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カエル 映画日記11月号… 『カポーティ』


『カポーティと「冷血」』

大抵の伝記映画というのは、大体その人の人生における時間に従って話が進んでいくものだが、『カポーティ』の優れたところは、「冷血」 を執筆する過程だけを追っていき、その中でカポーティの人物そのものに迫っていったところにあるように思う。

カポーティは「カポーテイとの対話」(インタビュー集)の中で、「冷血」における自身の体験を次のように語っている。
「この経験の結果、私は人生をより悲劇的にとらえるようになった。もともと私には悲劇的な人 生観がある。そのためかえって私は極端に軽薄に見えてしまう部分を持ってしまう。その軽薄なほうの私 はいつも暗い廊下に立っていて、悲劇や死をあざけっている。私がシャンパンを愛し、 リッツホテルに泊まるのはそのためだ」

また、短編集「犬は吠える」の中に収められた「自画像」の中では、次のように語る。
「私は「冷血」を書くのに五年、それから回復するのに一年かかりました…回復といってよけれ ばですが。いまでもあの体験のなんらかの場面が私の心に影を落とさない日は一日もないのですから」

これらの言葉の裏にある意味、それこそがこの映画の中で語られていることだったように思う。

『軽薄なほうの私』

少年時代の彼の境遇がどんなであったのかは、犯人ペリーへの告白や、幼馴染で「冷血」の取材協力者、または「アラバマ物語」の作者(『 アラバマ物語』に出てくる隣の男の子こそカポーティ少年に他ならないのです)ハーパー・リーとの関係によって想像させられる。繊細で傷 つきやすく孤独な少年…例えば映画化されている『草の竪琴』の主人公の少年を思い浮かべてみてみよう。 去っていった人々の声を集め、 そして語る「草の竪琴」…インディアン草、そこに亡き母親の声を聞こうとしたあの少年。ちょっと猫背に歩き、女性的で繊細な顔つき のあの少年。『草の竪琴』はカポーティの自伝的要素も含んでいたためか、その姿はそのまま彼の少年時代を思わせた。 カポーティは親と離れて感じやすい少年時代を過ごした。そうした境遇は犯人ペリーと似たようなところがある。

それは彼のこんな言葉に込められている。「私と彼は同じ家で育ったんだ。そして彼はその家の裏口から出てゆき、私は表玄関から堂々と 出て行ったんだ。」表玄関から堂々と出て行ったカポーティは孤独な心の乾きを文章に託して成功したと言える。

しかし、カポーティの人物像は、正直観れば観るほど、好ましいものではなくなってくる。 未完の「冷血」の朗読会の楽屋での彼の振る舞いは、まるで繊細とは言い難い。マリリン・モンローがいかにおバカさんかとか、あるいは、 人種差別とも取れるネタをカン高い声でしゃべりまくり、周りの人を笑わせている。中には気分を害している人がいるなんてことはお構い なしにである。ペリーに対する態度も時に高慢さを覗かせる。また、彼が多少知的な部分を持っているというだけで、死刑囚に無神経にも 百科事典をプレゼントしてしまう。そこには言うまでもなく、絞首刑の何たるかが詳細に記述されていて、彼を恐怖のどん底へと落とさせ る。

そうかと思えば、編集者に「冷血」の原稿を見せたところ、歴史に残る大傑作になるかもしれないという答えが返ってきた時には、まるで 子供のようにはしゃぐような一面も持っている。この二重人格性、その軽薄な振る舞いは、実は子供っぽさからくるものかもしれない。

『「冷血」を書くのに五年』

小説執筆のきっかけは、大したものではなかった。映画では、たまたま目に留めた新聞記事から、小説のアイデアを思いつくといった風に 描かれている。本人もこれがのちにどれほどの成功をもたらし、またそれと同時にどれぼどの重荷を自分に与えるかまったく想像していな かった。そんな感じがよく出ている。カンザス州の田舎町で起こった一家四人の惨殺事件…滅多に事件らしい事件など起こらない小さな田 舎街に起こった突然の大事件、どうやら当初カポーティは、この町の人たちの反応や変化、そういったものをルポルタージュ風に描いてみ ようと思っただけであったらしい。

しかし、「同じ家で育ち裏口から出て行った」犯人ペリーを知ることによって、反対の方向へ行ってしまった彼への興味が募っていくので ある。確かに映画を観ているとペリーもまたまるで彼の他の小説の登場人物のひとりであるかのようである。彼はいかにも繊細で弱々しい 。しかし一方で時折見せる強い視線には怒りがこもっていて、彼の今までの作品『草の竪琴』『ティファニーで朝食を』の主人公たちとは 明らかに違う一面も持っている。そこにこそ彼の興味はあったのだろう。

当初は、作家としての興味という程度のものだったかもしれない。作家としての冷静な観察眼を決して忘れることはないからだ。カポーテ イは四人の犠牲者の棺を特別に見せてもらっても、それほど大きな衝撃を受けたという風ではない。また記事にするためには、彼はどんな ことだってやってのけた。第一発見者の少女には、自分の子供時代のことを打ち明けすっかり信頼させて、被害者の日記を手に入れるし、 同じ手で犯人のひとりペリーの日記さえも手に入れる。死刑囚監房の訪問者リストに入れてもらうためには、贈り物だってする。

そんなだから「ペリーとリチャードの上訴のために優秀な弁護士を付けたいのだが」と恋人のジャックに相談をしたときには「そりゃ自分 のためだろう」と切り返される始末である。仕事をやるためには、相手の信頼を勝ち得なければならない。そのために弁護士をつけるなん てことは、身近にいる人にはすぐにわかってしまう。それでもそんな人にまで、そんな偽善的なことをつい口走ってしまうところに、カポ ーティその人がよく出ているのではないかと思う。

「冷血」を書くのに五年という言葉が示すように、小説は順調には進まなかった。肝心の殺人の話になると、ペリーが口を堅く閉ざしてしまうため、小説は中途で頓挫してしまう。 これ以上は話をしていても埒が開かないと一旦取材を切り上げたカポーティは、恋人の勧めもあって、スペインへ出かけてしまう。出かけ てしまえば現金なもので、あれほど親身になっているように見えた犯人ペリーのことなど忘れてしまったかのように、彼から手紙がきても 気にさえしないかのように、ほっぽらかしてしまう。この辺り『冷血』の後に書かれた中篇小説『手彫りの柩』の中で、取材していた殺人 事件や、その過程で親しくなった刑事の結婚式に招待されていたことなどを忘れてヨーロッパですっかりくつろいでしまった作家(カポーテ ィ自身)の姿とだぶっていて興味深い。まさにカポーティとはこういう人だったのだろう。やはりどこか子供っぽいのである。「冷血」とは 彼自身にも当てはまる言葉なのではないだろうか。

『私は人生をより悲劇的にとらえるようになった』

いつまでたっても、殺人の核心の部分については語られることなく、本の執筆は困難を極めた。しかしカポーティの本当の苦悩 は、それが語られたところから始まる。キャメラは、殺人の一部始終が語られるシーンで初めて家の中へと入っていく。家は惨劇のあった場所と いう意味だけでなく、ペリーの心の奥底の世界といったイメージでとらえられているようだ。というのも、カポーティは殺人事件の起こっ た家にはもちろん取材に行ってはいたのだが、映画ではそれまで家の内部に入っていくことがなかったのだ。殺風景な防風林が並んでたち 、その向こうの小高くなったところにポツンと立って見える家が遠景で映し出されるだけであった。それはまるで彼の心の奥底に入ってい けない、近づけないもどかしさを象徴しているかのようなのだ。

家の内部を見る=人の心の奥底を覗きこんでしまったことと捉えると、ここから小説自体が彼に重くのしかかってくるのもわかるような気 がする。彼はあまりにも事件に、ペリーというひとりの人間に深く入り込みすぎてしまった。しかし、この重い仕事を早く完成させて開放されたいという気持ちに反して 、裁判はなかなか終わらず、犯人たちの刑は確定しない。「早く死刑になってほしい」彼は、ペリーからの弁護士を頼んでほしいという願 いを突き放してしまう。それと同時にカポーティは刑が確定したらしたで、ペリーが死刑になること、そのことも怖い。そのため死刑を願う作家としての自分と、人としての良心との間で彼は引き裂かれそうになってしまう。な んとか早く時間が過ぎ去っていって欲しい。彼は酒に逃避し、誰とも会わず、日がな一日ベッドの中で過ごすことで、この場をなんとか凌 ごうとする。

死刑が確定し執行される日、カポーティにペリーからの電報が届く。「その後来てくれなかったことも恨んでやしない。死刑に立ち会って くれなくても構わない。感謝している」と。こんな電報を受け取ったら、心を動かされない人はいない。行かなければ後悔することは目に 見えている。カポーティもやはり人の子だったのだろう。まだ時間は間に合うということで、ベッドからようやく起き上がり、急遽刑務 所に駆けつけた。この際どんな修羅場があろうとも構わない。

ところが、死刑を目の前に控えた犯人たちは、意外なほど静かであった。「俺があんたなら、こんなところなんか来ないのに、よくまあ 来てくれたもんだ」恨みごとのひとつを言うでもなく、感謝さえしているという。最期の瞬間にはぜひ立ち会ってほしいというのだけが 彼ら、特にペリーの願いであった。彼の顔は穏やかで、まるで揺らぎのない透き通った湖水面を思わせる。むしろ恐怖を感じてし まい、取り乱したのはカポーティのほうであった。「弁護士をちゃんと選んでやればよかった。もっと何か出来たはずなのに、本当に 申し訳ないことをした。」そうなのだ。彼がペリーの透き通った顔を見つめ、見えたものは自分自身の心の奥底に他ならなかったのだ。 向き合おうとせず、逃げていたはずの自分の姿がペリーの顔に映し出されてしまったのである。偽善的で高慢で冷たい自分という醜い 姿の自分が。

『そして暗い廊下の奥へ』

彼の恐怖は断じて死刑執行そのものの恐怖にあったのではない。実は彼の小説を読んでいると、この映画と同様の恐怖と出っくわすことが ある。「男に顔をじっと見つめられる。その顔はぼんやりとしているだけなのだが、しかしそのとき彼女は恐怖の原因が何だったのかはっ きりと理解する。」…「夜の樹」(20代の頃に書いた小説)より。ぼんやりとした男の顔に映し出されたのは、もちろん自分の心の奥底にあ る心の闇に他ならない。

死刑の現場に立ち会うなんて人はそんなに多くはないと思うし、またこの映画を作家が体験した恐怖という狭いところで捉えてしまうと、 大抵の人にとっては遠い話になってしまうのだが、「自分の心の奥底にある心の闇を突きつけられる」ということ、実はこれは誰にでも起こりう ることだと思う。それゆえにこの映画は怖い。カポーティは皮肉にも自らの人生で、彼の小説の世界の恐怖を実体験してしまったのだとも言 える。

あまりのショックに、彼は「とっても怖い思いをしたよ」幼馴染のハーパー・リーに電話をかけるのだが、彼女はひとこと「あら、あなたはでも彼らの死を望んでい たのじゃないの」と言うだけである。彼らの死は、カポーティにとっては自分自身の精神の死をも意味するような体験だった。ゆえに 一番の理解者である友人のこの言葉は彼の耳に絶望的に響いたのではないだろうか。彼はますます「暗い廊下の奥」へと入り込んでいっ てしまう。そして、二度と『冷血』のような傑作をモノにすることはできなかったとして映画は締めくくられる。もちろん事実のほうはすべてがそ のせいだったのかどうかはわからない。しかしこの映画を観ていると、そんな心の動きが説得力をもってこちらに迫り、真実味を帯びてく るのだ。

*カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンがとにかく素晴らしいです。しゃべり方や仕草が似ているだけでなく(日本では映画 『名探偵登場』の中でカポーティのセリフや仕草をたっぷりと観ることができます)、その内面にまでも深く入り込んでいっています。彼無し ではこの映画は成り立たなかっただろうと思います。その名演にも注目してください。

メイルちょうだいケロッ

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