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ティアーナが修道院に入ってから、ちょうど10日間が過ぎた。バイオンの町は2日後に夏至祭を控え、大いに賑わっていた。近隣の村々から人や物が集まり、街角には様々な飾りつけがされ、広場ではパレードで引き回す山車の準備や踊りや音楽の練習をしていて、華やかな雰囲気が町中を覆っていた。その賑やかな広場の片隅、神殿の入り口の石段の隅に、青灰色のマントの男がいつの間にか現れ、ひっそりと座っていた。石段に腰を降ろし、ほおづえをついて広場を眺めているようだが、フードを深く被り、顔までは見えない。だが賑やかな広場の雰囲気にはそぐわない、その影のような人物を気にとめる人は誰もいなかった。やがて、ルディア神殿の裏の方から、バタバタと走ってくる人影があった。紺色のフード付きの修道服を着たその女は息を切らせて走ってきて、マントの男の前で止った。
「ごめんなさい!!ユーリ、待った?」ティアーナは息を弾ませながら言った。
「いや、そうでもない。わたしも遅れて来たから」
ユリウスは立ち上がり、フードを後ろに降ろし、まだはあはあ言っているティアーナを見て、笑いながら彼女の服を指差した。
「その服を着てる時はもっと慎ましやかにしてなきゃ」
指を差されて、ティアーナも自分の服を見た。
「あっ、そうか、そうよね。わたし、そそっかしいから。シスターには向いてないのかな、あんなに憧れていたのに」
「憧れてた?」
やっと落ち着いたティアーナは修道院の方を振り返った。
「そうよ。子供の頃、シスターになりたくて一生懸命勉強したのよ。町の中学に通って、試験にも合格したの。でも、やっぱり両親の側にいてあげたいっていう気持ちがあって、迷ってて、面接の時そう正直に言ったら、その気持ちは大事にした方がいいってシスターに言われて、結局、その面接で不合格になったわ。シスターにはなれなかったけど、こうしてたった1ヶ月でも修道院に入れて、わたし、神さまに感謝してるの」
「だからきみ、嬉しそうにしてたんだね」
ようやく納得がいったという顔をしてユリウスが言った。
二人は大通りを南へ歩いて行った。
「ほんとにごめんなさいね。今、忙しいんでしょ、夏至の前で。それなのに付き合わせちゃって」
「平気だよ。夏至の観測は毎年恒例のことだし、それにこっちも結婚前だから大目に見てもらえるんだ」
「そう、よかった。あっ、ねえ、お花買っていい?」
「いいよ。わたしが買おう」
のんびりと南市場へ向かって歩いていく二人を、道行く人々が見て、ひそひそとささやきあった。東の森の賢者が結婚するという噂は、いつの間にかバイオンの町にも広がり、周知の事実となっていた。明るい街の中で、黒い髪に黒い服の賢者と紺の修道服を着たその婚約者は、いやが上にも人目についた。人々は賢者が普通の男性と変わらず女性を連れ、花を買ってあげるのを見て、珍しそうにささやいたり、微笑ましく思って笑顔を向けていた。
花束を受け取ったティアーナは一度あたりを見回したが、構わず南門へと歩き出した。視線は感じていたが、それが自分に対するものだということが信じられなかった。
「わたし、どうも有名人と結婚するっていう自覚が足りないみたい」
「いいよ、そんなこと自覚しなくたって」ユリウスは苦笑した。
「でも、前に公爵さまがお友達だって聞いて、すごい人と友達なんだなって感心したけど、あなただって立派な有名人なのよね。わかっているはずなんだけど……」
「あいつは表側の人間だからな。国民の人気もあるし、特に女性にはね。賢者は世のため人のために働いても、表に立つようなことはしない。あくまで影の存在なんだ。だから、名前が売れるのはあまりいいことじゃない」
「あなたの場合はなすべきことをした結果として名前が知られたのだから、それはいいのではなくって?名前が売れてても、あなた自身は影のようなんだもの」
「そうなるように心がけているからね」
「賢者の黒い服って、“影でいる”ってことなの?」
「そうだよ。賢者の黒は戒めの黒、青は賢しき力の青と言うんだ」
彼らは南門を出て大通りから街壁沿いの小道に逸れ、更に林へと続く道へ入って行った。
「勉強はどう?ティア」
「覚えることがたくさんあって大変!!でも嫌じゃない。いろんなこと教えてもらってむしろ幸せだと思うわ。ただ賢者のこと知れば知るほど、ほんとにわたしに勤まるのかなって……」
「そんなに難しく考えなくても平気だって」
「それにわたしも大賢者ファラールの誓約をして、クリスタルを授かるのですってね。いいのかしら、力のないわたしがそんなものいただいても」
「クリスタルには力を増幅させる他にもう一つ働きがあってね、その持ち主の守りになるんだよ」
ユリウスは自分の首にかけている、クリスタルにつけた組み紐に指を引っかけて示した。
「この組み紐には持ち主を守る呪文が組込まれていて、クリスタルによって常にその呪文は効力を発揮する。きみにはその守りが必要なんだ。平和な時はいいけど、もし何かあった時、賢者の妻というだけで狙われることもあるしね」
「自分の身は自分で守れということね。わたし、戦争になった時、どうなるかなんて考えてもいなかったわ」
「あくまでも用心のためだよ。戦争になんか、ならないようにするのが賢者の仕事なんだから」
二人は林に囲まれた墓地の入り口に来た。
「わたし今日、とても素敵な詩篇を教わったの。ギドに詠んであげようと思って」
ティアーナはユリウスに微笑んで、先に立って歩き出した。そして、墓地の中ほどの、ギディアス・アルピルスと名前の刻まれた墓の前に立った。彼女は墓に花を捧げ、ひざまずいて手を合わせ、祈りの詩篇を小声で詠んだ。それが済むと、懐かしそうな目をして墓に語りかけた。
「ギド、久し振りね。ごめんなさい。3年前にあなたのお母さんにもう来ないでくれって言われてから、ずっと来れなくって……」
ティアーナはそっと墓石を撫でた。
「でも今日は特別よ。あなたに報告しなきゃ……。わたし結婚するの。今度こそほんとよ。相手はね、なんと東の森の賢者さまなのよ、すごいでしょう」
自慢げに言ってから彼女はクスリと笑った。
「彼を連れて来たわ。会ってね」ティアーナは振り返り、ユリウスに言った。
「ユーリ、ギドよ。わたしの前の夫。挨拶してあげて」
ユリウスはティアーナと入れ替わり、墓の前にひざまずいて祈りを捧げた。ふと彼は目を上げた。そしてゆっくりと立ち上がると、墓の上方の宙を見つめたまま一人で話し始めた。
「ああ、わかっている……、彼女のことは引き受けた。大切にするよ……」
「どうしたの、ユーリ?」
ユリウスの異常な行動に、ティアーナは驚いて声をかけた。ユリウスはその宙をさし示しながら、振り返って言った。
「彼が、来ている」
「えっ!?」
ティアーナは一瞬、息を飲んで体をこわばらせたが、すぐに彼の示している宙を目を凝らして見据えた。かすかに白いもやのようなものが彼女の目にも見えた。
「ギド!!ギドなの?」ティアーナは夢中で叫んだ。握り締めた手がわなわなと震えた。
「わたしにも何か言って!ギド、お願い!!」
しかし、もやはゆらゆらと漂うばかりで彼女の耳には何も聞こえてこなかった。
「聞こえないわ。ねえ、聞こえない!!」
涙をにじませながら、ティアーナは訴えた。黙ってもやを見つめていたユリウスがまた返事をした。
「わかった、彼女に伝えるよ」
それを合図にするかのように一陣の風が吹き、ティアーナの髪を揺らした。そして白い手が伸びてきて自分の頬に優しく触れたのを彼女は感じた。
「ギド!!」
白いもやは天に登り去ろうとしていた。
「待って、ギド!!行かないで、まだ何も話してない!!」
ティアーナは手を伸ばし叫んだ。必死の形相でもやを追おうとしている彼女を、ユリウスは抱きかかえるようにして制した。
「だめだ、ティア。彼を呼び止めてはいけない」
「ギド!!」
ティアーナはユリウスに押さえられたまま、悲しそうな声でもう一度叫んだ。
「彼はもはや、何からも自由な存在なんだ。彼が行こうとするのを止めたりしたら、彼は惑ってしまう」
やがてもやは消え去り、静寂の中に二人は立ち尽くしていた。
「行こうか」
ユリウスはティアーナの肩を抱き、歩き出した。歩きながら彼女は目ににじんだ涙を指でぬぐった。
「あなたが呼んだの?」
「いや、彼が来たんだ。きみに会いに」
「……あの人、なんて?」
「きみはとても大事な人だから、今まで心配してたそうだ。わたしにきみのことは任せるからよろしく頼むと言っていた。きみには今でも愛している、幸せにおなりと伝えてくれと……」
ティアーナは立ち止まった。歪めた顔からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
「あの人、どうしてわたしなんかと出会ってしまったんだろう。あの人が死んだのはわたしのせいじゃないって婆さまは言ったけど……、でもやっぱり、わたしと出会わなければ、死ななくて済んだかもしれないって、今でも思うの。……そう思うとわたし、わたし……」
ティアーナは両手で顔を覆って泣き出した。あふれ出る感情を一気に吐き出すかのように泣いているティアーナを見て、ユリウスは静かに彼女を抱きしめた。
「人の生死に関わる運命は最も強く、最も深い。人の出会いぐらいで簡単に変わるものではない。彼の命はたとえきみと出会わなかったとしても、同じ時に尽きたんだよ。きみのせいじゃない」
街の騒々しさが届かない静かな墓地の一角で、ユリウスはティアーナが泣き止むまでずっと抱いていた。夏の長い日がようやく傾き、時折優しい風が彼らを包むように吹いていた。
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