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スカーレット<後編>(11月28日)
さて、「スカーレット<前編>」で、スカーレットが愚かな女だっていうことを書いたけれど、 それだけの女なら、あんなに人々の共感や羨望のまなざしは受けないものだ。

<最短距離の女>
彼女は、ムダと敗北ということを本能的に嫌う人間である。 自分が狙った獲物は、どんな手を使っても最短距離で、手に入れようとする女なのである。

例えば、(生きるための)200メートル競争にスカーレット・オハラが出場したとする。
普通200メートル競争というのは、400メートルトラックの半分を使って 競うのだが、スカーレットはゴール目指してトラック沿いに走るようなマネは決してしない。 スカーレットはこう考える。
「トラックの円の中を横切れば、苦もなく一等になれるではないか!」
そして、トラックを走るうるさいメン鳥たちのメリウェザー夫人やミード夫人、病弱な体にムチ打って、 最後尾を懸命に走るメラニー、気付け薬を片手に「Oh.Dear! Oh.Dear」とか 言いながら、ヒョコヒョコ走るピティパットさんを尻目に、 彼女は堂々とトラックの中を一直線に走り抜けるのである。 そして、当然人々のブーイングを受けるわけだが、
「自分が負けたからって、私を妬んでいるのよ。 あとであの人たちに自分を認めさせる方法を考えればいいわ」 ってな具合になるのだ。

トウェルヴ・オークスの園遊会の日、アシュレの婚約発表の日というのに、 一直線にアシュレに自分の気持ちを告白してしまうのもそのひとつ。
レットのところへ300ドルの無心をしに行き、自分を抵当に しようとしたこと、お金目当てで、フランクを騙して結婚したのもそう。 女だてらに、一人で製材工場へ馬車を乗りつけてしまうのも、バカな男どもに 任せておいたら、自分が苦労して稼いだ銭をそばから、ドブに捨ててしまう ようなことになってしまうのが耐えられなかったからだ。

南部の誇り、大義、そして淑女のたしなみなんて、毒にも薬にもなりゃしない。 少なくとも今は…。
スカーレットの言動には、しばしば驚かされるが、その半面、ものごとの本質をついている 部分もあるから、変に納得させられてしまうのも確かなことではある。 「生きる」ために、批判・中傷をものともせず、最短距離で怒涛のように、 駆け抜けていくスカーレット…どうであれ、それも彼女の魅力のひとつだろうと思う。 そして、そんなスカーレットという1頭の騾馬が引く馬車に、何人の人々が 乗せられ、引っ張られて人生を歩んでいたか…。

<本音で生きる女>
あの頃の南部というのは、中世のヨーロッパの気風をまだひきずっていて、 まだまだ女性は、古風な箱の中に入れられ、その中でしか生きられない時代だった。
母・エレンは、そんな時代の典型的なサザンベルだったのだが、スカーレットは そうは行かなかった。どちらかというと父親・ジェラルドの血を、女だてらに濃く引きついで しまったから、始末が悪い…じゃなくて、爽快なのだ。

映画『風と共に去りぬ』のメラニーの出産のシーンを思い出してもらいたい。
「メラニー、無理しないで声を出しなさい。叫んでもいいのよ」
またある時には、スカーレットはこうつぶやく。
「男の人たちは、指にトゲが刺さっても、ヒイヒイ言いながら痛がるのに、女は、 あの出産の苦しみの時にも、男の邪魔になりはしないかと、声をひそめなければ いけないなんて…」と。

レットに「おもしろ半分に結婚してみないか。楽しいぞ」と 求婚された時も、彼女は自分の結婚観を彼に語る。(というより、叫ぶ)
「男の人たちにとっては、おもしろ半分かも知れないわ。なぜだかわからないけど。 あたしにはどうしても理解できなかったわ。でも、女が結婚生活から手に入れる ものと言ったら、食べさせてもらって、忙しい思いをして、男のばからしさを 我慢して…そして毎年赤ん坊を生むことだけじゃありませんか!」

今だって、男女雇用均等法とかで表向きの差別はなくなったはずだけれど、 そのお陰で、その差別が地下にもぐってしまっただけタチが悪い、と思うときがある。
スカーレットの考えが正しいか正しくないかは別にして、なんとも爽快だと思いません?

<後ろを見ない女>
イギリスの小説や映画では、激動する時代に置いてかれる貴族の没落を 描いた作品が多いが、『風と共に去りぬ』が特におもしろいのは、 大農園で、わがままで、何不自由なく暮らしていた人間が、南北戦争という 時代に翻弄されながらも、没落の一途を辿る物語ではなく、 敗北ぎりぎりのところから、立ちあがる物語だからである。しかも、 没落から救ったのは、女性だったというところにある。

中途半端な強さでは、とてもこの荒波を乗り越えられない。
当然、子供のころから母親やマミーから受けた教育はまったく役に立たない。 彼女は、彼女が好むと好まざると、それとはまったく反対の人間に、 男にもならなければいけなかったのである

内働きの黒人たちをアゴでこき使い、病あがりの妹たちをも引っ叩いて、綿花摘みをもさせた。 囚人も使った。北軍も殺した。人も騙した。フランクに借金していた古くからの友人たち(エルシンク家からも メリーウェザーさんも)からも、冷酷に金を返済させた。
もっとも自分が憎んでいるヤンキーに生乾きの木材を売りつけたり、 法外な値段で、安い木材を売りつけたりするのも平気でやってのけた。 (このことについては、ヤンキーを騙して金を搾り取ってやるのよ、という意思が働いてはいるが…)

彼女の魅力は、「約束したこと、誓ったことは絶対に守る」「いかなる敗北も決して許さない」。 そのためには手段は選ばない、自分が孤立しようと決して後悔しないという意思の強さなのである。 そして、彼女は自覚してはいないだろうが、メラニーがどんなに彼女のしてくれたことを、 美徳として感謝の言葉を述べても、恩にきせ、グチを言うどころか、
「済んだことよ。誰だってそうしたわ」
とサラッ言ってのけてしまうところが、私は好きなのだ。

一番苦しい時、何の役にも立たなかったアシュレを見つめ、スカーレットはつぶやく。
「昔を思い出すと、あまりにもせつなくてついそれにひきづられ、 しまいには昔のことを思い出すこと以外、なにもできなくなってしまうだろう。
アシュレ!おねがいだわ、過去を振り返っちゃいけないわ! 過去を振り返ることで、それが何の役に立つだろう。あなたにつりこまれて、 昔を思い出すなんて、あたしはもうごめんだ。幸福を追って、 過去を振り返れば、苦しみと悲しみと不満におそわれるだけなのだから」


スカーレットという騾馬が立ち止まり、夢中で歩いてきた遠く険しい道のりを振り返る… そんな時もないわけではない。弱気になる時もある。昔を懐かしんで、涙する時もある。 母のようになれなかった自分を嘆く時だってある。
しかし、そんな時彼女の自尊心は、疲れてくじけそうな自分にも、ムチをくれるのだ。 その自尊心は、メラニーや貧困を囲っていた他の古い友人たちとは違う自尊心であった ことだけは確かなのではないだろうか。

<"正"の生命力>
<前編>で、散々に「愚かだ」とスカーレットのことを書いたが、 彼女には、その愚かさや逆境を鼻息で吹っ飛ばしてしまうほどの強い生命力がある。 しかも、その生き方、考え方はいつも前を向き、ベクトルは、「負」ではなく「正」 の方向を向いているのだ。
「正の生命力」は生きる力、「負の生命力」は死ぬ力(自殺)ということ。

誰だって悲しいことはあろう、女性であれ男性であれ、その性のために 受けることのない中傷をされることもあろう。 そして、誰でも短所は持っている。その短所にだけ縛られ、長所を自ら握りつぶして しまうのは、もっと過酷な状況への呼び水になる。
20年ぶりにスカーレットと再会し、正面から向き合って、 彼女の生きざまに勇気を奮い起こされ、自分をも見つめる機会になったことは 確かだ。
愚かなるもよし!
Tommorow is another day!
なのだ。

〜THE END〜

耳をすませば・・・ みなさん、長い文章読んでくださってありがとう。

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