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カエル 『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』で至福の時間を体験す。



『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』を観てきました。
オムニバス映画といえば、過去には『ボッカチオ’70』最近では『チューブ・テールズ』『セプテンバー11』などが記憶に新しい ところですが、これだけのそうそうたる監督たちを集めてというのは、大変珍しいことです。
アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセ、ヘルツォーク、ジャームッシュ、ヴェンダース、スパイク・リー、チェン・カイコー『人生のメビ ウス』だけでもすごいのですが、このほかに『イデアの森』というのがありまして、こちらはベルトリッチ、ゴダールなどなど、全部で総勢 15名を数えます。

プロデューサーは、映画製作の動機について、「物語りの中では、時は時としての役割を果たさない」という言葉に触発されたということを言っ ています。タルコフスキー監督も「映画は時間を彫刻するもの」と言っていたということですが、それじゃさまざまな監督たちを集めて、 「時間」というテーマで映画を作ってもらったらどんな風になるだろう。そんなことからプロジェクトが始まったそうです。

確かに映画というのは、実際の時間と映画の中の時間が一致しているものもあれば、2時間で数時間、数年間、それどころか何百年もの時 間を飛び超えてしまうものもあります。また現在の時間の流れの中に突然過去の時間の流れが出現することもあります。いずれにしてもフ ィルムは止まることなく一定の速度で持って流れていきます。その流れは音楽と同じであり、映画が「時間の芸術」と言われるゆえんです。

前にも一度書いたことがあるのですが、現実の中でも時間は人によって、場所や状況によって長くもなり短くもなるもので、多分に感覚的 なところがあります。感覚的なものであるからこそ、人は映画を観ていて上映時間が10分であっても、これは半日の出来事なんだなと 感じられるのかもしれません。
それぞれの名監督たちが与えられた時間はわずか10分。テーマは「時の流れ」。これだけでもう興味はつきないところでしょう。

実際、それぞれの監督たちはわずか10分の時間の中で存分にその個性を発揮しております。 たった10分間でも映画はこれだけのことができてしまうのか。驚嘆せざるをえません。
10分を一万年の時の流れにしてしまったヘルツォーク監督。女優の10分の休憩時間、その間に起こったことを円熟の技で見せるジャー ムッシュ監督。消え行く中国の伝統的な街並みを慈しんだ傑作(これは半日くらいの出来事でしょうか)チェン・カイコー監督。 スパイク・リー監督は10分間で、CBSの「60ミニッツ」に匹敵するだけの内容を盛り込んでいます。ブッシュ勝利報道から、10分 間の間に何があったか。その緊迫の時間を当事者たちの証言でもって再現します。映像と音、映画の表現手段を目一杯使っての10分間に 監督の思いが伝わってきます。わがアキ・カウリスマキ監督だけは、なぜか映画の時制が完全に狂っていてご愛嬌といったところでした が…(汽車に乗るまでの10分間の間に、どう考えても10分以上の時が経ったしまっている)

『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』で今回私がもっとも楽しみにしていたのは、ビクトル・エリセ監督の10年ぶりの10分 間の新作「ライフライン」でした。『ミツバチのささやき』『エル・スール』『マルメロの陽光』1970年代からわずか3本しか映画を 作っていない大変な寡作な監督なのですが、そのどれもが私にとってはその年の最高の一本となっています。

「ライフライン」この10分はまさに至福の時間です。映像と音が醸し出す映像詩と言ったらいいのでしょうか。
中心となっている話は、誕生したばかりの赤ん坊の「死の危機」がせまった10分間。 そういえば、彼の作品は『ミツバチのささやき』以来、映像に常に「生と死」のイメージが混在しているのですが、この映画は生まれたば かりの赤ん坊を登場させることで、よりそのイメージが濃縮されたといってもいいかもしれません。

平和な田舎の午後…すやすやとベッドで眠る母親と揺りかごの赤ん坊。聖母像の置物がふたりを優しく見守っています。ところが突然真っ 白いベビー服に真っ赤な血(映画自体はモノクロですが、鮮烈なイメージです)が染み出してきます。それに様々な風景がカット・バック されていくことで生み出されるサスペンス。死が目の前にせまる赤ん坊と、そんなことは露知らぬ平凡な日常とのカット・バック。
パンをこねる産婆さん(食)と水差しの下に敷かれている新聞紙の記事
(ナチス国境閉鎖の記事…やがてくる困難な未来)
ミシンで赤ん坊の名前を刺繍する女(衣と同時に未来への希望)
居間で眠りこける父親と祖母。カードで遊ぶ男(遊び)
柱時計が時を刻み、その壁にはたくさんの家族の写真(酒場で微笑む人たちなど…幸せな過去)
部屋に戻って…さらに染み出していく赤ん坊の血…どこからか蜂が飛んできて羽音を振るわせています。

そんな中、さらに時は静かに静かに流れていきます。 家の外では、少年が自分の腕にマジックで時計を描いています。 耳を当てると時計が時を刻むような規則的な音がしてきます。

牧草地では…
金槌で金属のバックルを打ち付ける男とその規則的な音。 実はこれが、少年の時計の音であったことがわかります。
洗濯物を干す女とその規則的な手の動き。
鎌で草を刈る男とその規則的な音。
木の下では、内戦で「片足」を失った若者が、もう片方の足に糸をかけ それを手で編んでいます。
そこにブランコに乗る「裸足」の少女とこぐ音がそこに重なってきます。
草の上に寝そべる犬。
牧草地のイメージの最後は動のイメージとは対象としての時が止まったかのような畑に立つ案山子です。

イメージの最後に案山子がきているというのも面白いですね。映像が音楽のように一定のリズムで流れていく心地良さ。しかし、そこには 単なる心地良さというだけではなく、やっぱり人間の生活、日々の営み、衣食住、睡眠、子供の遊び、そういったものすべてがイメージの 中に含まれていることに気づきます。そして過去。生死の境を生きてきた青年…そして死のイメージの案山子。そう言い忘れていましたが、 案山子には兵士のヘルメットがかぶせられています。

部屋の中のイメージも外のイメージも、「動から静へ」、「生から眠りを経てそして死へ」と連なっているのですね。 そこにさらに過去と未来のイメージもここには折り込まれているんです。

この映画はそんなイメージが、死の危機に瀕した赤ん坊と並行してさらに積み重ねられていきます。そのために「ライフ・ライン」という タイトルは、赤ちゃんの「生死の線」の意味なのですが、それ以上にひとりひとりの人間の「誕生から死に至るまで」の絶え間なく繰り返 される「日常」という時間の流れ、人生という時間のライン、そんなことまでが想起させられてしまいます。10分でこんな大きなテーマ をさらりと描いてしまうあたり、ビクトル・エリセ監督はやはりとてつもない人だと思います。 そのすごさは、やっぱり言葉では言い表せません。機会がありましたら、ぜひご覧になってみてくださいね。

メイルちょうだいケロッ

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