J/
『マジェスティック』は劇中にとってもいい台詞があるんで、それをまずひとつ。「なんで、家にいて小さな箱で観たいと思う。マジック
はどこにあるんだい。観客はどこにいるんだい。」映画館にはマジックがある。その世界に入って、人は癒されて帰っていく。老映画館主
のこの台詞がとても印象に残ったんで。
B/
残念ながら、この映画にはそんなマジックはなかったけれどもね(笑)
J/
まったく…。時代は1951年『アフリカの女王』のポスターが貼ってあったから間違いはない。まさにハリウッドは赤狩り
(クリックすると「赤狩り」についてのページに行けます)で揺れていた
時代なんだね。
B/
ファースト・シーンはとっても面白かったわね。ハリウッド・デビューしたばかりの二流脚本家ジム・キャリーの脚本がプロデューサー
たちによってドンドン変えられてっちゃう。炭坑を舞台にした病気の男の子を主人公にした映画が、犬が主人公の映画に変えられて行く
過程。一番えらい人の提案に下の者たちがおべっかを遣って、「それは感動的だ」なんて言い合っている。
J/
これって、まさに『わが谷は緑なりき』(笑)彼も『怒りの葡萄』のような傑作を作るんだってはりきっている。例え犬が出てきたって、作
品の質には変わらないって。まさか(笑)
B/
そもそも、この時代に『わが谷は緑なりき』を作ろうっていう発想自体が、この脚本家はズレているのね。『わが谷…』は1941年の
映画。でもアメリカは戦前と戦後では大きく変わってしまっていた。この時代反共の嵐が吹き荒れていて、そんな映画を作ろうとするこ
と自体がとっても危険なことだったのね。
J/
映画館で彼女とデートするときに、ハリウッド10(非米活動委員会により最初に償還され、ハリウッドを追放された人たち)の逮捕の
ニュースとかが流れているというのに、相変わらず今度の映画は『怒りの葡萄』みたいな傑作になるなんてことを言っている脳天気ぶり。
そもそも原作者のジョン・スタインベック自体がブラック・リストに挙げられていた時代だというのに、そんなこと気にも留めていない。
B/
ジム・キャリーの個性がこのキャラクターにピッタリなのね。本当になんにも考えてなさそうで。
J/
そんな風になんにも考えていないアホな人間にまで赤狩りの手が伸びていく。それどころか、実は彼はソ連のスパイではないかというよう
な誇大妄想的な話しが、さもありなんといった調子で非米活動委員会のメンバーの中で語られてしまうという皮肉。この出だしはとっても
面白いと思ったね。
B/
彼は、ヤケクソになってお酒を飲んで車を運転。誤って車ごと川に落ちてしまう。流れ着いた先は小さな田舎街。ところが記憶をまっ
たく失ってといったあたりから、フランク・キャプラ的な世界が展開されていくのね。
J/
街の雰囲気はとってもよくできているよ。海岸で老人に助け起こされて(お久しぶりのジェームズ・ホイットモア!)街の中に入っていく
と、街の中は静まりかえっている。店先には、第二次大戦で戦争にいったまま帰ってこなかった若者たちの写真がどこにも掲げられていて、
街全体が大戦の傷が癒されないままになっている。
B/
どうもこのあたりは、去年の9.11のテロと重ねあわされているようなにおいがするわね。
J/
その街のひとりの老人マーティン・ランドーが、ジム・キャリーを戦争にいったまま行方不明になった息子と思い違いをする。また記憶喪
失になっているジム・キャリーも根が何も考えていない人だから、単純にきっとそうなんだって思い込んで、調子を合わせていく。一応脚
本家だから、勘も働かせて、また相手に合すのが上手いとくる。
B/
婚約者だった人までもが、彼は間違いなく帰ってきたんだって思わせるのだからすごいものよね。
J/
この辺、観客にも実は本当にそうなんじゃないかって思わせるようなミステリーの部分があれば、映画としては興味が繋がるのだけれど、
もうすでにジム・キャリーの経歴は知らされてしまった後なので、街の人たちが勘違いしているってことがわかるようになっているんだね。
この辺どうなのかとは思うけれど…
B/
実は街の人たちは、信じようとしていたのじゃないかってことがチラリとだけ出てくるじゃない。新聞に行方不明者のニュースが出ていた
りして。お父さんのマーティン・ランドーは確かその新聞を読んでいたはずよ。
J/
そういえば、帰還のお祝いのパーティーを街を挙げてやるときにもそんな場面が出てくるね。僕は提灯があの時代らしくていいなーって
そちらを眺めてばかりいたけれど…そう、ジム・キャリーがピアノの演奏に担ぎ出されたとき、弾けないで困っていると、街の人たちみん
ながとっても不安気な顔をするよね。やっぱりこの人は所詮人違いかみたいな。そう考えると、やっぱり信じたい。希望を取り戻したい
っていう気持ちが強かったのだろうね。
B/
このあたりは、フランク・キャプラ監督の『群集』を彷彿とさせるわよね。不況にあえいでいた大衆が、一記者の架空の記事に踊らされて
いく話。苦しいときに何かを信じたい。誰かヒーローになる人が現れ、彼に自分の夢を託したいっていう群集心理。この映画の田舎街にも
そんな雰囲気が感じられたわね。監督はその線を狙ったのではないかしら。
J/
ただ、キャプラの『群集』は最後はいい結末になるとはいえ、そこへ行くまでの群衆心理には、とっても怖いものがあったから、そういう
意味ではこの映画はキャプラ以上に楽天的と言えるかもしれないけれどもね。
B/
キャプラの映画は一般的には楽天的って思われているけれど、中にとっても怖いものも持っているのね。時に残酷なくらい主人公たちを
打ちのめすようなことがある。その果ての幸せというのが、キャプラの世界なのね。
J/
ともかく、マーティン・ランドーがたまたま映画館を経営していたのだけれど、息子が戦場に行ってしまって以来、閉館していた。それを
街の人みんなで再興させよう。そうすれば、街を復興させられるっていうことになっていく。みんなの希望が映画館という具体的な形で
もって見えてくる。
B/
ジム・キャリーも最初は渋っていたのだけれど、誰もいない映画館でひとり昔のサイレント映画…それはこの映画館の柿落としだった思い
出の作品なのだけれど…を観ているマーティン・ランドーの姿にグッとくるものがあって、次第にやる気になっていく。最初は父親のため
ということで。そして次第に街の人たちのためにもという風に変わっていく。
J/
無意識のうちにまるで本当の息子、彼は勇気に溢れ愛国心にも溢れる若者だったのだけれど、そんな彼が乗り移ったようになっていくんだ
ね。あんないい加減な男だったというのに。このへんはとってもいいよね。この監督の本領が一番発揮されたところだと思う。ただこのあ
たりで赤狩りの話はどうなっているんだろうって、無性に気になり始めるのがマズイ。
B/
そうなのね。まるで『スプレンドール』か『ニュー・シネマ・パラダイス』かみたいになってきて、果たしてこの映画は何が言いたいのか
段々わからなくなってくるのね。映画を通して人に勇気を与えたい。夢を持たせたい。そんな映画愛についての映画なのかなぁって気がし
てくるのね。もしくは、キャプラの時代の善意を取り戻そうっていう映画かと思い始めていた(笑)
J/
そう、記憶喪失以来、ハリウッドからすっかり離れちゃっているからね。主人公も主人公で、もう記憶喪失ってことも忘れたみたいで(笑)
すっかりその土地になじんでしまって、記憶喪失の苦悩がまるでなくなっちゃう。
B/
それで結局たまたま自分の映画を上映しちゃったために、突然すべてを思いだし、「しまった!」なんてね。これじゃただのバカな人だわ
よね。ジム・キャリーの個性でもあるあの軽さが仇にもなって余計そんな印象になっちゃうのかもしれないけれど。
彼はジミー・スチュアートには所詮なれないのよね。まだ若い頃のトム・ハンクスのほうが、いい線行けたかもしれないわね。
J/
それで彼は恋人に告白をする。実は僕は人違いだったんだって。彼女とすればすごいショックだよね。その上タイミング悪く非米活動委員
会が彼を見つけ、街の人がみんな集まっているところで、連行されてしまう…。彼は聴聞会のピンチを果たしてどのようにして切り抜ける
のか…なんか一時間半ぶりくらいに、話が元のところへひき返してくるんだよね(笑)
B/
(苦笑)まあ、ともかくそれは街の人たちの夢や希望が崩れていく瞬間でもあるのね。信じていたものに裏切られたみたいな。やっぱり彼
らは群集心理でもって、彼の帰還を信じていたのね。彼はそれに応えてきたのだけれど、やっぱり夢から覚めれば、もうそれを演じること
はできない。なにせ見かけは街の英雄にうりふたつでも、彼自身の中身はそれに伴っていないのだから…虚像は所詮虚像なのね。
おっと、ここから先はこれから映画をご覧になる方は、読まないで出かけられることをお薦めしますね。
J/
しかし…赤狩りにフランク・キャプラ的な世界をくっつけるということ自体に非常に無理があるよね、この映画は。そもそもこの時代、
キャプラは監督としての評価は地に堕ちていた。彼の映画はキャプラコーンといって馬鹿にされていた時代。彼自身も「私は理想を追い
過ぎたのかもしれない」と告白し、うなだれていた時代なんだね。
B/
時代が複雑過ぎて、もはやキャプラ監督の理想っていうのは絵空事にしか思われなくなっていた。誰もが失望し、そんなものに感動できる
時代ではなかったのよね。
J/
監督はだからこそ、キャプラの理想を取り戻そうっていう発想をしたのかもしれないけれど、赤狩りはそんな単純なことでは解決される
ものじゃないんだね。時代を経た今でさえね。赤狩りで一番キツイのは、彼らにとっての選択が仲間を裏切って自分が生き残るか、ある
いは、自分が半永久的に仕事を失うかというふたつの道しか残されていなかったことにあるんだね。
B/
その点主人公はどうも家族もいない。ハリウッドに来たてでそんなに友人もいるわけでもない。仲間といっても、まったく付き合いのない
人たちの名前を言うだけで仕事はもらえる。また憲法修正一条をタテにとって反発して、法廷侮辱罪になったとしても、街に帰り別の人生
も待っている。というわけで、失うものがあまりないのね。確かになんの理想もなかった彼にとっては初めて自分自身で決断したことでは
あったのだけれどもね。
J/
そう、でも失うものがない。だから説得力がないんだな。それに憲法修正一条で理論武装して臨んでハリウッド・テンの人たちはみんな法
廷侮辱罪に問われた。彼も同じことをやって、なおかつ途中制止もふりきって途中退場までしちゃったというのに、法廷侮辱罪にならない
というのはあまりにも非現実的でね。赤狩りのあの舞台で、『スミス都へ行く』風の演出というのはありえないと思うよ。
B/
『スミス都へ行く』は寓話だからあのラストが生きてくる。ところが、赤狩りは厳しい現実の出来事そのもの。そこにどうしても無理が
出てくるのよね。キャプラだってきっとそんな映画は作らないわよ。
J/
結局終わりに来て、この映画は一体何がいいたいのかますますわからなくなってきちゃった。
B/
監督へのインタビューによれば、これは「すべての基盤となる理想高きものを密かに害するような連中に対して、常に注意を払い、決して
ガードを下げてはいけないという、国民に対する警告だった」ということなのね。結構大真面目みたいね。
J/
きっと、9.11の事件後、アメリカ国民というのにイスラム系というだけで迫害されるような空気が出てきたこと。これを赤狩りの時代
に例えたということなんだろうね。言わんとしていることはわかるような気がするな。
B/
結局それにしちゃ、『群集』もいれたい。『スミス都へ行く』もいれたい。あれもこれもの2時間半になっちゃって、かえって言いたいこ
とが伝わらなくなっちゃったのね。赤狩りなら赤狩りに絞る。「犠牲者の死を無駄にしない」アメリカの建国精神を思い出そうっていう
ことならそういうところに絞る。映画館への郷愁を描きたいならそれに絞る。そういうことが必要だったのじゃないかしらね。いい部分も
あるだけに、とても勿体無い気がするわねー。
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