第8場 1・出会い - 第9場 第2章・賢者の結婚

3回も4回も森へ通っていると、さすがに村の誰かに見咎められてしまう。しかし、ティアーナは森で採ってきた薬草を持っていたので、それを見せて、婆さまの許しを得て薬草を採りに行ったのだと言い訳することができた。そうして人に知られることもなく、ユリウスと会うのもとうとう最後になった。

ユリウスは今日はとっておきの場所に行こうと言って、ティアーナを森の奥へと連れて行った。森は賢者の家のある所より奥は丘陵地から低い山へと変わっていき、その先は南から延びるヴァールス山地に突き当たる。そしてその山々の向こうは、タムダル大森林の西の端に当たった。

急ではないが歩きにくい斜面を、木につかまりながら息を切らせて登って行くと、木立の向こうに小さな湖が広がっていた。そのほとりに立つと、湖面は鏡のように岸辺の木々と青い空を映し、あたりは風もなく、凍りついたような静寂があった。

「きれい……、森の中にこんな所があるなんて……」

どこか別の国へ来たようだとティアーナは思った。吟遊詩人の詩の中に、こんな情景がなかっただろうか――ぼんやり考えながら、彼女はその景色を眺めていた。ユリウスはずっと黙って湖を見つめていた。しばらくして、ティアーナはユリウスに尋ねた。

「この湖、名前はなんて?」

「木こりたちは鏡の池と呼んでる。まさしく森を映す鏡だよ。今日は森は機嫌がいいみたいだね。そろそろ行こうか?」

(森の機嫌がいいってどういうこと?)

ティアーナにはその意味がわからなかったが、ユリウスには聞かなかった。湖岸を少し回って、更に森の奥へと入って行くと、それほど遠くない所に大きな石と岩が積み上がってできた小さな丘が目の前に現れた。

「ここは高見の丘と言ってね。登るの大変だけど、上はいい眺めだよ」

ユリウスはそう言うと、足場の良い所を探して登り始めた。ティアーナも後から登って行ったが、スカートをはいている彼女には岩登りは難行苦行だった。大きな岩の前で悪戦苦闘していると、上から「大丈夫?」と声がかかり、手が差し伸べられた。ティアーナは差し出された手につかまった。暖かい手だった。

ユリウスの助けを借り、ティアーナはようやく一番上の岩まで登った。そして遮るもののない眺望に思わず声を上げた。

「うわぁ……、すごい!!バイオンの町まで見えるわ……」

足元には緑の森が広がり、さっき見た小さな湖が青い宝石のようにその中にあった。森の向こうには彼女の村が見え、淡い緑の野の遥か彼方、霞の中にバイオンの町の塔や建物の影があった。町の側を流れるエルツ河が白く光って見えた。

「ここへはよく来られるんですか」心地よい風に身を任せながら、ティアーナは聞いた。

「ああ、よく来るよ。夜でも昼でも。夜はここで星の声を聴き、昼は大気の象(しょう)を観る」

「大気の象……?」

「万物に気は巡り、それは様々なあやを織りなしてそこにある。それが象だ。それはひと時もとどまることはなく、常に変化している。危ういバランスを保ちながら……、そう、いまも……」

ユリウスはまっすぐに前を見つめていたが、その目は現実の風景を見ている目ではなかった。彼の目には何が見えているのだろう――ティアーナはユリウスの横顔を見つめながら思った。無表情のまま、あらぬ世界に目を向け、風に吹かれて立っているユリウスの姿は、ティアーナが今まで見た中で一番賢者らしい姿だった。

二人はしばらくの間黙っていたが、やがてティアーナが話しかけた。

「賢者さま、わたし、前にここで見たり聞いたりしたことは、絶対に人に話さないって言いましたけど……」

「うん、そう言ってたね」ユリウスは元の顔に戻って言った。

「わたし、話してしまうかもしれませんわ。子供たちに。どこか遠い国の遠い昔のお話にして……」

「それなら、別に構わないよ。きみは物語が好きなの?」

「ええ、聞くのも語るのも好きです。吟遊詩人の詩も、子供たちをダシにして実はわたしが一番喜んでいるんです」ティアーナは朗らかに笑った。

丘から降りるのもティアーナにとって一苦労だった。スカートを泥だらけにして、ユリウスの手につかまりながら、ようやく降りてきた。最後に大きな岩から下へ飛び降りた時、彼女は自分の体が軽くなったような気がした。下で受け止めたユリウスに思わず聞いた。

「もしかして今、術かけました?」

「かけたよ」ユリウスはあっさりと認めた。

「どう?術にかかった気分は?」

「どうって……」ティアーナは少し考えた。

「わからないわ……、なんだかペテンにかけられたみたい」

ユリウスははじけたように笑い出した。珍しく声を上げて笑っているユリウスを見て、ティアーナは恥ずかしくなって顔を赤らめた。

「ハハ……、まあ、魔法の術もペテンも似たようなものだな。それとわからないようにかけるのがうまいやり方さ」

彼は笑いながら、赤い顔をしてうつむいているティアーナに話しかけた。

二人は丘を離れ、森の中を下っていった。

(賢者さまと会うのも今日が最後……、ほんの短い間にずいぶんいろんなことがあったような気がする……)

ティアーナは転ばないように足を運ぶことに専念していたが、斜面が緩やかになって、足元を気にしなくてもよくなってくると、これまでのことを思い返した。彼女にとって、賢者と過ごした時間は得がたい経験となっていた。村の誰もが体験し得ないような――すばらしい神からの贈り物のような気さえした。明るく美しい恵み豊かな森、木々や花や動物たち、彼らと心を通わす賢者、彼の優しい気遣い、穏やかな瞳、その語る言葉も不思議な術も差し出された手の暖かさも、彼を身近に感じた時、抱いたほのかな淡い思慕――それは恋とは程遠いものであったが――の情も、全ては彼女の大切な思い出となり、心の中に小さな灯をともし続けるだろうと彼女は思った。

(きっと心の中でわたしを支えてくれる。たとえ、独りぼっちになっても……わたしの大切な宝物になって……)

賢者の家に戻り、ティアーナは帰り支度をした。そしてユリウスに丁寧に礼を言った。

「賢者さま、今までお付き合い下さって本当にありがとうございました。とても楽しかったです。いい思い出ができました」

「そう、それはよかった」

「賢者さま、わたしは思うんです。人は好む好まざるに関わらず、出会ってしまうものだと。だからどうせ出会ってしまうのなら、良い出会いにしたいと思ってるんです。わたしにとって、賢者さまとの出会いはとても良いものでしたわ。嬉しく思います。でも、もうこれで終りです。もう二度とここへは来ません。賢者さまのお手を煩わすことももうないでしょう」

「ティアーナ」ユリウスは言いかけたが、ティアーナはすぐに言葉を継いだ。

「お断りのお返事は婆さまに言づけて下さいね。賢者さま、今後のご活躍をお祈りしていますわ。また、賢者さまのことを吟遊詩人が語る時がきたら、わたし、喜んで聞きに行きます。それじゃ」

ティアーナは微笑んだ。初めて会った時見せた、あの花のような笑顔で――

彼女は馬に乗り、明るく大きな声で「さよなら」とユリウスに言うと、馬を早足で進め、振り返りもせずに駆け去った。

(花を置いて行ったな……)

ユリウスは去って行くティアーナを見送りながらふと思った。彼は彼女の姿が見えなくなってもずっとそこに立ち尽くしていた。


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