そういう儀式なんだ」ユリウスの言葉は容赦なかった。
「どうしても?どうしてもしなきゃならないの?わたし、あれだけはどうしてもいや!何とかやらないで済む方法はないんですか?」
ティアーナの必死の訴えに、ユリウスはやはりこれが難問だったなと思いながら、彼女をなだめた。
「やらないで済むならそうしてるよ。わたしだって、儀式なんてやりたくないんだから。でも、一緒になった二人が、初めて力を合わせて成す仕事として意味付けられているから、省くことはできないそうだ。仕方がないんだよ、我慢してくれないか?」
「できないわ」ティアーナは泣きそうになりながら言った。
「どうしても?」
ティアーナは強く首を横に振った。ユリウスの大きなため息が二人の間に流れた。
「じゃあ、やめる?結婚するの」
急に冷淡な口調で言われて、ティアーナはドキッとした。
「えっ?」
「結婚しなければやらなくて済むけど?わたしはどっちでもいいよ」
「………」
どっちでもいい――冷たく言い放たれたその言葉にティアーナは自分の立場を思い出し、耳まで赤くなってうつむいた。ユリウスは無表情のままだった。
「結婚するなら儀式は免れない。儀式がいやなら結婚をやめるしかない。どちらにしろ、決めるのはきみだ。わたしにとってはきみのための結婚なんだ。きみの決定に従うよ」
ティアーナはうつむいたまま、唇をかんだ。
「わたしのためなんですよね……」消え入りそうな声で彼女はつぶやいた。
「そうだよ。それはきみもわかっていたんじゃなかったの?」
そうだけど――結婚してもらうのはこちらなんだから、わがまま言える立場じゃないのは確かだけど――そんな身も蓋もない言い方しなくたっていいでしょう?――ティアーナは心の中で反問した。彼女は悔しくなって、上気した顔のままユリウスをにらんだ。
「結婚はやめません。わがまま言ってごめんなさい。もう覚悟を決めたわ。あなたと結婚するためにそれが必要なら、わたし、やります」
「いいでしょう。それならこれも良しと。後は特に問題はないと思うけど……」
ユリウスはティアーナの決意をあっさり受け流し、もう一度書類を見直した。そして、まだにらんでいる彼女を見て、薄笑いを浮かべて言った。
「そうだ、闇の道通るの、今ちょっと練習してみようか?式の時、いきなりじゃきみも困るだろ」
ユリウスは立ち上がりテーブルから離れ、自分の前に充分な空間を作り、右手を前に挙げた。しかし、ティアーナがやっぱり恐怖に引きつった顔をしているのを見て、笑いながらその動作をやめた。
「冗談だよ。今はやらない」
ティアーナの感情が爆発した。
「いじわる!!」
立ち上がりざま叫んで駆け出し、荒っぽくドアを開けて表へ飛び出していった。薄暗い部屋の中から外に出ると、光がまぶしかった。ティアーナは明るい緑を見て、ほっと息をつき、落ち着こうとして大きく深呼吸をした。それから家のほうを振り返ると、ユリウスが様子を見に出て来ていた。ティアーナがこちらを向いたので、ユリウスは近づいて行った。彼女はもう怒ってなかったが、ふてくされた表情で彼を見上げた。
「ユーリ、あなたがイタズラっ子だったってこと、よくわかったわ」
「ごめん、ちょっとやりすぎた」ユリウスは素直に謝った。
「でもきみを大学へ連れて行く時は、闇の道を使うから、そのつもりでいてくれ」
真剣なまなざしを向けられて、ティアーナも表情を引き締めた。
「ええ、わかったわ」
二人は家の中へ戻った。ユリウスはそれから、二人で暮らしやすいよう、木こりたちに手伝ってもらって、部屋に手を入れるつもりだが希望はあるかとティアーナに聞いた。彼の家は、居間の奥に部屋が二つ並んでいて、一つは寝室で一つは仕事部屋だった。ティアーナは奥の寝室も見て、自分はこれで充分だと言った。
「わたし、持ち物は少ないですから。服だって衣装箱一つ分しかないし……。あっ、でも鏡ぐらいは持ってこなきゃ」
「鏡ならあるよ」
ユリウスは仕事部屋から、立派な真鍮の飾りのついた古びた鏡を出してきて、寝室のチェストの上に置いた。
「これは魔法の鏡なんだけど、普段は普通の鏡だから」
ティアーナは面白そうに鏡を覗き込んだ。
「へぇー、どういう魔法?」
「結婚したら教えてあげる」ユリウスは鏡の中のティアーナに微笑みかけた。
「それじゃ、後は馬小屋だけね」
「あ、そうか、デューカも連れて来るんだね」
「もちろん!わたしは闇の道、使えませんもの」ティアーナは澄まして言った。
「わたしの一番大きな嫁入り道具はデューカだわ」
馬だけを連れて嫁いでいく自分の姿を想像して、彼女はおかしそうに笑った。
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