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カエル 煙草の香り


人はしばしば、匂いで人を記憶する。特に家族など身近な人々のことを。土の匂い、 機械油の匂い、インクの匂い、記憶は人それぞれだ。
ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』を観ていてふと、そんなことを思い出した。

この映画は、娘の父親への思いを淡々と綴った作品である。まだほんの少女にとって 、父親は単に憧れの対象であった。ところがある日、自分の知っている父と別の顔を 発見することによって、突然彼が遠くへ行ってしまう。いろいろ知れば知るほど謎は 増え、本当の顔が判別できず、少女は戸惑う。

思想の違いから仲違いして二度と会わない祖父と父。故郷を捨て内戦に身を投じ、刑 務所に入れられた父。内戦で生き別れになったままの謎の恋人の存在。
知り得たもうひとつの父の肖像から、彼の苦悩の何たるかを想像することが、まだ若 い娘にはできない。ただわかるのは、「私より苦悩が深い」ということだけだ。

この映画は、娘にとって父の姿が曖昧なだけに、その分視覚的、聴覚的に父の存在を 捉えている。入ることのできない父の部屋(最上階にある)、考え込むときに床を鳴らす 杖の音、魔法の振り子、オートバイ、煙草の煙、父の故郷の絵葉書。とりわけ、振り 子は父の魂の象徴。煙草は父の姿と重なる。

聖体拝受の儀式で、孫の晴れ姿を見るために訪ねてくる実母との再会。これを前に落 ち着きなく家の中で煙草を吸う父の姿。
昔の恋人の元へと向かう列車を乗り過ごし、駅の宿泊施設でその音を聞き届けた後に 手探る煙草の箱。空であることに気づき、握り潰したその手と、一晩のうちに無意識 に残らず吸ってしまったという事実に父の逡巡ぶりが伺える。
苦悩し、酒場に行くことが多くなった父。酒場から出てくる偶然娘が見つける。思わ ず物陰に隠れる娘。彼は、今煙草に火を点けようとマッチを擦っている。しかし、何 度やっても火は点かず、たまらず近くを通りかかった人に火を貰う。その侘びしい感 じ。煙草を深く吸い込んだ父は、娘に気付かずその場を通り過ぎていく。彼のその背 中、そして煙草の煙の残り香。その寂莫感。

煙草は父の感情を表にし、それが娘の父の思い出の中のイメージへと繋がる。父の姿、 これに煙草の香りが染み付き、まるでスクーンから匂ってくるような感じがする。こ の少女にとって、父の匂いは「煙草の香り」だったのだろう。

このように映画は、時にその映像から人に匂いの記憶を呼び覚まし、それを確かに感 じさせる瞬間がある。そんなことを『エル・スール』は思い起こさせてくれた。

『エル・スール』(83年スペイン=フランス)ビクトル・エリセ監督
(パイオニア・レーザー・ディスクより「ビクトル・エリセ作品集」発売中)


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