88. 中朝嫌日の真相の仮説 (2000/12/16)


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中国と朝鮮は日本が嫌いである。正確に言うと、中国と朝鮮は、自分たちの子供に対して日本について教えるとき、必ず日本の罪についてしつこく教えてきた。その結果、彼らの多くの世代が嫌日思想を根強く持っている。下手に我々が自分たちの祖先を守ろうものならば、顔を赤らめて猛烈な反発を食らうと考えて良い。

なぜこのようなことになったのか、私はいくつかの説明を読んで、大体納得のいく理由が見つかった。当然、私が納得した説明というのは、日本が昔とても悪いことをしたから、というものではない。中国や朝鮮が国家として不安定だったので、共通の外敵に目を向けさせて、国民が一致団結するため、あるいは自分たちの失政を目立たなくするため、というものである。

しかし私には、だとしたらこのような政策はいかにも回りくどいように思える。日本でこのような政策は有効だろうか? アメリカが悪い、と言ったところで、国内の不況への現政権への不満は和らぐだろうか? 我々はいま、平安な世の中に生きているので、不安定な世の中に民衆がどのような不満を持つのか、そしてその不満はどのようにして解消しうるのか、私は想像出来なくなっているのかもしれない。だが、嫌日の理由がただそれだけだということで納得してよいものなのか。

中国や朝鮮の反日は、反日プロパガンダがフィクションとして一人歩きした、と誰かが言っていた。もともとでっちあげや誇張の多いプロパガンダが、目的をまっとうしたにも関わらず、作り出した人間の手の平を離れ、それらがあたかも事実であるかのように浸透してしまったのだという。ではなぜこのような極端なプロパガンダが生まれ、維持されてきたのか。

話をわざと遠回りさせる。

■岡崎久彦の読売新聞記事

中国の反日プロパガンダとして真っ先に出されるのは南京事件である。彼らは、日本軍によって南京で 30万人以上が殺されたと主張している。

この事件については、幾多の論争があり、いまも決着がついていない。インターネット上でも、プロ顔負けの素人たちが資料を持ち出して大論争を繰り広げたようであるし、私のようなただ少し本を読むだけの素人同士も論争した。

私はいまは、この場所であえて自分の認識を読者諸賢に主張しようとは思わない。私の認識はこの一年でもコロコロ変わっている。特に最近は、虐殺否定派の「指揮官のいない軍隊の兵隊は捕虜になる資格がない」という主張を聞いて、日本軍が中国側の兵隊の処断として捕虜にせずに裁判を省略して処刑したのだろうな、とまた認識が変わった次第である。

それはいいとして、私がその前に持っていた認識は、以下の岡崎久彦の文章によって形成された。

岡崎久彦 地球を読む「戦争裁判 自虐意識脱却の時」:
http://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/yomi7300nankin.okazaki.html

彼は、日本の戦後が自虐史観であったとする点では、虐殺否定派の考えに近い。しかし彼の意見は、規模の大小に関わらず日本軍は南京で少なくとも百人以上を殺した、つまり虐殺はあったというものである。

私が彼の考え方に賛成したのは主に、彼の意見が良心的だからである。私の中の史実と大きく矛盾するところはないし、証拠が少なくてよく知られていない南京事件についてはどのような結論を下すこともできる。その結論の中で、日本人を絶対死守するのも一つの結論だとは思うが、戦争が起こると誰でも過ちを犯すという教訓があったほうが我々にとっては良い結論なのではないか、と私は思う。

■岡崎久彦への批判

ところが、この記事について、小林よしのりのゴーマニズム宣言九巻の巻末でアシスタントの時浦による批判が加えられている。読んでみると、なるほどこちらのほうが正しく思えるから不思議もとい私はいい加減なのである。批判のポイントは大きく二つあり、

  1. 岡崎久彦は南京事件が存在したと言うが、その論拠が一つの証言だけしか示されておらず、かつその証言はイギリス側の虚偽の情報を聞いた人間のものである。なおかつこの部分は再録にあたって削除された。
  2. その代わり、岡崎久彦は三人の当事者による南京事件への言及を挙げているが、彼らのどの証言なのかが分からない。独自に調査した結果、うち二名の証言は勘違いであり、残りの一名にはそれらしい証言が全く発見できなかった。

私はこの批判を読んで大いに納得した。しかし私自身が文献や史料にあたったわけではないので、あくまで参考程度にしたい。岡崎久彦の意見は、南京事件が絶対に存在しなかったという向きからすれば「良識ぶった欺瞞」である。しかし私のような、日本軍を不自然に野蛮な軍隊だったとみなす暴論でさえなければそれでいい、という考え方からすれば、別にこれでもいいのではないかとも思う。

あえて特筆するとしたら、岡崎久彦の文章は現在の日本からすればかなり過激なはずなのだが、小林よしのりや時浦がいるからこそ、岡崎久彦の文章になぜか良識というにおいがただよう。これなら許容できると考える者もいたはずである。私自身は現在は岡崎久彦寄りの意見を持っているのだが、岡崎久彦は単体では恐らくバッシングを受けていただろう。読売新聞の目立つ部分に彼のこのような文章が載ったのは、岡崎久彦だけの力ではありえなかっただろう。

それから私は、対外的(日本人以外に対するとき)には「南京事件は絶対に存在しなかった」と主張するかもしれない。なぜなら、自分の意見をぐらつかせることを自分で言う必要はないからで、またそれが国際的な議論のルールだからである。下手に自分から良識ぶることは国際的には奇妙に写ることだろう。

■日本の軍隊は紳士的

以上は前ふりである。ここからが本編である。

私はひさしぶりに岡崎久彦の文章を読み返したのであるが、そこで今回発表する仮説のヒントを得た。それは、以下の部分である。

どうしてそういう事件が起こったのだろうか。伝統的に日本軍は規律厳正であった。欧米列強と日本軍が肩を並べて戦った例である、一九〇〇年の北清事変の北京占領に際し、ヨーロッパ勢が乱暴掠奪(りゃくだつ)をほしいままにしたのに対し、日本占領地域は安全と知って市民が大量に流れ込み、地域外の民家は軒毎(ごと)に日章旗を揚げて身を守ろうとしたという。

私が海外の BBS で「日本の軍隊は紳士的だった」と言ったところ、こんな反論が返ってきた。その紳士的な軍隊が、なぜこんなことをしたのか? なに馬鹿なことを言っているんだ、みたいなものである。

私は主義上または時間の都合上、自分から史料にあたることはないので、上の引用が正しいのかどうかを自分で確かめたことはない。しかし、私がこれまで見てきたところ、このような事実を裏付ける証拠や証言自体が批評されたことはないように思える。つまり、おおかたの批判は、上の引用の事実を避けておこなわれているのである。ということは、多くの人は、場合によっては嫌々ながら、無視しようと努めながら、認めているということではないだろうか。

岡崎久彦の文章はその後、当時の中国は無秩序だったこと、日本軍がいなくなったら中国内の軍閥や野盗たちによって治安が悪化していただろう、と主張している。

ここまで読むと、おおかたの人は二つに分かれてしまう。そんなことはありえない、そもそも軍隊なんていうものが紳士的だなんてことがあるか。ないほうがいいに決まっている。いや、日本軍は野蛮なんかではない。他国の軍隊と比べて規律が正しかったんだ。乱暴狼藉をしたはずがない。

つまり、人々の関心は、日本軍が野蛮だったか紳士的だったか、という争点で止まってしまうのである。そこで私は、あえて紳士的だったと仮定して話を進めることにした。すると、いままでブラブラしていたいくつかの曖昧な点が、くっきりと一つの必然に従って線を結んだのである。

■支配者の感じた恐怖

結論から先に言おう。中国の支配者はおびえていた。日本軍を追い出して逆に治安が悪くなって混乱状態になったのだとしたら、人々は支配者を認めるだろうか?

日本は中国で戦っていたが、当時の中国は内戦状態だったので、中国という国家と戦っていたわけではない。当時中国には国民党と共産党がいて、彼らは自分たちが支配者になるために戦っていた。彼らは日本軍を追い出すために共闘したが、統一はされていなかった。それぞれの支配者がそれぞれ兵隊を徴用し、食料などの物資を徴発していたわけである。人々は彼らの戦いに巻き込まれる。

中国の人民とくに漢民族は歴史的に極めてドライである。なにしろ、中国は歴史的に多民族の王朝が支配していた期間が長かった。また、中国の人民にとって支配者は崇拝の対象とはならない。人民からすれば、できることなら存在しない方が良い存在である。支配者の手が及ばない限りは、人民は支配者の存在を限りなく無視していると言われている。つまり、彼らからすれば他民族に支配されようと関係ないのである。

十七世紀、明と清が争っていたことがあった。二つの国家は、国土の面積こそ違え、十分な領土を支配していた。明は漢民族の支配する国家であり、清は女真族の支配する国家である。普通ならば、仮に日本が二つに分割されたとして、片方がどこかの民族に支配されていたとすると、異民族の支配者は二つの敵と戦わなければならない。一つはもう片方の国家であり、そしてもう一つは自分たちの支配する民衆とである。しかし、中国では、清の支配する地域に住む人々の中からは、強力な反乱は生まれなかった。自分たちが普通に暮らせるならばそれでよいのである。このようなケースは明と清だけに限らない。

日本が中国に対して不利な条約を突きつけてから、上海を中心に、民衆が日本の製品に対する不買運動を行ったようである。不買運動というからには、誰かの指導により行われたのだろうと私は思う。ただ、上海の場合、日本人がそこに多く進出して商売をしていたので、民衆側にも危機感はあったに違いない。にしても、国が混乱しているときに、このような不買運動がよくまあ成立したものだと思う。逆に言えば、それだけこの上海という土地が当時豊かで安全だったということになりはしないか。国民党が逃げてきたあとの台湾では、台湾人が集会を開いてデモ行進をやろうものならすぐさま弾圧されて多くの人が殺されたようであるし、中国の人々にとってはそれの方が当たり前なのではないか。

ともかく、このような例外があるとはいえ、中国の民衆は日本軍の支配というか管理に対して、少なくとも「安全」が手に入るということで評価していたのではないか。日本による占領または駐屯が行われていた地域では、人口流入が起きていたという資料が残っている。南京事件が虐殺ではなかったとする人々は、事件後にも人口が増えつづけていることを指摘している。虐殺だったとする人々は、人口調査なんて支配者が行うものなのだからいくらでもごまかせる、と主張しているようである。

■日本は支配者だった

中国や朝鮮では、支配者が入れ替わるとき、新しい支配者は自らの正当性を示すため、古い支配者を徹底的に否定する。日本が彼らに否定されているところを見ると、やはり日本は一旦は中国や朝鮮の支配者になったと考えても良いのではないだろうか。少なくとも一旦は民心を掌握したと見るほうが自然である。そう考えると、日本による一時的部分的な支配と新たな支配者の誕生は、彼らのこれまでの二千年以上の歴史と極めて似てくるのである。近代だからといって特殊なわけではない。

そして特に中国では、歴史は支配者が変わるたびに編纂されなおされる。現在の支配者にとって都合の良いものに書き換えられるのである。歴史が変わるということは、教育も変わるということである。かくして日本軍は徹底的におとしめられたのではないだろうか。彼らの歴史では、いかに先帝が賢くて有能であっても、命が革まったとたんに先帝が暴君になるのである。

つまりこういうことである。本来ならば支配者は民衆に対して「我々は侵略してきた外敵を撃退した」とだけ言えば良いのである。戦争中は兵隊の指揮を鼓舞するために敵をおとしめる必要があるかもしれないが、戦争が終わって敵が引き上げたあともしつこく敵をおとしめる必要はない。民衆の間では根強く敵に対する恨みは残るだろうが、歴史や教育を使って国家が敵をおとしめつづける必要はないのである。しかし中国や朝鮮では依然反日教育が行われている。ということはつまり、中国や朝鮮では、日本は一時的に民衆を支配した旧支配者として認識されているのである。

そこには善政や暴政という概念はない。人々が心服または屈服すればそこに支配が成立する。私は、日本は中国や朝鮮に善政を敷いたのではないかと考える。しかし、中国や朝鮮の新しい支配者が何を恐れていたかというと、日本が善政を敷いたからではなく、善政だろうと暴政だろうとそこに一旦支配が成立してしまったことを恐れていたのである。

■非難されて言い返す言葉

中国や朝鮮は国際社会において日本に謝罪を求めている。それだけでなく、中国や朝鮮で戦後育った人間は、日本の過去の罪とやらを我々に言い立ててくるかもしれない。そんなとき我々はなんと言い返せばよいだろうか。

まず、証拠のないまたは証拠に乏しい具体的な罪状を挙げてきた場合は、それらが証拠のないまたは立証不可能なものだということをきっちりと説明する。日本軍が野蛮だったと言われれば、中国や朝鮮では旧支配者をおとしめるよう歴史が書き換えられるということを説明する。具体的ではなく全般的、つまり日本が朝鮮を支配し中国と戦っていたことを突いてくれば、朝鮮は日本が国際的に許可をとった上で合併したこと、中国では日本は駐屯していただけで中国の内乱に巻き込まれただけだと言えばよい。

何より重要なのは、中国や朝鮮が反日教育を行っているのを認識すること、その反日教育というものに対して我々がドライに受け止めることである。こんなものなのだ、と思うことがなによりまず必要である。日本軍がアジアでのべ一千万人も虐殺したと教えられている人々のことをまず冷静に受け止めるべきである。


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