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カエル シドニー・ポワチエ、名誉賞の歴史的意味ってなんだろう?


名誉賞 第74回アカデミー賞

今年の第74回アカデミー名誉賞は、シドニー・ポワチエが受賞。 そのうえ、黒人俳優がふたりもオスカーを手にしました。アメリカのラジオ局では、 「今日はブラックヒストリーに残る日になった」と伝えたそうです。

かつて、オスカーに輝いた黒人俳優は僅かに6人。 ハッティ・マクダニエルシドニー・ポワチエ、ルイス・ゴセット・ジュニア、 キューバ・グッティング・ジュニア、デンゼル・ワシントン、 そしてウーピー・ゴールドバーグだけでした。
主演賞に限っては、73回の歴史の中でシドニー・ポワチエが唯一の受賞者だったのですが、 この日はふたりの黒人俳優が一辺に主演賞に輝いたのですから、これはまさに歴史的快挙です。

<名誉賞;シドニー・ポワチエのスピーチ>
「黒人俳優という苦難と闘ってきた私たちの先輩たちにこの賞を捧げます。 彼らの姿を見て私はすべきことを学びました」
この短いスピーチの中に、これまでの彼らの苦闘の歴史、その思いが込められているような気がします。

<主演女優賞;ハル・ベリーのスピーチ>
「この賞は私のものだけではありません。 この賞はドロシー・ダンドリッジ、レナ・ホーン。ダイアン・キャロル、そして共に歩んできたジェイダ・ビンケット、 アンジェラ・バセット…すべての有色人種の女性のものです。今夜また新たな扉が開かれました」
ハル・ベリーの涙、涙、涙。
70年代からオスカーの授賞式の模様は、観てきていますが、ここまで泣き崩れてしまったのは観たことがありません。 オスカー史上初めての黒人女性の主演女優賞。とても感動的で、これはこれからも語り継がれる歴史的なシーンとさえなりました。

<主演男優賞;デンゼル・ワシントンのスピーチ>
「一晩にふたりか(笑)。神様は素晴らしい。心の底から感謝します。
40年間追いつづけたシドニーと同じ夜に受賞できた。あなたの軌跡をいつまでも追いつづけます。 それが私の人生であり生きがいです」

ここに到ってシドニー・ポワチエは、もう腹の底から嬉しくてたまらないといった様子で、 ここに彼の苦労も一気に報われたかのような心持がしました。

上に書いた3人のスピーチには、長くツラい歴史を歩み続けた先人たちの努力と苦しみに思いをはせ、 それがやっと報われた、という彼らへの尊敬と感謝が込められていました。
今日は、ハリウッドの華やかな世界の中で、常に人種差別の目にさらされ続けた 黒人俳優たちの歩んだ道にスポットを当ててみたいと思います。
少し長くなりますが、最後までおつきあいください
マミーの受難……『風と共に去りぬ』より

<助演女優賞;ハティ・マクダニエル>
さて、時代は遡って、1939年。この年は『風と共に去りぬ』がオスカーを総ナメにしました。 そんな中で助演女優賞を獲得したのが、スカーレットのマミー役を演じた ハッティ・マクダニエルでした。
受賞のスピーチのためどこか遠慮がちに壇上に上がった彼女は、 「本当に恐れ多いことと思い、これを人生の指針として参るつもりです。 黒人と映画人の代表として名を汚さぬように努力します」と短いスピーチをします。 この「本当に恐れ多い」という部分に彼女の立場が出ているようです。
確かに、彼女は授賞においてアカデミー会員からは最大限の歓迎を受けてはいたのですが、 それにも関わらずその夜、会場の後ろの方の席に座ることをまだ強いられていたのでした。

初期のハリウッドでは、アフリカ系アメリカ人の女性はマミーおよびメードの役が役柄のすべてでした。 彼女たちはそんな困難な状況でもステレオタイプにならないような努力をし続けていました。 『風と共に去りぬ』のマミーの圧倒的な存在感は、ハッティ・マクダニエルのそんな努力の集大成といった感じがします。
彼女のオスカー受賞は、もちろん政治的な意味合いも少しは入ってはいますが、 それ以上に彼女の演技が評価された結果だと思います。

にも関わらず、オスカーを受賞したハッティ・マクダニエルはのちにこう語っています。
「オスカーは私を大変惨めな思いにさせた。 将来において何かできるかも知れない者への指針となってしまうように思えた」
ハッティ・マクダニエルは、歌手としてそのキャリアを始めたあと、ハリウッドでデビューします。 しかしながらその大半はマミーの役に終始してしまいます。
今手元に『ショウ・ボート』(1936年版)のスティール写真がありますが、彼女の姿は、 そのまま『風と共に去りぬ』に出演してもなんら違和感のないものとなっています。 彼女はオスカーを受賞したことによって、色々な可能性が広がるのではなくて、 逆に"黒人女優=マミー"のイメージを人々の目に焼き付けてしまったことを後悔していたのでした。

<70ドルか7ドルか>
実際、白人たちはマミーに対して「重厚さ、気高さ、永遠の母親像」を見ています。
一種の郷愁を感じさせるからでしょうか、アメリカのパンケーキの商標は70年代になるまで、 「頭に三角頭巾を巻き、エプロンをして、太っていておおらかに歯を出して笑っている」ジェマイマおばさん (これは1927年のブロードウェイの舞台『ショウ・ボート』から来た名前です)の姿を使っていました。
これは『風と共に去りぬ』のマミーのイメージと瓜ふたつであることがおわかりかと思います。 大ヒット舞台劇『ショウ・ボート』で定着したこのイメージがさらに『風と共に去りぬ』で決定的なものにしてしまった。 彼女の後悔はこの一点につきるのでしょう。(決して彼女のせいでも何でもないのですが…)

悲惨なのは、このイメージが絶対的なものになってしまったがために、なかには大きなマミーのステレオタイプに適合するのに、 食べ過ぎなければならなかったり、衣類にしばしば詰め物をしなければならない女優さえいたことです。 そんなことをしなくったって、他に役もあるだろうにと今なら考えてしまいますが、そうしないことは、 即ハリウッドで役を失うことを意味したのです。
「マミーの役をやって週に70ドル稼ぐか、それとも本物のメイドになって、週7ドル稼ぐか」 彼女たちには究極の選択が迫られていたわけです。


プリシー プリシーの闘い…『風と共に去りぬ』より

<プリシー役;バタフライ・マックイーン>
『風と共に去りぬ』にはもうひとり、メイドのプリシーという少女が登場します。
マミーの場合には威厳があり、賢さも備えているから、それほど批判が集中しないのでいいのですが、 プリシーは愚かで臆病で、いつも突拍子もない声を張り上げている。 そのうえ怠け者で、混血で信用できないキャラクターとして描かれています。
実際、黒人観客が最も不快感を覚えるのはこのキャラクターに他なりません。

「侮辱的」「ばかばかしい」……『わが青春のスカーレット』(朝日新聞社)の著者が集めたアンケートの結果でも、 大半の回答者がこのキャラクターには不快感を感じているようです。
「この映画でいつも嫌になるのは、プリシーが不自然におどけることです。そしてスカーレットに二階に 追い立てられたプリシーが、わざとらしく卑屈な態度でしゃべる声は今も頭にこびりついて離れません」

プリシーを演じた女優バタフライ・マックイーンは、この役を演じたがために、 周りの黒人たちからも白い目で見られ、その後苦難の人生を歩むこととなります。
「当時私はあの役が嫌いだったの。知的な人間には辛い役だったわ。 1938年でしょ、まさか奴隷にされるとは思わないわよ。撮影中はずいぶんと悩んだわ。 でもぶたれるの以外は何でも言うとおりしたわ」
当時彼女は28歳、のちに文学士の学士を取るほど賢かった彼女が愚かな12歳の少女を演じることの屈辱。

そんな屈辱にも関わらず、『風と共に去りぬ』以後も同じ役が持ち込まれつづけたためバタフライ・マックイーンは、 遂に彼女のいうところの「ハンカチを頭に被っている黒人」の召使役を拒否します。
そして1946年『白昼の決闘』以降、ハリウッドのプロデューサーたちは、 マックイーンを役からはずしたために彼女の俳優生命は、まだこれからというのに終わってしまいました。 その結果皮肉なことに、生活のために彼女は本物のメイドなど、職業を転々とすることになるのです。

その後の彼女は1967年にMGMが公民権法制定に合せて、『風と共に去りぬ』をリバイバル上映することに反対したり、 一時期、ブロードウェイの舞台に復帰したりと時々公の場に姿を見せたことがありましたが、 一番気の毒だったのは、1980年に起きた事件でした。
彼女がバス停に立っていたところ、彼女をスリと勘違いしたガードマンに呼びとめられ、 抵抗しようとしたところをベンチの上に投げられてしまい、肋骨を何本も折る大怪我をしてしまいます。 人種の偏見から出た大きな誤解でした。彼女はここでも果敢に立ち向かい、4年の法廷闘争の末に勝訴。 6万ドルの保証金を得ました。

余生は、ニューヨークとジョージア州で、ボランティア活動をして人々を助けていたバタフライ・マックイーン。
最期は石油ストーブの事故で全身の70%を火傷し、病院に運び込まれましたが、すぐに亡くなりました。 彼女には優れたコメディエンヌの才能があったので、時代が違えば、どんなに楽しい映画が残せたことでしょう…。

生涯を闘い続けた彼女の最期は、そのボランティア活動によって多くの人に愛され、惜しまれて逝ったということが、 ただ唯一の救いのように思います。


レナ・ホーン MGMミュージカル歌姫の落胆

ここでちょっと当時の音楽界のほうに目を向けてみると、黒人のスタア・ミュージシャン、 ダンサーたちがキラ星のごとく輝き、まさに自分たちが主役の活躍を続けていました。
ルイ・アームストロングキャブ・キャロウェイビリー・ホリデイファッツ・ウォーラーデューク・エリントンレナ・ホーンビル・ロビンソンニコラス・ブラザースなどなど。
ニューヨークの「コットン・クラブ」では彼らのショウが毎夜繰り広げられ、大変な人気を博していました。 ただしこのクラブは皮肉なことに、白人以外のお客さんはお断りではあったのですが…。

ハリウッドが、そんな彼らの人気を放っておくはずがありません。まもなく彼らを映画界にも引っ張り込みます。
しかし、彼らはハリウッドでは決して主役を張ることはありませんでした。フレッド・アステアも尊敬した黒人ダンサーの父、 ビル・ボージャングル・ロビンソンは、いつもシャーリー・テンプルを相手に踊る黒人バトラーの役と相場が決まっていましたし、 ジーン・ケリーを「下手な」ダンサーとまで言ったニコラス・ブラザースも彼らの添え物の扱いにしか過ぎなかったのです。
ルイ・アームストロングとビリー・ホリデイが恋人になるという奇蹟的な映画も作られはしましたが、 これも白人俳優たちの恋のドラマの中での一挿話に過ぎません。

ただし第二次大戦中にはハリウッドで初めて、黒人たちだけが出演するミュージカルの大作『ストーミー・ウェザー』(1943年)が 作られます。
これは、大戦で黒人兵たちがたくさん駆り出されていたことから、彼らを慰問する意味もあって作られた、 いわば国策のような映画です。この映画はもちろん抵抗の強い南部では公開はされませんでしたし、 その後もう一本似たような作品が作られただけで、これをきっかけに黒人ミュージカルが作られるということにはなりませんでした。
ブロードウェイや、コットン・クラブでは受け容れられるショウでさえ、南部には受け容れられない地域があったのです。 商売にならなければ、すぐ止める。昔のハリウッドも今のハリウッドもこの点では同じです。

そんな状況の中唯一、ハリウッドの大手撮影所と長期専属契約を結び、黒人女優の中で例外的にスタアの扱いを受けたのは、 レナ・ホーンでした。彼女は抜群の歌唱力と美貌を持っていたからです。
しかしスタアの扱いを受けているそんな彼女でさえ、もっぱらミュージカルのゲスト出演的なシーンしか与えられないあり様でした。 彼女は確かに美しかったのですが、当時のステレオ・タイプ的黒人像に照らし合わせてみると、 「教養はあり、色白でヨーロッパ的な優雅さえたたえていて白人の要素を持つことで、白人男性たちを性的な魅力で誘惑する悪い女」ジェ ゼベルに過ぎないのであり、白人社会(特に南部の)には、到底受け容れられるものではなかったのです。

彼女は契約の当初から、メイド役やこうしたジェゼベル役を演じることを拒否していました。 そのことを承知してもMGMは彼女の才能を手にしたかったのですが、結局は当時の社会状況を考えて、 彼女を主役に映画を撮ることもできずに、ゲスト出演的な役を振り当てるのがせいいっぱいということになって しまったのでしょう。

彼女はしかしその待遇には甘んじてはいませんでした。
MGMで『ショウボート』(1950年)が再び製作されたときのことです。彼女は主役のジュリー役のオーディションを受けました。 ジュリーは混血の女性ですので、まさにレナ・ホーンには適役。しかも彼女は『雲の流れるままに』という オムニバスミュージカルの中でジュリー役を演じています。意気込みも自信も大変ありました。
しかしそれにも関わらず、結果はエヴァ・ガードナーに決まってしまいます。 黒人女性と白人男性の恋物語は、当時としてはご法度となっており、MGMとしては当初からレナ・ ホーンに演じさせる気はなく、ただオーディションを形だけやったに過ぎなかったのです。

レナ・ホーンは当時をこう振り返っています。
「エヴァ・ガードナーは私とは親しかったのですが、それでも役からはずされたことは とてもショックでした。彼女は、私のオーディション・テープを聴いて歌の練習をしていたと聞いています。
ハリウッドはホームではありませんでした。私は歌を唄うとすぐに家に帰っていました。演技にも挑戦したかったです」

主役に選ばれた女優が、選ばれなかった女優の歌を元に練習をするという皮肉。ずいぶんと残酷なことをしたものです。 この件に加えて、赤狩りのブラック・リストにまで載せられてしまった彼女は、この後しばらくハリウッドを去ることになります。

余談ですが、『ザッツ・エンターテインメント』で、レナ・ホーンがアステアやジュディ・ガーランドと同じくらい 大きな取り扱われ方をしているのは、罪滅ぼしの意味もあるような気がしてなりません。


スワンソン ポワチエとキング牧師の軌跡

<新しい時代の幕開け?;ポワチエデビュー>
MGMのひとりのスタア女優レナ・ホーンが、寂しくスタジオを去った1950年、 奇しくもひとりの黒人俳優がMGMでデビューしました。彼の名前はシドニー・ポワチエ
映画は『復讐鬼』。役柄もインターンの医師といった役どころです。恐らくこれが黒人俳優にはじめてついた知的な 役柄でした。

MGMは、元々ミュージカル映画で一世を風靡した会社で、そのため黒人アーティストたちとの繋がりも多かった会社です。 そしてMGMの会長サミュエル・ゴールドウィンは、ジョージ・ガーシュインの名作『ポーギーとベス』を映画化するという夢を 永年の間持っていました。

この時代、1949年にはハーヴァード大学で初めて黒人の大学教授が採用されます。 また同年にはエリア・カザン監督の『ピンキー』で黒人の差別問題を取り上げていたということもあります。 もちろん、まだ公民権運動は起きてはいませんでしたが、彼はそんな社会的背景を敏感に感じ取っていたのでしょう。 黒人が主役の映画が作れる時代がくるかもしれない。彼は自分の夢の実現への期待も含めて、 シドニー・ポワチエと契約をしたように私には思えます。

<機は熟した;『ポーギーとベス』>
とはいえ、さすがにMGMも社会の状況を見ながら、ゆっくりとしたペースでシドニー・ポワチエを 売り出していくことになります。
ポワチエが初めて注目されたのは、1955年の『暴力教室』と言われています。
この年は、ウーピー・ゴールドバーグ主演で映画化(『ロング・ウォーク・ホーム』)もされた、 "バス・ボイコット運動"というのが黒人たちによって行われています。そしてバスで黒人用の席を決められ たり、白人に席を譲ることを強制されたりする現実に抗議したこの運動で一躍有名になった人こそ、 あのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師なのです。
こうした社会的背景の中で、まさにシドニー・ポワチエはスターになっていきました。 機は熟してきたといったところでしょうか。
1959年には、ついにサミュエル・ゴールドウィンの夢だった、『ポーギーとベス』がオール黒人キャス トで作られました。

<キング牧師とポワチエの盛衰>
これ以降、シドニー・ポワチエの経歴を見ていくと、実は大変面白いことに気づかされます。
1957年キング牧師による最初のワシントン行進。翌年ポワチエは『手錠のままの脱獄』に出演、 オスカー・ノミネート。1963年キング牧師の歴史的名演説「私には夢がある…」も行われたワシントン大行進。 同年ポワチエ『野のユリ』に出演し、翌年同作品で遂にオスカー受賞。同年にはキング牧師もまたノーベル平和賞を受賞。
1967年に、シドニー・ポワチエは『夜の大捜査線』『招かれざる客』に出演しひとつの頂点に達するのですが、 その翌年にはキング牧師は暗殺されてしまいます。そしてシドニー・ポワチエもまた、この年あたりを境に、 かつての勢いを失っていくのです。

こう見てくると、偶然にしては出来過ぎです。思うに、サミュエル・ゴールドウィンが時期を見ながら、彼 を売り出していったこともあるでしょう。そして彼がまさにスターになったとき、公民権運動が、 彼の人気を後押ししていったのではないでしょうか。
彼の演じた役は、善良で知的、「白人社会が受け容れやすい」優等生的なキャラクターでした。 こうしたキャラクターが、キング牧師の公民権運動の清潔さともピッタリと合致し、またそれを支持する 白人たちにとっても好ましく、彼は時代のヒーローとなっていったように思います。

しかし、キング牧師が暗殺され、運動の質も変わっていきます。
ジョンソン大統領の手で「人種差別撤廃措置」が行われ、黒人の大学進学や、社会進出がずいぶんと進んでいきます。 そうすると、黒人たちの意識も変わるのは当然で、ポワチエのキャラクターの限界が、 この辺で見えてきてしまったのだと思います。時代が彼を追い越していったのです。


WOOPY ポワチエがいてくれたからこそ…

<依然としてある厳しい現実>
ポワチエによって高くなったように見えた黒人の俳優の地位……しかし、70年代に入ると、 黒人たちの娯楽映画への渇望からメジャー会社は、低予算の黒人向け映画を量産します。
その中でパム・グリアーなどのスターが出てくるのですが、結局のところはメイン・ストリームからは 外れていってしまいます。メルヴィンヴァン・ピーブルズなどの、 優れた監督たちも現れはしましたが長続きしませんでした。
そんな黒人向けのブラック・ムービーは、黒人たちには熱狂的には迎えられましたが、 クェンティン・タランティーノのような例外的な人はいますが、 白人社会には受け容れられませんでした。だからこそメジャーにはなり得なかったのです。

ここまで敢えて触れてこなかったのですが、実はこうした黒人向けの娯楽映画という点では、 1950年以前にも数百本作られていたという記録が残っています。
これらは黒人のプロダクションによる極めて低予算の映画だったのですが、70年代のこれらの映画は単に製作が、 メジャー会社に変わっただけといった印象があります。
これは公民権運動により、見かけだけは差別がなくなったように見えるのに、現実は違っていたという構図と よく似てはいないでしょうか。

<ウーピーとエディ>
本当の意味での黒人のビッグ・スターや、監督たちが登場するのは、1980年代に入ってからです。 ウーピー・ゴールドバーグエディ・マーフィースパイク・リー監督など。
特にウーピー・ゴールドバーグは、『カラー・パープル』や『ロング・ウェイ・ホーム』などの社会派の映画で、 シリアスな役もこなすかと思えば、コメディをやっても本当にユニークな存在で、かつての黒人俳優たちの殻を完全に 破ったと言えるでしょう。しかも黒人女性ではじめてオスカーの総合司会も勤め好評を博しています。 ハッティ・マクダニエルやバタフライ・マックイーンが果たそうとしても果たせなかった夢…彼女はそれを実現したのです。

こんにち、ウィル・スミスサミュエル・L・ジャクソン などなど、一線で活躍する黒人スターはますます増えてきていますが、彼らの道を開いたのは、実質的には、 ウーピー・ゴールドバーグであり、エディ・マーフィーだと私は思うのです。

ただここで忘れてならないのは、キング牧師の公民権運動があったからこそ、のちのアメリカは少しずつ 変わっていったのと同じように、シドニー・ポワチエがいたからこそ今のハリウッド映画界があることです。
若者たちが、自分にも可能性があるかもしれないと信じられ、目標を定められたのも、彼の映画があったこそだからなのです。
デンゼル・ワシントンの受賞スピーチ「40年間追いつづけたシドニーと同じ 夜に受賞できた」ここにそんな彼の気持ちのすべてが込められています。 主演賞ふたりのスピーチの言葉裏にある歴史の重み。そしてこれこそが、今回のシドニー・ポワチエ名誉賞の 価値の重さであると私は思います。


最後に……そして扉は開かれた

最後にもう一度授賞式を振返ってみると、60年以上も前のハッティ・マクダニエルのスピーチとハル・ベリーのスピーチには、 共通項があるのに気づきます。
「黒人の代表として」、「すべての有色人種の女性のものです」… 例えばユダヤ系俳優の代表としてとか、イタリア系の代表としてなんて言葉は他では絶対聞くことはありません。

60年を経てのこのスピーチ。ここにあまりに長かった黒人俳優たちへの差別の歴史がにじみでているのです。 そして今回のダブル主演部門の受賞の快挙は、彼らの差別への闘いの終わりではなくて、やっと辿り着いたひとつの通過点で あることも感じさせます。
ハル・ベリーの「新たな扉が開かれました」にはまさに、今ひとつの出発点に立てた、 そんな気持ちが現れています。

「すべての有色人種のものです」こういったスピーチがされなくなり、他の白人の俳優たちと同じように、 ただスタッフや家族への感謝の気持ちを表すスピーチだけになったとき、初めて彼らの差別への闘いは終わりへと 向かうのではないでしょうか。その時にはシドニー・ポワチエの名誉賞もまたより一層の輝きを増す に違いありません。

長い間、おつきあいいただきありがとうございました。
メイルちょうだいケロッ

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