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カエル 『こころの湯』…こおろぎ相撲が意味するもの



変わり行く中国を描く映画が最近次々と公開されています。『初恋のきた道』『山の郵便配達』『こころの湯』などなど。 『初恋のきた道』『山の郵便配達』が地方を舞台にしているのに対して、『こころの湯』は、北京が舞台。しかも過去を振り返るのでなく て、現代に絞っているという点で、アプローチの仕方が違います。

『こころの湯』の冒頭は意外な場面から始まります。コイン・シャワーのような建物の中に入っていって、服を脱いでスイッチを押すと、 水と石鹸それから洗車機みたいなブラシが出てきます。頭からもお釜みたいなのが出てきて、なんとただ突っ立ったまま全身を洗ってくれ る、全自動シャワー。忙しいビジネス・マンに最適みたいなとろが、世もここまで来たかみたいなことを感じさせます。

タイトル・クレジットの後、いよいよ舞台は、銭湯の清水池へと変わります。ここは北京の下町。一歩大通りを離れてここに来れば、冒頭 のシーンとは打って変わったのんびりとした空気が流れてきます。先ほどのシャワーは、その中のお客さんのひとりの想像の産物でした。「いまどき、一日中風呂に入るやつなんかいな いよ」その言葉とは裏腹に、垢すり、マッサージ、カップを熱して吸い付けるお灸の一種みたいな治療を受ける者、お茶を飲む者、こおろ ぎ相撲をさせている者などで賑わっています。お客さんたちは、もちろん近所の常連客ばかりのようです。軽口をたたく者もいます。なん だか懐かしいような風景です。

ここでは風呂に行くという行為が、ただ単に身体を洗うというんではなしに、心を癒す場所として機能しているんです。お風呂屋のおやじ さんは(この『大地の子』にも出ていたチュウ・シュイが本当にいいです)、お客さんのグチを聞いたり、身体の治療をしたり、心と身体 の両面からお客さんを癒します。そこに下町の人情が溢れます。

お風呂屋のおやじには息子がふたりいます。長男は香港にも近い深せんの経済特別区で、バリバリに働くビジネスマン。弟が父親が 寝ている様子を描いた絵ハガキを送ってきたので、もしや何かあったのではと帰ってきたのです。しょっちゅう携帯電話をかけているのが 印象的。相手はどうやら奥さんのようです。彼女はもしかしたら香港人かもしれないですね。ここら辺の人たちとは感覚が違う。そして一度もこ こには来たことがない…。お客さんの喜ぶ顔を見たいだけという父親と、都会で一旗挙げてやろうという息子との間には大きな溝があるよ うです。ふたりの間には明らかに違う時間が流れているように私には思えました。携帯電話の慌しい音、時間の流れの中断が、いっそうその ことを感じさせます。

次男は、知的障害があり、父の手伝いを何よりの生きがいにしています。毎日穏やかに同じような時が流れていく。お客さんたちにとっても、 彼は大切な存在なのです。彼もまたそれをとても幸せに感じているのがわかります。ただ唯一兄が出ていったまま、ほとんど帰ってこない ことに胸を痛めています。彼の言葉は拙いですが、絵ハガキには彼のせいいっぱいの気持ちがこめられていたのです。

帰宅後、兄はどうしてもお風呂に入ることができずに、冷水のシャワーだけを浴びようとします。父と次男のふたりの世界。この中に自分 が入ることにどこか後ろめたさを感じたのでしょうか。それに対してだまってボイラーに火を入れる父。中に入っていけないのは、彼自身 の問題であることがわかります。彼の生きている世界とここでは、あまりにも違い過ぎるのです。

父と次男のそんな幸せな生活にも終わりの時が近づいてきます。再開発の波がここ清水池にも迫っていたのです。こおろぎを闘わせ、けん かばかりしていたおじいさんたちも、自分の家を立ち退き、高層アパートに移ることになりました。あんなに好きだったこおろぎももう 止めるというのです。「こおろぎは大地の気を離れては生きていけない」こおろぎと老人たちの姿がだぶります。銭湯で話に花咲かせ、笑い あい、時にけんかして。そんな幸せはこの老人たちには、もう訪れることがないでしょう。

そんな貴重な場所の中心にあった清水池もまた店を閉めざるを得ません。大昔、自分の妻の部族がお風呂に入るためにどれだけ苦労したか、そんな話が ふたりの息子を前に湯船の中で語られます。人は便利さを求めて街を発展させていきます。その中で失われ行くもの。取り残される者たち。 そう、あの老人たちも、彼の次男も、シャワーを浴びながらでなければ、「オー、ソーレ、ミーオ♪」と歌えない、どこか心に傷のある あの少年、彼らの行き場所はあるのでしょうか。

父親と久しぶりにぶつかり合ったり、弟の面倒を見たり、彼らを手伝いお風呂に来る人たちと話ながらのサービスをすることによって、長男 は、この頃になってやっと自分を取り戻してきます。しかし、その時はすでに遅し。父の背中を流してあげよう、そんな気持ちも妻からの 携帯電話で遮られ、あろうことかその間に父親は、心臓発作で息をひきとってしまうのでした。まるで清水池と共に生き、それと共に死んで いくように。長男は、その時になってはじめて本当のことに気づきます。自分には父の血が流れているのに、妻や仕事の前では偽りの自分 を演じてきたということを。もう彼は、きっと元の生活には戻ることができないでしょう。また、この場所が無くなっても、その精神は彼 ら子供たちに引き継がれていくのでしょう…。そう期待したい。

長男が自分を取り戻せるくらいの効果がある癒しの銭湯。それは癒しどころか、水が人と人との間の垣根を取り払い、心身を健康にする 空間でもありました。中国は今急速に街の姿を変えようとしています。開発を進めるに当たり、こうした大切なものを失くしていってしま うこと。これで本当にいいのだろうか。立ち止まってここで考えてみませんか。父親の精神を受け継いだ彼ら子供たちが、どのようにして この試練を乗り越えていくのか。人情、伝統、これを残すも残さないも、これからの世代にかかっているのです。そんなメッセージを感じ ました。

と、ここまでが、映画を最初に観た時感じたことであったのです。ところがある日テレビをつけたとこ ろ、偶然「闘こおろぎ」についてのドキュメンタリーをやっていたので、この映画のことを思い出し、しばし見入ってしまいました。そして 大きく映画についての認識を変えることになるのです。そのことを知っているのと知らないのとでは、この映画の厳しさというのが違って きます。

そもそも、あの映画の中のおじいちゃんたち、掴み合いをするんじゃないかというくらいの勢いで、こおろぎのことで大喧嘩。なぜに…お 年寄りのわがままくらいにしか思っておりませんでした。ところが、この「闘こおろぎ」元々は中国の伝統文化として、宮廷で伝わり、皇帝 の側近が「こおろぎ研究」の本さえ書いたという奥の深いものであることがわかりました。『ラスト・エンペラー』では宦官が、まだ幼い 溥儀に缶より宝物として大切にこおろぎを取り出すシーンがあります。こおろぎの形、育て方にも奥義があり、高級なものは高価なテレビ が一台買えるほどの値段がつくほどです。こおろぎは、普通冬は越せませんので、これがいかに贅沢な趣味かということがわかります。

その後、時代は過ぎて、現在の北京。この伝統は庶民に息づいて、毎年開かれる闘こおろぎのトーナメント。裕福な人も貧しい人も参加で きるところが、このトーナメントの良いところ。そういう枠を超えて、大人たちの真剣な戦いは続きます。缶から取り出して、闘いの場に こおろぎを置き、気を立てるために細い棒で背中をつつき、あとは虫たちの一挙一投足に神経を集中します。必ずしも値段が高いこおろぎ が勝つわけではありません。野原で捕まえ、細心の注意を払い育てた貧しいこおろぎが勝つこともある、それが奥の深いところで、大人た ちを夢中にさせるのかもしれません。最後に勝ったこおろぎは、高らかに鳴いて勝者の雄たけびをあげます。決して相手は殺さない、清い 闘いがむしろすがすがしくさえあります。

ここで改めて映画に戻ってみてみると、それだけ手間をかけ愛情を傾けていればこそ、ちょっとの相手の不正だけで老人たちがけんかする というのにも納得してくるというものです。

時は変わって1966年から1976まで続いた文化大革命の時代。すべての文化は破壊されてきました。この伝統的な闘こおろぎも例外ではなく、当局から禁止の憂き目に あっていました。そう考えるとあの銭湯「清水池」は、老人たちが迫害の歴史を経てやっと辿り着いたと思えた安住の地と言えるかもしれ ません。やっと古い仲間と楽しめるようになったこおろぎ相撲。ところが、今度は開放経済という新たな国の政策転換により、彼らはせっ かく手にした「束の間の幸せ」も失うことになります。老人たちにとって、仲間と別れるということは、こおろぎを闘わせ、おしゃべりし 時にけんかする単なる遊び仲間というよりは、同じ厳しい時代を生きてきた同士を失うような思いもあったのではないでしょうか。そこ に歴史に翻弄される人々の姿というこの映画の別の側面が見えてきます。

普通こおろぎは湿気を嫌うため、あのような場所では闘こおろぎはやらないということですが、それを敢えて劇中に入れたところにこそ監 督の意図があったのですね。この映画は現代に絞っているどころか、これを敢えて入れることで、過去から現在、未来という時間の流れを 映画に作り出していたのです。そう考えると少し浮いて見えた少数民族のお湯を求める話と、このこおろぎのエピソードが対となって、過 去を織り成していたということもわかってきます。

空白の10年間、人々の心の中で息づいて、復活を遂げたこの伝統文化一体どこでその発芽のときを待っていたのでしょう。それは、胡同 (フートン)に求められます。胡同とは、700年をかけて宮殿の周りに作られた細かい複雑な路地のことです。ここに200万人の人々 が暮らし、さまざまな文化を育んできました。文化大革命のときにも京劇、闘こおろぎ、伝統音楽などさまざまな文化遺産が人々の間で密 かにここで温められていたのです。片隅に隠し持っていた楽器、京劇の貴重なレコード。見つかれば即刻厳しい処分が待っていたことでし ょう。それらはこの迷路のような胡同だからこそ、隠しおおせたのかもしれません。

今北京では、来るオリンピックに備え、胡同が急速に壊され開発が進んでいます。まだ胡同の中にある、伝統的な家四合院の中庭では、伝 統音楽の演奏会や京劇の稽古が親から子に伝えられるという風景があります。しかしそれも後僅か。700年かかって築かれてきた路地も わずかここ数年の間に消えゆく運命にあります。最終的には全体の8割が取り壊されるとのことです。「ここが無くなっても、人、精神、 芸術伝統、友情だけは変わらず残したい」これはここに住まう人々、言いかえれば、ここで歴史を刻んできたきた人たちにとっては、切実 な思いなのです。

そう考えると、この映画は伝統文化の危機といったものまでをも範疇に入れていたといえるかもしれません。父親を演じたチュウ・シュイ は、元々が伝統的な舞台の名優でした。その長い芸歴の中で、出演した映画はわずか5本。そのうち『心の香り』『變瞼(へんめん)この 櫂に手をそえて』はいずれも伝統芸能との関わりがある映画です。そして彼はこの映画の中にも、そうした文化的な危機感を見たのではな いでしょうか。

たかが「闘こおろぎ」にこれだけ深い意味があるとは。これを知るのと知らないのとでは、映画の膨らみがずいぶんと変わってくるもの です。この映画はもちろん癒し系の映画ではないですし、単なる人情喜劇でも、消えゆく人情を嘆く映画でもなかったのです。清水池の 親子の葛藤や、そこに集う人たちの悲喜劇を通して、そこに暮らす人々の切実な声を代弁していたのではないでしょうか。私はホーム・ページ上 で日頃映画の感想などをもっともらしく書いていますけれども、こういうことがあるから、映画は無闇には切り捨てることができないんだ ということを、身をもって感じた次第です。映画って奥が深いものなのですね。

メイルちょうだいケロッ

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