84. 私の親族の戦争との関わり (2000/11/18)


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私は色々と第二次世界大戦などの日本の近代の戦争について色々な本を読んで調べている。私の得た知識は、既に誰かの手によってまとめられたものであり、私の知っていることの中には私が独自に調べたものはほとんどない。しかし、ようやく唯一私以外にほとんど知られていない情報を得ることが出来た。

私の本籍は、和歌山県龍神村にある。この場所は、私が生まれた場所でも育った場所でもない。しかし父方の祖父母がいた。私の父方の祖父はこの村の村長をやっていたことがあるらしい。

以下のエピソードを読んでいただきたい。この話は下記の URL が示す文章を単に要約したものであるので、こちらを参照していただけるとより深く理解できるだろう。

B29の墜落:
http://www.aikis.or.jp/~ookuma/ryujin/b29.htm (大熊小学校のホームページより)

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■B29の墜落

1945年5月5日、龍神村に B29 が来た。広島を爆撃した帰りだったようであるが、日本の高射砲の砲撃により損傷し、その後に紫電改の追撃を受けて村に墜落した。

安達さんの証言中では、B29 と紫電改とではハトとハエくらいの差があったとある。確かに機体の大きさには大きな差がある。しかし B29 は爆撃機であり、紫電改は当時日本の最先端の戦闘機であり、アメリカの最新鋭の戦闘機にも十分対抗しえた名機である。

墜落現場には、七人分の死体があった。二人が生き残り、ほどなく捕らえられた。

村人は捕らえた米兵を、憲兵に引き渡すまで警察署みたいなところに入れた。人々は交代で見張ることにした。うち一人が、「わしの子も戦死した!!一回でいいからわしに突かせろ!!」ともみ合いになったが、在郷軍人会の寒川という人が仲裁に入ってなだめておさまった。「捕虜は大切に扱わねばならん。それは敵の秘密を聞きだし、日本軍のお役にたてねばならんからである。一切は軍にまかせよ。」捕虜をロープで叩いた人もいたそうだが、終戦後に怖くなって妻子を残して四国へ逃げ出したらしい。

村人たちは、捕虜に食べ物を与えるべきか迷った。自分たちの食べ物がないのに敵にやることはない、と言うものがいた一方で、彼らも人間だと言うものもいた。結局、配給の元締めをやっていたタバコ屋のおじいさんがにぎりめしを作って捕虜に与えた。

捕虜は日本軍の憲兵隊に引き渡された。

■戦後起きた問題

戦争が終わったあとで、このことがいくつかの問題になった。

▼捕虜の行方

まず、捕虜が結局どうなったのか。教会の神父はこう言っていたらしい。二人の他に、他の場所でもう二人の米兵が捕らえられたが、四人の捕虜は串本という場所で病死したと届けられた。しかし安達さんは、四人の捕虜は殺されたのだと聞いている。この四人の捕虜は生存して帰国したという噂もあったらしい。安達さんはこの噂がデマだと否定している。

私の父親はこの件に関して自分の考えを私に話した。私の父親は、この四人の米兵はやはり殺されたのだと信じている。しかし私は合点がいかない。龍神村には教会が多い。私は実際にこの目で見ている。地図を見れば分かるが、和歌山の山奥にわざわざ教会がある理由が分からない。最寄の電車の駅まで、峠を越えて一時間も掛かるのだ。それに、父親の話によれば、私の祖父は村長だった頃に、アメリカ軍から特別な理由で缶詰をもらったそうだ。

つまり、ミクロな状況から考えれば、四人の捕虜の病死という届け出は非常に不可解ではあるが、マクロな状況から考えれば、捕虜は生き残ったとしか考えられない。

しかし、私の父親を含めた大多数の村人は、捕虜が死んだと思っている。これは何故だろうか。やはりこれは戦後教育によるものと考えるのが妥当ではないか。

ただ、真実が闇の中であることには変わりない。ひょっとしたら、この取るに足らないことのようにしか思えない出来事の裏には、とても魅力的な物語が隠されている可能性もある。たとえば、良い方に考えたとしたら、

日本軍は米兵を拷問にかけて殺すかもしれないので、憲兵隊が気をきかせて医者に診断書を書かせ、病死ということにした。帰国した米兵は感激し、その話を聞いた彼の親族の教会関係者が、日本に教会を建てて布教しようとやってきた。

悪い方に考えたとしたら、

日本軍または憲兵隊は米兵を拷問して殺し、戦後自分たちの不都合にならないように病死ということにした。教会は、B29 が落ちたときに死んだ七人の兵士のうちの誰かの近親に教会関係者がいて、近くにいたいからと建てられた。

私がその気になって精一杯調査をすれば、ひょっとしたら真相は明らかになるかもしれない。しかし、期待すべきではないし、私にとって特に価値のあることでもない。

▼死んだ米兵の墓

村人は、墜落によって死んだ七人の米兵の墓を作った。

死んだ七人のうち、五体満足だったのは三人だけで、あとは肉片になっていた。そこで村人たちは、肉片をかき集めて穴に埋めた。穴は二つ掘り、一つの穴に五人分の遺体を埋め、もう一つの穴に二人分の遺体を埋めた。このとき二つの穴を掘ったことがのちのち問題となる。

戦争が終わり、米軍が調査にやってきた。米軍は、墓が作られていたことを大変喜んだ。しかし遺体を調査する必要から、墓を掘り起こすことになった。死んだ米兵には、遺体を待つ肉親がいる。

そうなって村人たちは狼狽した。というのは、墓はあまりていねいに埋葬されてはおらず、遺体が散乱していたので余計なガラクタまで一緒に埋めていたらしい。遺体を埋めた穴は二つあったのだが、そのうちの一つにしか墓標を立てなかったため、米軍は一つの穴しか調べなかった。村人たちは、ガラクタが一緒に埋まっていることを知られたくないため、二つ目の穴のことを米軍に隠してしまった。

その穴が改めて調査されることになったのは、なんと 1983年になってからである。村人の一人が気になって、アメリカ領事館や教会の司祭と一緒に、ブルドーザーを使ったりして調べたが、結局遺体は見つからなかった。その土地は水害が起こりやすかったので、いまは埋め殺しの堰堤がある。水に流されてしまったのかもしれない。


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gomi@din.or.jp