83. 電気通信大学物語 (2000/10/21)


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私が現在一番注目している漫画は江川達也「東京大学物語」である。この作品は、東大を目指し合格し入学した主人公を取り巻く青年誌的恋愛物語である。この作品のどのあたりが素晴らしいのかということはここでは語らない。今回は全く別の、ある大学についての話である。

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私の父親は、竜神村という自分の出身地の村史を持っている。竜神村という名前の村は全国に何個かあるかもしれないが、まあどこでもいい。私の知っている竜神村は、和歌山のとんでもない山奥にある田舎の村である。村の歴史について書かれた本、それが村史である。竜神村の村史というと、限られた一つの地域それも村の歴史なのだから、大した分量ではないと思われるかもしれない。しかしこれがなんと、中学と高校の世界史を合わせた量よりも確実に多い。こんな村史が、全国に村の数だけあるとなると、人の歴史の途方も無さを感じずにはおられない。

和歌山県 竜神村 についての情報
http://www.wakayama.go.jp/prefg/060200/kankou/sityoson/ryujin.htm
http://web.infoweb.ne.jp/LIFE1/ryujin/

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そんな前置きはさておき、いまではそんな限られた歴史が、インターネット上でも見られたりするのである。私はたまたま、自分の母校である電気通信大学の歴史をインターネット上で見つけた。この大学は私の思っているほどにはマイナーではないようなのであるが、いま初めて聞いたかたも多いことだろう。

今回はこの大学についての歴史を簡単にまとめ、一つの組織が日本や世界の中でどのような位置付けを持っているのかということを通じて、人間の営みがいかに細かいことの積み重ねであるかということを改めて感じていただきたい。

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■無線通信の歴史

▼無線通信の発祥

イタリア人のマルコーニが無線通信の実験に成功したのは 1896年であった。マルコーニが無線通信を実現させることが出来たのは、その前の基礎研究のおかげであり、それには電磁気に関するファラデーやマクスウェルやヘルツ、その前には電気と磁気それぞれの発見や研究があった。ヘルツが既に無線通信に成功していたらしいのだが、実用上の問題があり、広まったのはマルコーニの方式からのようである。

マルコーニの無線通信の実験はイギリスの郵政庁や軍に認められた。彼は会社を作り、1901年にイギリスとニューファウンドランド間の二千七百キロもの距離での通信に成功した。そのあと彼は船の無線に注目し、世界の主要な港に通信基地を置くことを考えたらしい。

▼日本の無線通信

日本では、マルコーニの成功が知られてから無線通信の研究が始まった。当時の日本の科学力は世界的に見て遜色のないものであり、無線通信に関してはそこそこ優秀だったらしい。

研究は、のちの東京帝国大学工科大学(さらにのちに東京大学工学部)や政府系の研究所などで行われた。そのうち海軍が注目し、仙台の第二高等学校(いまの東北大の前身)で私費まで投じて研究にいそしんでいた教授を招いたりして、おそらく総員体制で研究がすすめられた。

当時の各国は、無線通信に関する研究を機密として扱った。というのは、無線通信は軍事技術として極めて利用価値の高いものだからである。日本の技術者たちは、参考資料もなく低い予算で研究をすすめ、明治35年5月の海軍演習後の観艦式において天覧つまり天皇の前で披露されるに至った。

▼通信の軍事的利用

なぜ海軍が無線通信に着目するのかというと、軍艦同士が意志の疎通をするのに便利だからである。というのは、それまでは旗を掲げたりとか手旗信号をしたり、セーラー服の形状のそもそもは遠くにいる人同士が肉声で大声を出して意志を疎通するために音を聞きやすくするためであったことからも分かる。陸上での戦いは、指揮官が直接声を飛ばして命令を送ることが出来るが、海上では船が大きい上に船同士の距離があるためにそうはいかない。そもそも船というものが、海のど真ん中を進まなくてはならないものであり、一度港を出たら海図とコンパスを頼りに目的地を目指さなければならないのである。

無線通信の軍事的な効果は計り知れない。ベトナムとかを扱った戦争映画を見ると、無線機に向かって援軍を要請しているシーンが出てくることがある。陸軍が進軍するに当たって、敵の防御陣地を航空攻撃による支援を受けつつ攻撃するのである。ちなみに第一次世界大戦を扱った映画では、塹壕にまで有線が引かれて通信しているシーンを見ることが出来る。

▼実用化への道

研究と実験が成功したら、あとは実用化となる。実用化にあたっては、製品を量産しなければならない。

無線通信の前には有線による電信機があった。日本はこの電信機では、技術的に劣っていたために当初は外国製品を輸入し、その後に 1875年に田中製作所(現在の芝浦製作所)が創業して国産を始め、いくつかの会社がそれに続いた。

無線通信機は、1900年に安中常治郎が創業した安中製作所(現在のアンリツ)が、1903年に安中式無線送信機を博覧会に出品したのが最初である。この無線機は、ドイツ製やイギリス製のものと比べてはるかに優秀だったらしく、多方面から絶賛された。

▼日本海海戦勝利の立役者

そこでその無線機は海軍から注目を受け、海軍は独自に無線機を作ったようであるが、その部品の大半を安中製作所に発注した。そうして生まれたのが海軍三六式無線電信機である。

こうして生まれた無線機は、日露戦争前に海軍の全ての軍艦に搭載された。その後すぐに日露戦争が始まる。日本は最初のうちは、日本近海での海での小競り合いを優勢に戦った。しかし劣勢にあったロシアは、ヨーロッパに配置されていた海軍の主力であるバルチック艦隊を日本海に向け、その情報が日本にも伝わってきた。

当時はレーダーもない時代である。艦隊といっても、地球規模で言えば海の中に浮かぶ一点である。海戦とは、二つの艦隊が遭遇しない限り起きない。というか、有史以来ほとんどの海戦は拠点沖の沿岸部で起きているらしく、そもそも大洋上で遭遇することはほとんどない。

日本は戦略的に、バルチック艦隊により近海を制圧されることを阻止しなければならなかった。そのためには、バルチック艦隊を打ち破らなければならない。日本は元々近海を制圧しており、近海を守るために理想的には艦隊を分散させておきたい。でなければ味方の輸送船を守れないからである。しかし分散させてしまうと、敵艦隊により各個撃破されてしまう。そこで短期間で勝負を決めなければならない。

ロシアのバルチック艦隊は、はるばる遠洋からやってきたので、当然補給がいる。ロシアの海のほとんどは氷に閉ざされており、一年中使える港となると限られている。その一つである旅順あたりに補給に行くだろうと日本は読んだ。しかし、その港への道は大きく二つあり、敵がどちらを通ってくるか分からない。そこで日本は敵をさぐるために小型艦に哨戒させた。

以下は私要約するのもなんなのでそのまま引用することにする。

明治三十八年五月、わが艦隊はロシア海軍の最後のバルチック艦隊の日本近海到着を手ぐすねひいて待ち構えていたが、五月二十七日午前五時、哨戒にあたっていた仮装巡洋艦信濃丸は朝霧の晴れ間から敵艦隊を発見し、『敵艦隊二〇三地点に見ゆ。敵は東水道に向かうもののごとし』と無線警報を発信した。これを受信した鎮海湾で待機中のわが連合艦隊は、直ちに『敵艦隊見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。』と大本営へ第一報を送りて全艦隊に出航準備を命じ、午前六時五分、序列に従い順次抜錨し出航した。以後実録に示すごとく、二十七・八の両日で、バルチック艦隊をほとんど全滅させて世紀の大捷を博した。信濃丸の発した『敵艦見ゆ』の無線通報はわが艦隊の戦闘行動を最も有利に導き、緒戦三十分にして完全に勝敗を決したことは世界の耳目を驚嘆させた。この戦闘中、各艦は無線電信の威力を遺憾なく発揮して刻々正確な情報を交換し、戦況をつねに有利たらしめた点は各国陸海軍に大きな刺激を与えたのである。 (電気通信大学六十年史 序章 第2-2節)

▼タイタニックの沈没

そして明治41年にようやく日本で無線通信の実用化が行われた。無線通信は最初、海岸の通信局と大型の船舶との間で行われた。その後、外国へ向かう大型客船にも無線通信局を起き、技術の進歩とともに外国との無線通信も行われた。

1912年(大正元年)に重要な事件が起こる。タイタニックの沈没である。

タイタニックが氷山に衝突して沈没しようというときに、タイタニックは無線で救助を求めた。しかし、タイタニックから 15カイリにいたカリフォルニア号は無線通信士が寝ていて気づかず、20カイリにいた貨物船には無線機が積まれておらず、50カイリも遠くにいた貨物船カルパシキ号だけがタイタニックからの救助信号を受信してはるばる助けに向かい、タイタニック号の船客・船員2,223人中703人を救助した。

そこでこの年の六月に、アメリカやイギリスなどの海運国が、一定の大きさ以上の船舶に無線通信を備えることを義務化し、世界的にはその後にロンドン会議において海上人命安全条約が結ばれた。

■無線電信講習所

▼通信士養成問題

当初日本では、無線通信は全て国が管理することとなっていたが、企業の商船にも無線通信を備えなければならないことから、民間のものを認めざるをえなくなった。

国が管理していたあいだは、逓信官吏練習所無線科という役所付属の養成期間で通信士を養成していた。しかし民間で広く無線通信の需要が出てきたことから、通信士が足りなくなってしまった。その後、通信機のメーカーも通信士を養成するようになり、過渡期の通信士不足を解決して海運に貢献した。

中でも安中電機製作所が工場の設備まで解放して設立した帝国無線電信講習会は、六回の講習会をひらいて三百人以上の通信士を養成した。

しかし、通信機のメーカーが通信士を養成するという構造はいかにも不自然であり、メーカー側から国へと対処が求められた。その結果、大正六年に電信協会がメーカーの通信士養成機関を大体引き取って無線電信講習所に一括することとなった。

▼電信協会

話はさかのぼるが、電信協会というのは、かなり前から電気通信を純粋に技術的な面で研究していた集まりであった。電信協会は明治26年に作られ、逓信省の管下にある最初の専門雑誌『電信協会誌』を発行し、日本の電気通信関係全般にわたる研究・事業推進の唯一の機関だったらしい。

しかしこの電信協会は、無線通信の実用化が進むにつれて人々から技術的な感心が失せていったことと、逓信省自身が乗り出して『通信協会』を作ったことにより、急速に衰えていってしまう。

そこへ先の、一定の大きさ以上の民間船舶に無線通信機を置かなければならない、という国際的な流れを受けて、電信協会が通信士の養成機関を作って運営しよう、という話が出た。

ちょうどそのとき、安中電機製作所の設立した帝国無線電信講習会をメーカーから独立させるべきだという話が起きていた。海運業者からも、ちゃんとした通信士養成機関を設置してくれという強い要望が逓信省に対して求められた。その結果、逓信省から電信協会に対して、帝国無線電信講習会を引き取ればどうかとのすすめがあり、引き取ることとなった。

▼無線電信講習所

こうして電信協会は、引き取った帝国無線電信講習会をあらためて無線電信講習所を設立した。設立に当たって、当時好景気に沸いていた海運業界から多数の寄付が集まったという。この当時、世界各国の港湾に日章旗が掲げられていたらしい。それだけ拡大した海運に見合った通信士が必要だというのも分かる。

そしてこの無線電信講習所が、電気通信大学のおおもととなったのである。

よく分からないがこの無線電信講習所は、最初は小暮幼稚園という幼稚園の階上を間借りしていたらしい。のちに目黒に正式に建物を建てて移った。

無線電信講習所とはどんなところだったのか。卒業生の一人である大岡という人がこんなことを回想しているらしい。

私の入学した太正十三年は、漸く学校としての形態が、整ひかけた時代だったと思ふが、全く変わった所へ入ったという印象を受けた。学生も正規に中学を出た者以外に、上は大学から、下は中等学校中退やら、数年の浪人生活を経て来た者やら、とにかく相当種々雑多の人間の寄り集りだし、(中略)、全てが寄合世帯と言ふ感じを、受けずには居られなかった。 其の上入学した私達-或は私と言った方がよいかも知れぬが-自体が、現在の学生の如く、ハッキリした目的や考へを持って居たらしくも無く、大部分が他の学校に入れなかったからとか、経済上の事情とか、或は漠然と船に乗りたいと言ふ様なことだった様に、考へられる点があり、全てがフラフラして居た様に、思はれたのである。 私達が入学した当時は、制服もなく、全てが自由だったから、着物を着て来る人間もあり、之が下駄のままガタゴトと教室へ入って来る様なこともあった。

なんともシケた創生期である。

しかしそんな卒業生たちは、なんと帝国大学を出た学生の二倍もの初任給をもらっていたらしい。知らないかたのために解説しておくと、帝国大学とは戦前の日本を代表する七つの国立大学のことであり、現在の東京大学、京都大学、北海道大学、東北大学、大阪大学、九州大学、あと一つ忘れたが、いずれも当時最高峰の教育・研究機関である。それも過渡期の人材不足あってのことだろう。

▼私立の無線学校

ところがタイミングの悪いことに、世界大恐慌のちょうど前くらいまでに通信士の需要は大体満たされてきたので、恐慌に突入したときには就職難が一時的に起こった。しかし、タイタニックだけではなく日本でも似たような海運事故が発生していたため、既に通信士の搭乗を義務づける法律が施行されその猶予期間中にあり、その期間が恐慌後すぐに切れたことや、満州事変や支那事変が勃発して、また通信士の需要が足りなくなるという事態が発生した。

そこで各所に私立の無線学校が乱立されることとなった。

しかしこの私立の無線学校というのは、いつの時代にもあるのだなと感心するしかないのだが、そのほとんどがロクな施設や教育環境も持たない営利目的の学校だった。通信士の資格が取れるというので生徒が集まったが、規定の課程を終えても一向に能力が身につかずに国家試験に浪人しつづける者が続出した。学校は荒れ、学生がヤケを起こしてちょっとした社会問題となり新聞の片隅を賑わしていたこともあったらしい。

それでも中国大陸で戦争の泥沼にはまっていった軍は通信士を必要としていたため、無資格のまま卒業生の半分以上が通信に従事することとなった。しかしあまりの事態に、1943年になって私立の無線学校は全面閉鎖されることとなった。

▼無線電信講習所の官立化

ちなみに電信協会は社団法人になっていたのだが、国との結びつきが強かったとはいえ民間が作った団体であることには変わりなく、従って電信協会の運営する無線電信講習所もまた私立の無線学校であった。

官立(国立)の無線士養成機関はたた一つ逓信官吏練習所無線通信科があったのだが、この学校は役所の一部であり、入学する人間も役人だけなら卒業していく先も役所だけで、彼らは主に数少ない陸上での通信業務に就いていた。

1940年頃に、無線通信士養成を国家的事業にするべきだとの声が上がった。既にこの頃、無線電信講習所は役人の講師を大量に受け入れたため、半官半民のようになっていた。

1942年に無線電信講習所は国へ無償譲渡された。このとき、前からいた教職員はほとんど判任官または嘱託となり、新たに国が出した役人たちが管理職を独占した。あまりの待遇の悪さに退職した教師もいたらしい。

ここに無線電信講習所の 24年の歴史の幕が一旦降りた。電信協会の旧役員と無線電信講習所の旧教職員の間で別れのパーティが開かれたさいに、一人の先生があまりの待遇の悪さを電信協会の若宮貞夫会長に訴えた。会長は弁明をせずに頭を深々と下げて「誠に申訳ない、すべて私の不徳と無力のいたすところである。深くお詑びする。」とだけ言った。パーティ会場は静まりかえり、その先生は突如声を出して泣き出したという。

無線電信講習所の無償譲渡に対して、藍綬褒賞の授与が決定された。しかし若宮会長は強く固辞して受け取らなかった。そのため、電信協会の二人の理事に褒賞が授与された。また、電信協会はこのときをもって解散した。

官立となった無線電信講習所は、1943年に私立の通信学校の全面閉鎖を受けてこれを吸収することとなり、これらの学校は支所として運営された。全国各所に置かれた支所のいくつかはその後に独立した無線電信講習所となり、元々の無線電信講習所は中央無線電信教習所となった。

■電気通信大学

▼終戦と大学化

1945年、日本は戦争に敗れ、アメリカの GHQ に占領されることとなった。

無線電信講習所は、国家総動員体制化においては、ほとんど軍のにおいの染み付いた学校となっていた。そのため、GHQ は存続を望まなかった。最初から官立だった逓信官吏練習所は早々に廃止が決定された。

とはいっても、通信士を養成する教育機関は必要だった。逓信省は、新しい教育制度の発足に伴い、無線電信講習所を専門学校とすることを考えていた。この動きに対し、無線電信講習所の卒業生たちは猛反発した。

通信士には陸上で働く者と船上で働く者がいる。話を船上の通信士に限ると、他の航海要員に関しては既に操舵手が専門学校で、航海士と機関士が商船大学で養成されることが決定していた。通信士は高度な技術が必要とされていたのだが、操舵手と同じ扱いになり、航海士や機関士よりも一段低くみられたのである。

卒業生たちは、自らの社会的地位を守るためにも努力し、無線電信講習所が大学となって生まれ変われるよう精一杯働きかけた。彼らは、商船大学の中に通信科を創設して通信士を養成するという計画に対しても反対し、独自の通信大学というものの構想を描いた。

戦前の各種の専門学校はいずれも文部省が管轄していた。しかし無線電信講習所は逓信省が管轄していたため、無線電信講習所も文部省に移すことになった。しかし文部省は無線電信講習所についての理解がなかったため、「通信術だけでは大学として認められない。専門学校で十分だ」と拒んだとも言われるらしい。

幾多の紆余曲折を経て、昭和23年6月にようやく大学となることが決まる。申請書に書かれた大学名は『電波大学』であった。が、さすがに電波では分野が狭いとの指摘があり、広く電気通信を扱うのだからということで『電気通信大学』とすることとなった。

ただし大学となったのは中央無線電信講習所のみで、地方にある独立した各所の無線電信講習所は電波高専となった。

▼その後

以下は、電気通信大学発足にあたって同窓会報に寄せられたものの一部である。

原子力、航空技術、電気通信。この三者の進歩は戦時中になされた科学力の集大成に外ならない。とりわけ電気通信にいたっては、船舶の安全航法に革命をもたらし、電柱なくかつまたラジオの如く普及する電話、テレビジョン、家庭無線印刷で配付する新聞、そして居ながらにして交換できる世界文化等、輝かしい将来が約束されている。 こうした観点から関係各界の意見が一致し、電気通信大学設立申請となり、第五国会がこれを認めて国立大学としての出発となったのである。翻って思えば、第一次世界大戦が無線電信講習所をつくり、第二次世界大戦はこれを新制大学に脱皮成長させたといえる。(「電気通信大学の伝統と使命」電気通信大学教授 滝波健吉 より一部抜粋)

なんと既に携帯電話や FAX やインターネットについても予言されていることに驚かざるをえない。

しかし一方でまた、電気通信大学のそもそものルーツを熱く語る者もいた。

この無線講は、本来海上船舶通信士の養成を第一として現在に及んでいるのであるから、大学になってもこの方面の通信士の養成は重要なものでなければならない。母校の魅力は、そして特異性は何処にあるのか。それは海だ、海外への雄飛だ、外国へ行けることだ。之が母校への憧れの的であったのである。卒業生の過半数の母校志望の動機が、この魅力のためであったのだ。敗戦以来今尚海運界は行詰りの状態にあるが、勿論一時的な現象であって、近き将来貿易の振興に伴って、海運界が活気を呈することは必然であらう。故に、之に備えて優れた海上船舶通信士の養成は刻下の急務で、電気通信大学設立の意義は実にこの特異性にあると言える。(「雑感(抄)」電気通信大学講師 沢野博 より一部抜粋)

このように極めて異例な歴史を持つ電気通信大学だが、大学となってからは割合平凡な工科大学として戦後を歩んでいった。

特筆すべき点としては、サイバネティクスを提唱したウィーナー博士を呼んで懇談会を開き、これからの大学のあるべき姿について話をしてもらったことがあるらしい。

開学当初は主に無線通信に関係のある学科しか置かなかったが、エレクトロニクスの発達により電子工学科が追加され、コンピュータの時代と共に全国に先駆けて情報工学科が創設された。通信技術に必要な物質の研究のためと化学系の学科が生まれたり、メカニカルな研究のために機械系の学科も生まれ、現在の電気通信大学は工科系総合大学となっている。

▼いま

電気通信大学は現在、残念ながら単なるマイナーな工科大学となっている。無線電信講習所から数えて(電信協会からか?) 60周年を迎えたときに編纂された「電気通信大学60年史」にある以下の記述は、恐らく編者の嘆きの声であろう。

目黒、夕映が丘のペンキのはげかかった、朽ち落ちようとしていたあのみすぼらしい校舎。トトツートと果てしない青春を夢みて、針金を張った無電の鉄塔の下で学んだ若者たち。数多くの同窓先輩たちが、貧しさの中で社会の格差を、はね返しはね返しながらかち取った社会的地位。無線電信講習所に培われて来たたくましい伝統。--- いまその伝統が、電気通信大学に引き継がれているだろうか。電気通信大学は、今や押しも押されもせぬ、時代を先取りするエレクトロニクスの総合大学たろうとする程に成長した。があの伝統がそこにわずかでも残されているだろうか、独自に発展した大学だと、マスターベーションしているように思えてならない。しからば、あの伝統をどこかへ消し去ってしまったのはいったい誰なのか?学校当局か、同窓会なのか、はたまた卒業生たちなのか、誰がこの問いかけに応えてくれるであろうか。 (電気通信大学60年史より)

なんと心をうつ言葉だろうか。

その事実を証明する象徴的なエピソードがある。電気通信大学の卒業生の中で、恐らく現在最も有名な人間は、ゲーム機の PlayStation2 を開発して現在ソニー・コンピュータ・エンタテインメントを率いている久多良木健である。いまのこのインターネット全盛の時代に、ソニーのネット戦略の一番重要な部分を握っている会社を率いている彼が、噂によるとネットのゲーム以外への利用には興味がないというのだ。

ほかに企業の幹部となった人間には、確か工業用ロボットの製造で有名なファナックの役員に電気通信大学を出た人間がいたみたいではあるが、通信やインターネットに関係した企業にはあまり見当たらない。

教員の中では、日本の歴史教科書を見直すために作られた「新しい教科書を作る会」の会長である西尾幹二が人間コミュニケーション学科の教授として在籍している。この学科は私がいた頃の大学には無かった学科である。電気通信大学を英語で表記すると the University of Electro-Communications となるのだが、この Communications に焦点をあてて、コミュニケーションを技術的側面以外からも扱っていくつもりらしい。

▼小言

組織が生き生きとしているのは良いことである。電気通信大学は、通信にこだわらず、電子工学、コンピュータ、そしてコミュニケーション全般へと脱皮していったのだ。いつまでも一つのことにこだわるより、ずっと良いのだと言うことも出来る。

しかしなぜ電気通信大学は、日本の通信研究における中心とならなかったのか。いや、なれなかったのか。それはやはり、日本の教育研究システム、東京大学を中心としたヒエラルキーを捨てきれていないからである。東京大学は多くの分野で第一線の研究を独占している。通信に関しては、旧帝国大学である東北大に通信に関する研究所が置かれている。文部省からすれば、戦後になって突然生まれた工科大学をほとんど気にしてこなかったのではないか。

通信に関する研究の中心となれなかった電気通信大学は、新しい分野へと挑戦していったのだと言うことが出来るが、一方でそれは、力のない大学だからこそ新しい分野を開拓するしかなかったのだとも言える。

最近聞く話の中で唯一かろうじて通信に関係のある話といえば、早川教授らが地震予知に電磁波を利用する方法を研究していることが新聞や週刊誌に取り上げられた。電磁波を利用した方法は世界的にみて一定の成果を上げつつあり、ギリシアでは実用化もされ、フランスではさらなる研究を行うためにロケットまで打ち上げるという。しかし悲しきかな、日本の地震研究は東大を中心とした研究機関に牛耳られており、彼らが 30年間に 1600億円も使って地震予知に何の成果も残せなかったにも関わらず、早川教授らの研究は無常にも国からの研究費が出なくなり打ち切られるという。

そして私の最大の懸案事項は、国立大学の独立行政法人化である。恐らく名のある大学は生き残るだろう。あまり名の知られない大学はさらに力を失い埋もれていくしかないのではないだろうか。

かつて電気通信大学は、多摩にある五つの国立大学で連合を作り、互いに補完しあうという計画を立ててリードした。農学部と工学部のみの東京農工大学、文系だけの一橋大学、外国語だけの東京外国語大学、教育学部だけの東京学芸大学とである。これは当時の学長が考え実行に移したもので、単位互換が成立するところまでいったのである。しかしそののち、誰が誘導したのか知らないが、いつのまにか東京工業大学が割り込んできて、電気通信大学は計画からはじかれてしまった。

まあそんなわけで、私自身が出身大学を聞かれたときに「いまはもうないんだけどね」みたいなことをわざわざ言わなくてはいけないようなことにはならないでほしいなと切に願うのみである。

【参考文献】

電気通信大学六十年史:
http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/mokuji.html

電気通信大学80年史 資料編集委員会ホームページ:
http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec80-homepage/uec80.html


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gomi@din.or.jp