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カエル 『やっぱりねこは名アクター』



フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』の劇中映画の中で、朝食の盆を外に出すと、そこへ猫が来て、ミルクをなめるという シーンがある。スタッフのひとりが猫を盆の傍へ置いてさあスタートとなるのだが、マイクを怖がる猫はスタッフのほうへすぐに戻って きてしまう。ようやく盆に近づいたと思いきやクンクン匂いを嗅いだだけでその場を過ぎ画面の外へフレーム・アウトしてしまう。「2日 間絶食させていたのに…」とあせって言い訳をするスタッフにトリュフォー監督は「別のねこを探せ!演技ができるのを」と言うのだが、そ もそも「演技ができる猫」って何…笑ってしまう。 結局、ロケ先の屋敷の管理人が飼う「しまらない顔」の猫がミルクを飲んでいてことなきを得るのだが、いやはや。

そもそもこのシーン。『柔らかい肌』でも同じシーンがあるのだが、余程撮影に苦労したらしく、しかもその割に映画が当たらなかったと いう苦い思い出の意味もこめて、映画づくりの現場を見せようとする意図をもったこの映画で再現してみせたということである。かように猫 は映画ではままならない。

「猫は決して自分の心に染まぬことをしない。そのために孤独になりながら強く自分を守っている。用がなければ媚びもせず、我侭に黙り 込んでいる。それでいて、これだけ感覚的に美しくなる動物はいない。冷淡になればなるだけ美しいのである。贅沢で我侭で他人につめた くすることはつねどんな人間の女のヴァンパイアより遥かに上だろう」とは大佛次郎氏の猫賛歌(「猫のいる日々」)。

僕はさすがにヴァンパイアより上とまでは思わないけれども、猫とはこれまで随分と縁があったので性質はよくわかる。大体遊んで欲しい とき、ごはんが欲しい時にだけ人に妙にスリスリしてくる。膝元でゴロゴロいって可愛いななどど撫でていればいつのまにか眠っていて、 なんのことはない人間枕に自分がされていただけなのかと気付き、かといって可愛い顔で寝ているのを起こすわけにもいかず、足にしびれ が来ているのにも耐え忍ぶこととなる。これでは主人がねこで人間は都合の良い召使かと思えてくる。
けれども猫好きにはこんなことがたまらない。なんかこちらまでホンワカとした気分になってくるものである。

「蚤のサーカスはあっても猫のサーカスはない」ごもっともである。「猫を映画に使おうとするほうが間違っている」この猫の性質を 考えれば当然かと思ってしまうのである。あのフランソワ・トリュフォー監督も間違っていたのだ。

ところが、ここに一本の奇蹟の映画がある。『こねこ』('96ロシア映画)文字通り猫が堂々主役の映画である。もちろんどこぞの国の映画のように猫に残酷 な仕打ちをしての撮影というわけではない。この映画では確かに猫が演技をし、芸まで披露しているのである。聞けば猫好きの孤独な青年 に扮した役者さんの本職が「猫の調教師」とか。「猫のサーカス」はロシアに存在していたのである。

その中でも芸達者なジンジンは、この調教師のお兄さんが家で飼っている猫。二本足で連続ジャンプするのが嬉しくてしようがないといっ た風情だし、他にもテレビの上に座り、しっぽを車のワイパーのようにふりふりしてテレビを観るのを邪魔する猫。腕の上を綱渡りのよ うに歩く猫。ドーベルマンと格闘し負かしてしまう猫などなど、今までの常識からしたら奇蹟とも思える映像のオン・パレードなのだ。

それでもさすがに猫に「どうかこのシーンで寝てください」とスタッフがいくら言ったって聞くわけはなく、「寝るまで待とうホトトギス」 の辛抱の撮影ではあったということではある。そして人間たちへの突撃シーンでは、仲の悪い猫同士を同じシーンの中に入れたことで、自 然に「ウグー、カー」をやってくれたというわけで、演技というよりは自然な猫の反応をうまく引き出し、シーンに当てはめたというのが 本当のところなのだ。でも考えてみれば、これぞ究極のリアリズム演技ではなかろうかなんて…

猫の性質は、何を考えているのか簡単に人間に見破れてしまうような正直さを持っている。悪いことをすれば申し訳なさそうな顔をしてス リスリしてくるし、つまらないことには知らんぷり、興味を持てばその対象をじっと見詰めてしまう。『こねこ』はそうした猫の性質を上 手に利用して作られた傑作映画だったのだ。

ところが、この猫の性質を知らずして映画を作ると、ときに悲惨なことになる。
その映画はご存知『007は二度死ぬ』(この映画は日本が舞台で、当時の横綱佐田の山が英語をしゃべったり、蔵前国技館での相撲風景 が映るのはいいが、ドスンドスンととんでもない効果音がついていたり、別の意味で興味の尽きない映画でもあるのだが)。

この映画の悪役ブロフェルドは大変な猫好きで、何をしててもそう殺人の指令を出しているときにさえ、毛足の長い猫を膝にのせ撫でて いる。(『オースティン・パワーズ』のドクター・イーブルはこの人がモデルになっている)その冷酷な組織のナンバー・ワンというイメ ージとこの猫の取り合わせ。これが彼をよりいっそう不気味なものに見せているのだ。

米ソの秘密カプセルを日本の秘密基地から発射したロケットで捕獲するという壮大な計画 。この計画が秒読み段階に入ったとき、我らが ジェームズ・ボンドがブロフェルドの元に侵入してくる。ドアが派手な音を立てて爆破された。ドカーン!

と、そのときである。それまで大人しくしていたブロフェルドの猫が暴れ出したのは…「上がり目、下がり目、ぐるっと回って猫の目」と いうくらいに丸い猫の目がさらに真ん丸くなり、毛を逆立てその場から逃げようともがいている。シナリオにはきっと猫が逃げるという 設定はなかったのでしょう。ブロフェルドは冷静にセリフを言いながらも必死に猫をつかんで離さないようにしているのがわかる。 もーう、目が釘付けになっちゃいますよ、このシーンには。ストーリーなんか忘れてしまうほどのインパクトがある。

猫はそもそも音に敏感な生き物。それなのに目の前で突然大音響がしたのだから、もうびっくり!必死に逃げようとするのは当たり前。
一方ブロフェルドを演じたドナルド・プレサンズだって必死なのだ。大掛かりなセットを爆破しての撮影だからNGは決して許されない。 引っ掻かれようが、何されようが猫を必死に押さえ、顔では涼しい顔をして憎々しいセリフを決してトチらず、かつ凄味を利かせて言わなく てはなりません。

猫の気持ちと人間の気持ちが見事ぶつかりあう。ところがお互い必死であればあるほど、なぜか間抜けな風景になってしま うもので、もう可笑しくて可笑しくて観ているこちら側はもう笑いが止まらない。猫の毛が全部抜けちゃうなんて『オースティン・パワー ズ』のギャグなんて遠く及ばないほどの可笑しさで…これではもう映画としては大失敗。そして続くシーンでは、ブロフェルドは 一応猫を抱えている格好をしてはいるのだけれども、よく見るとそれは格好だけで猫がいないことがわかってしまい、それが一層の憐れさを醸し出し ているんです。涙涙涙…。

結局、この後007シリーズでブロフェルドは何回となく登場することになるのだが、2度とドナルド・プレサンズはこの役を演じること がなかったことを思うとき、非常に複雑な思いを禁じ得ません。「たかが猫じゃないか」映画を作る人は決して猫を侮ってはいけないと思 いますよ。猫の性質さえ理解してやれば、彼らは最高の演技者にもなれる代わりに、理解が足りないと映画に災難をもたらす存在にもなる のだから…。

メイルちょうだいケロッ

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