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カエル 『嵐のあと…深く悲しき赤狩りの傷跡』

'99オスカー・ナイト …

今年のアカデミー賞授賞式、エリア・カザンがアカデミーの特別賞を受賞し、ちょっとした波紋を呼んだ。

アカデミーの特別賞といえば、スタンディング・オベーション拍手の嵐というのが普通なのだが、 今回はちょっと様子が違っていた。遠慮がちに拍手をする人、腕組みをしてムスッとした顔をして座っている人、心 からの拍手を贈る人、はっきりと人それぞれ態度がわかれた。こんなことはかつて見たことがない。
プレゼンターはマーティン・スコセッシと、ロバート・デ・ニーロ。デ・ニーロはかつてエリア・カザンの 『ラスト・タイクーン』で主演を勤めたという経緯がある。さらに赤狩りを描いた『真実の瞬間』でそれに よってキャリアを絶たれた映画監督を演じている。その彼がプレゼンターに選ばれたのは、とても因縁めい ていてる。

壇上に立ったエリア・カザンは、皮肉にも90歳という年齢の割にかくしゃくとしていて、大方の予想に反 して、謝罪をすることもなかった。ただ一言「私はそろそろ消えたほうがよさそうですね」と言ったのが、 とても寂しかった。まるで過去の亡霊が引っ張りだされ、弾劾を受けているようでもあった。

なぜアカデミー協会は今さら特別賞を贈る必要があったのか。なぜエリア・カザンだけが、今にいたっても これほどの非難を受けつづけなければならないのか。なぜ彼はこの賞を拒否することもせず、公衆の前に姿 を現したのか。疑問に感じた方も多かったのではないかと思う。ここでもう一度赤狩りとは何だったのか、 そこに居合わせた映画人たちの人間模様を中心に振り返ってみたいと思う。

赤狩り時代の幕開け…

1947年10月20日、非米活動委員会第一回聴聞会が開かれ、ここに赤狩りの時代が始まる。
非米活動委員会とは何か…ソ連に代表される共産主義国家との冷戦。それに伴う朝鮮戦争。 国内の労働者階級などの成長。これらを危惧した政治家の一大キャンペーンの一環ともいえる。 それ故にハリウッドは宣伝の絶好の餌食となってしまう。

はじめに十人の映画人が「共産主義の手先」として告発された。世に言う「ハリウッド ・テン」である。この中にはあの有名なドルトン・トランボも含まれていた。
一方ハリウッドには、サム・ウッド(『誰がために鐘は鳴る』)やジョン・ウエインらを中心に「アメリカの 理想を守る映画連盟」という組織も作られ、数々の情報が非米活動委員会に送られることになる。
しかし、なぜ、ハリウッドでいとも簡単に赤狩りが受け入れられてしまったのか。ハリウッドは元来、結束 力の強い業界だったのではなかったのか。(ユダヤ系社会という意味で)

映画『真実の瞬間』で、その辺の事情が、大プロデューサー、ダリル・F・ザナックの口を通して語られている。

「テレビに押されてきて大変なこの時に、こんなことが起きるなんて、踏んだり蹴ったりだ」

さらに映画では、政治家に膨大な寄付金を払わせられる変わりに、誰が召還されるかが映画会社首脳に事前に教 えられていたことが描かれている。映画会社の経営の点でも、ハリウッドは赤狩りを受け入れるしか道がなか ったともいえる。

「政治家たちは、自分の名前が売りたくってしようがないんだ。彼らのやり方っていうのは、どんなものだ かわかっているだろう。だから、さっさと、この一件をかたずけて、このシナリオで映画を撮ってくれ」

このセリフは、召還が決まった監督を呼び寄せ、シナリオを餌に密告することを暗にすすめるシーンで語ら れたものだ。

赤狩りの最大の悲劇は、実はこの「密告」という形にある。事前にブラックリストは出来上がっていたにも かかわらず、聴聞会ではその名前を密告させることにのみ力がいれられた。名前を言わなかったものは、議 会侮辱罪の名の元に、刑務所に送り入れられる。友人を失うか、職を失い、人生が破滅するかふたつにひと つの厳しい選択である。映画の中でデ・ニーロは言う。
「俺は、政治のことなんかはわからない。映画が好きで、映画を作ることしか知らない人間なのに、なぜこんなことになるんだ」
赤狩りによって職を奪われた300人以上の映画人たちの多くが、実はこんな気持ちだったことだろう。


ドルトン・トランボの悲劇…

ドルトン・トランボは、聴聞会で共産党員であるかどうかを問われる。そして、言論と集会の自由を規定し た憲法修正一条を楯に質問に答えることを拒否、議会侮辱罪で実刑判決を受ける。『恋愛手帳』でオスカー にもノミネートされ、これからという時に仕事と生活を奪われてしまった彼の気持ちは、どれほど悔しかっ たことだろうか。

ブラック・リストに挙げられた人々の生活の困窮ぶりは、リリアン・ヘルマンの『眠れない時代』でも 詳しく語られている。
印税を没収され、仕事を干されたダシール・ハメットと彼女は、召還さ れて2年後には、二人の思い出の土地を手放すことになり、4年後には無一文になってしまう。 しかし、彼らの場合は、映画会社に属していないだけまだ良かったかもしれない。 まもなく、仕事を再開することができたのだから。

その点トランボは不遇であった。彼は出所後メキシコに移り住み、その後13年間も正式に ハリウッドの仕事をすることができなくなってしまう。正式にというのは、実は50年代の後半になると 彼は匿名で仕事をして、細々と生計を立てていたからだ。

1956年のアカデミー賞オリジナル脚本賞受賞作『黒い牝牛』の脚本家ロバート・リッチが、実は彼の変名で、オスカーの授賞式に当然出席できなかった ことはよく知られている。アカデミー協会は1975年に、彼の名前を刻んだオスカー像を改めて贈り、こ こに彼の名誉は完全に回復する。実に四半世紀近い時が流れていた。
ロンリー・チャップリン…

チャップリンもまた、赤狩りによってアメリカを追われたことはよく知られている。しかし、彼の映画を観 る限り、共産主義とは無縁のような気がする。

『モダン・タイムス』では、道路工事のトラックの落とした 赤い旗を運転手に届けようと追っかけていくチャーリーの後ろを、労働組合の一団が指導者と勘違いして行 進していくといったギャグを作っていたくらいである。むしろ彼の映画の特徴はイデオロギーを超えたヒュ ーマニズムにあると思う。
『独裁者』では、ヒットラーの悪事をブラックに笑い飛ばし、戦争の愚かさを。 さらに進んで『殺人狂時代』では、 「なぜ一人の男がくだらぬ有閑マダムを誘惑して殺すと死刑になるのに、 なぜ戦場で多くの人が国家の名の元に殺されることが、正義になるのか」と戦争への疑問を描いてみせた。 そこには純粋なヒューマニズムがあるだけである。

ところが、この『殺人狂時代』が、いけなかった。時はまさに朝鮮戦争の時代。 そんなご時世に、それを否定するような映画を作ったことが、当局に「反米主義者」との疑惑を買った。

チャップリンは、赤狩りの危機に直面して、フランスにいたピカソに助けを求めた。 「フランス芸術家会議を召集して、アメリカ大使館に抗議をしてください」

また、この頃チャップリンはこんな一文を書いている。「ハリウッドは、ただセルロイドをキロメートル単 位で撮影することしか関係のない場所なのです。このままではやがて破滅するでしょう。 傑作というのは、工場でどしどし作られるトラクターのように、流れ作業でできるものではありません」

これらの彼の行為は、確実にハリウッドの反感を買ってしまった。
「貧乏な英国人だったくせに、芸術家ぶって、ひとりえらそうな顔をして、 何様のつもりになっているんだ」こうしたハリウッドの映画人の反感の気持ちもまた、 彼をますます追い詰めていったことは否めないであろう。女性関係のゴシップ記事も噴出し、 彼は寂しくアメリカを離れていくことになる。

彼の場合は、赤狩りが体のいい追放の理由になってしまったのかもしれない。 チャップリンが、ハリウッドから謝罪されるのは、実に1977年のアカデミー特別賞まで 待たなくてはならない。

セシル・B・デミルとジョン・フォード…

セシル・B・デミルとジョン・フォード。このハリウッドの二人の巨人が、この時代まったく正反対の生き かたをしていたのが誠に興味深い。

『十戒』のセシル・B・デミルは、共産主義者のブラックリスト作りに、もっとも積極的だった映画人のひ とりである。彼を初めとする「アメリカの理想を守る映画連盟」から、いったいどれだけの人が、告発され ていったのか。それを思うと胸が痛む。
なぜ赤狩りで、苦しみ抜いたあげく、密告に走ってしまった人間ばかりが取り沙汰されて、 彼らがなんの咎めも受けないのか。多少の疑問さえ、私は感じる。

一方、ジョン・フォードはこの時代、『怒りの葡萄』『わが谷は緑なりき』『タバコ・ロード』など貧しい 労働者のリベラルな映画を作ってきたその経歴にもかかわらず、第二次大戦で見せた愛国心的な態度が評価 されていたため、赤狩りとは全く無縁に映画製作に専念していた。師弟関係の愛国者ジョン・ウェインが、 赤狩りに積極的な姿勢を見せていたにも関わらず、彼はどこ吹く風、ひとりわが道を行っているようだった。

一方デミルは、映画監督組合で「映画の撮影中に気付いた関係者全員の政治的傾向について、 包み隠さず監督組合に報告する」という規定を設けようと画策、その提案に反対するであろう 監督組合の委員長ジョセフ・マンキュウィッツのヨーロッパ旅行を見計らって、 彼の不在のままその提案を通してしまう。
もちろんマンキュウィッツは黙っていない。 ジョン・ヒューストン(『黄金』)、フレッド・ジンネマン(『真昼の決闘』)、ジョージ・スティーブンス(『ジャイアンツ』) らの支援を受け、デミル派と真っ向から対立、組合員の全体集会が開かれることになる。 しかし、両派とも譲らず、会議は一向に決着がつかなかった。

どうにもならず、会議が紛糾しかけているまさにその時、今まで自分の態度を公私ともに全く表明していな かった、ジョン・フォードが突然立上がる。

「私の名はジョン・フォード。西部劇を作っている」(少しの間をおいて)
「私はセシル・B・デミル氏以上に、アメリカの大衆が見たいものを知っている者はいないと思う。 その点で私は彼のことを尊敬する」
(ブラックで皮肉な発言の多い彼ならではの見事な誉め殺しの後)
「だがデミルよ。俺はあんたが嫌いだ。あんたの意見も、今夜ここで言ったことも大嫌いだ。 俺はマンキュウィッツに信任の一票を投じたい。そしてもう家へ帰って寝ようじゃないか」
「明日も映画の仕事があるんだ。」

何てカッコいい!
寡黙な男のこの一言は、実に効果的だった。またたくまに形勢は逆転。デミルは辞任へと 追い込まれ、マンキュウィッツは再び委員長に就任。デミルの提案は捨て去られた。

一本筋の通った、真の男の生き方をジョン・フォードの姿に見る思いがする。
エリア・カザンはなぜ恨まれたか…

赤狩りで告発され、ハリウッドから仕事を追われた人の多くは、二度と復職することなく寂しく人生を終え ている。

出所後、『ジョルスン物語』の主演でスターになったラリー・パークスは、以後全く仕事にありつ けず、建築業者へと職替えした。ナイトクラブの照明係で辛うじて生計を立てる者、慣れない仕事を転々と 移る者も多かった。ドルトン・トランボのようにハリウッドでのちに復権した人間は、むしろ少数派だった のである。

そのことを考えると、エリア・カザンの犯した罪は、確かに重い。彼が密告した人数は11人。しかし、脚 本家のマーティン・バークリーの155人、ロバート・ロッセン(『ハスラー』)の54人、エドワード・ド ミトリク(『十字砲火』)の23人と較べると意外に少ない。

それに彼はいきなり密告に走ったのではない。 ぎりぎりの線まで抵抗を続け、いったんは刑務所にも入っている。二人の子供を抱え、生きるか死ぬかの選 択の中で結局密告の道を選んでしまう。彼もまた赤狩りの犠牲者なのである。

しかし、彼への風当たりは、ことさら強い。自分を苦しめた人々を許したドルトン・トランボでさえ、 「カザンには軽蔑を感じる」と、怒りを露わにする。なぜなのだろうか。

ジョン・ウェインやセシル・B・デミルは間違ったことをしたとは言え、 愛国心から犯した過ちという認識が世間にはある。ところがエリア・カザンは、かなり早い時期から の共産党員であったにもかかわらず、ひとり抜け出し主義を転向し、仲間まで売ってしまったという行為自 体が反感を買っている。
しかも彼は、ユダヤ系の外国人で、赤狩りの時代にはすでに『紳士協定』『ピンキー』 『欲望という名の電車』で巨匠という地位にありながら、自分よりも若いこれからという人の名を売っ てしまっている。また、彼に売られた仲間たちが苦難の道を歩んでいるのを尻目に、 『波止場』『エデンの東』『草原の輝き』等、名作といわれる映画を作り、オスカーも受賞。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ウォーレン・ビーティーを世に送り出すなど、 目覚ましい活躍をしているのも、辛苦を舐めた人たちにとっては、辛いところである。

エドワード・ドミトリクのその後の不幸(奥さんが自殺)に較べても、彼のその後の活躍ぶりは目立つ。 映画界への貢献が大きければ大きいほど、皮肉にも彼への風当たりは強くなったのである。
再びオスカー授賞式をめぐって…

ハリウッドが、50年代の赤狩り以来、今に至るまで「ブラックリスト」づくりに加担したうしろめたさや、 残された傷を抱えてきたのは、赤狩りを正面から描いた作品が1991年の『真実の瞬間』まで作られなか ったことをみても明白である。

「映画芸術科学アカデミー協会」が70年代に赤狩りの犠牲者たちに謝罪の 意味も込めてオスカーの特別賞を与えたように、この時代の区切りにすべてを清算しようと、エリア・カザ ンに特別賞を与えようとしたことが、逆に赤狩りという事件の重さをより感じさせる。

エリア・カザンもまた、それをよく受けたとも思う。
映画界から去って久しい彼にとってみれば、もうそっとしておいてほしいことであったと思う。 会場で観衆の目にさらされれば、痛い視線が送られることは、明らかであったのに、 それでも彼は受賞を拒否するでもなく、堂々と姿を現した。彼もまた、この機会に事件 を清算したいという気持ちが大きかったのではないだろうか。
自分にとっては、辛いことであってもそうすれば、彼の家族は救われる。そんな思いもあったと思う。 だから、彼は最後まで謝罪はしなかった。謝罪をするためではなく、家族の名誉のために出席したのだから。

そして、「映画芸術科学アカデミー協会」の思惑は見事に外れてしまった。
腕組みをしたまま、拍手をしない人、とりあえず拍手をする人、立上がって拍手をする人…。
会場は、皮肉にもかつてのハリウッドのように、はっきりと分裂してしまった。 それでかえって赤狩りの不幸が現実のものとして目の当たりに見せられた思いがした。 元よりそんな小手先のことでは、清算できることではなかったのだ。

もちろん罪はエリア・カザンのみにあるのではなく、赤狩りをはじめた人間にあるのは確かなのだが、 そんなことは案外誰でもわかっていることだとも思う。
ただ、人間は怒りのやり場にない不幸に接したとき、何かのせいにしなくてはやりきれない、 というのも真実なのだろう。

その象徴的な存在にされてしまったエリア・カザンもまた、不幸な犠牲者のひとりなのだ。
★付録;赤狩り映画人語録

◎ゲイリー・クーパー(『誰のために鐘は鳴る』)
「私は共産主義的発想の脚本を何度もつき返した」

◎ダシール・ハメット(『マルタの鷹』の原作者)
「この刑務所行きが俺の命にかかわることになっても、自分の考える民主主義のため なら命を捧げてもいいと思っている。デカや判事などに民主主義について教わるつもりはないね」

◎リリアン・ヘルマン(『ジュリア』の原作者)
「私の良心を今年の流行に合わせて断つわけにはまいりません」

◎ジョン・ハワード・ロースン
「私はここで裁かれているのではありません。この委員会が、ここでアメリカ人民に裁かれているのだ」

◎ウォルト・ディズニー
「ドナルド・ダックまでが、共産主義の宣伝に利用されてしまった」

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