82. 運動を偽科学する (2000/10/10)


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さてこちらが本編である。前回は惜しくもシドニーオリンピックが終わってしまったあとになってしまったが、奇しくも今回はうまく体育の日に…今年からそういえば月曜日固定になってしまったのでまたキリのよい日をのがしてしまった。

■大人がスポーツを始めるのは大変

スポーツに限らず、何かを始めるのは小さい頃からが良い。クラシックの演奏家は幼稚園くらいの頃から小さな楽器を持たされて教育される。多分世界クラスのスポーツ選手の大半は、幼い頃から訓練を受けてきたことだろう。なぜなのだろう。

体を鍛えるには、頭は必要ないのだろうか。いくら理知的な人が、自分の体のどこを強化しようとか、この技をするにはこれこれこういう練習をしたらいいだとか、考えたりすることよりも、何も考えずにいる子供の頃の方が上達するのはなぜだろうか。

私が大学にいた頃、物理の先生がこんなことを言っていた。その先生は最近初めてスキーをやったそうである。ところがさすがに四十過ぎの年齢から始めるのは難しかったようである。ちなみに私が小学生の頃にスキーを初めてやったときはすんなりすべることが出来て、もっともスポーツ経験のある父親は家族で一番下手だった。それはいいとしてその先生は、自分が物理学を研究しているので、スキーの滑走を頭で理解するようにしたらしい。止まるときはエッジを立てるとか、曲がるときは膝に体重をかけるとか、そういう当たり前のことを全て物理学のモデルを使って頭で理解することにしたらしい。曲がろうとするたびにいちいち考えるのは無駄かもしれないが、それでようやくそこそこ滑れるようになったとニコニコ話した。

■機械に運動をさせるのも大変

我々は、歩く。歩くという運動は実はかなり難しい運動である。

ホンダだかトヨタだかどこだかの会社が、二足歩行ロボットを作った。四足歩行つまり四本の足で歩行するロボットを作るのは簡単である。現に私は小中学生の頃、タミヤの工作キットで作った覚えがある。しかし二足となると途端に難しくなる。動くどころか、立っていることすら難しい。我々は、ちょっと押されたぐらいではバランスを立て直すことが出来る。しかしロボットでそれをさせるのは難しいというか現時点では不可能なのではないだろうか。

しかし我々は、歩くという難しい運動を当たり前にこなすことが出来る。今日の昼は何を食べようか、などと考えながらうわのそらででも歩くことが出来る。今日はラーメンにしよう。と思っている間も歩いている。

これはあくまで私の予想なのだが、四十歳くらいまでロクに歩かないで人生を送った人が、四十過ぎになって自分の足で歩こうと思っても、多分満足には歩けないだろう。足の筋力が衰えているだろうという理由もあるが、仮に筋力がちゃんとあったとしても歩けないに違いない。

■運動は複雑系だ

だからそれと同じように、たとえばテニスなんかでも、小さい頃から当たり前のようにボールを打ち合っていた子供と、15歳くらいになってから必死で練習した人とでは、どうにも埋めきれない差があるのだろう。

これを私なりに説明すると、要は複雑系である。小さい頃は理屈が分からないし、頭脳に論理的な思考回路がないし、多分筋肉も特定の動きに最適化されていないので、とにかく脳が働いて筋肉が動いて適当な動きをする。そうしているうちに、いつのまにか例えばテニスに最適な頭脳や筋肉になっていくのである。

脳の中のニューラルネットは電気が流れるたびに流れやすくなり、筋肉は使われた部分が使われただけ強くなる。このようにして出来た頭脳や筋肉は、理屈のような論理的で分かりやすいものではない。そのため、他のスポーツに流用しようと思っても、そのスポーツと類似点があまり無かったら、意外なほど出来なかったりする。

肝臓という臓器は、人間が作ろうと思ったら東京都の面積と同じくらいの化学工場になるらしい。しかし、肝臓は肝臓の役割しか果たせないが、化学工場ならば肝臓以外の役割を果たすように簡単に調節することが出来る。

つまり、プロスポーツプレイヤーの運動神経は肝臓であり、物理学の先生の運動神経は化学工場なのである。Jリーグのサッカー選手だった加藤久は、保健体育学の勉強をして自らに実践していると言うが、彼もまたどちらかといえば化学工場のような運動神経を持っていたのではないかと思う。だから多分彼はサッカー以外のスポーツもかなりうまいのではないか。しかしそのいずれでも超一流にはなれない。それは、やはり肝臓の方が機能が上だからである。

■速く走るには

私もまた、何をするにも理屈を求めた。語学を理屈で覚えるのは無駄である。小さい子供の方が外国語を覚えるのが早いのも、さきほどの話と同じである。私は、英語の例文をひたすら暗記させようとする英語教師が嫌いで、ロクに暗記をしようとはしなかったのだが、語学の上達には暗記がとても有効であることにあとで気がついた。当時の私にそのことを理屈で説明してくれたら暗記したのに、と思うがそれは甘い話である。

子供の頃、速く走れるかどうかは極めて重要なことだった。どうしたら速く走れるのか、いろいろな人から言われてきた。一番多かったのは、腕をとにかく振りなさい、だった。地面を蹴るだとか、首を振らないとか、モモを高くあげろとか、色々なことをやってみたのだが、結局私はあまり速く走ることが出来なかった。

それでいまになって、こうしたら速く走れるのではないだろうか、と思った点がいくつかある。私はもうこれから全力で走ることなどほとんどないだろうから、もしいまも体育の授業とかで走る機会のある人は、私がこれから言うアドバイスを聞いて走ってみてはどうだろうか。

▼バランスを崩せ

走るという運動は、危ういバランスの上に成り立っている。バランスを崩しては走れない。しかし逆説的かもしれないが、バランスを崩さないことには速くは走れない。歩くという運動はほとんどバランスが崩れることはないが、速く走れば走るほどバランスが崩れる。遅くしか走れない人は、体のバランスをあまり崩していないのではないだろうか。

そういえば私はこんなアドバイスを受けたことがある。体を前に倒す。すると倒れそうになる。そのときに足を一歩前に出せ。足を前に出したら体もついていかなければならない。体が動き始めると、体が前にいってまた倒れそうになる。そのときにもう片方の足を一歩前に出せ。とまあ、それを繰り返すと走りになるというわけである。

ここ最近のオリンピックでは、100m 走の決勝に日本人選手が出たことはなかったと思う。しかし昔は優れたランナーがいたらしい。その中で、スタートダッシュに優れた人がいて、彼のダッシュは一つの示唆を与えてくれる。彼のダッシュは、両足の間隔を広げていくらしい。彼のやり方は非常にバランスが悪く、失敗したら前に倒れてしまうほどであったようである。しかしこのスタートダッシュは並み居る世界の競合を少なくともスタート地点付近では制していたという。

▼腰を落とせ

人間の足というのは、足の付け根に対して、大体半円を描くようにしか動かすことが出来ない。車のタイヤなら、常に地面に接しており、タイヤと地面とはほぼ一点だけ接していたら良い。しかし、人間の足は、地を蹴っているときもあれば宙に浮いているときもある。人間は足が地に付いているときしか加速できないのだ。

ということは、人間が走るときの加速とは、足と地面の間に働く摩擦力と、足と地面が接触している時間の掛け算である。つまり、人間が速く走るには、足を地面に蹴りつけて摩擦力を大きくするほかに、なるべく長い時間足を地面に押し付けなければならない。これは走るという運動を考える上で意外な結論ではないだろうか。

では、どうやって長い時間足を地面に押し付ければよいのだろうか。その答えは、腰を落とすことにあると私は考える。

パンクしたタイヤを想像してほしい。タイヤはへこみ、地面とべったり接触している。逆に空気圧の高いパンパンのタイヤを想像してほしい。タイヤはほとんどへこまず、地面とほぼ一点でしか接触していない。自動車が速く走るにはタイヤがパンクしていてはいけないが、設置面積という点ではパンクしているタイヤの方が広い。そしてタイヤがパンクすると、タイヤの車軸は当然地面に近くなる。これと同じことを人間に当てはめてみよう。車軸は腰に当たる部分である。腰さえ落とせば、足が地面に接触している時間が長くなる。

別の例を出そう。水泳のバタフライという泳法を思い浮かべて欲しい。速く泳ぐには、とにかく速く手を回せば良いのだろうか。泳者が進むのは、手が水面の上に出ているときではなく、手が水面の下にあるときである。速く泳ぐには、手が水面より下にある状態の時間が長ければ長いほど良いのではないだろうか。まあバタフライは足もあるのでどうなのか知らない。それに自由形といえばほとんどの選手がクロールを選ぶみたいなのだが、クロールは基本的に手が水面の上に出ている時間と下にある時間とが完全に等しいので、理論的にはもっと速い泳法があっても良いはずである。バタフライはクロールより速いと私は昔きいていたのだが、いまはどうなのだろうか。

▼モモを上げろ

腰を落とした走りをするには、地面を蹴った足を素早く体の前に持ってこなければならない。なおかつ、足は前に思い切り振り上げられなければならない。でなければ、足が地面と接している時間が短くなってしまうからである。

そのためには、モモを上げなければならない。モモが十分に上がらなければ、ただでさえ体は前傾しているのだから、足が前に着地できずに体のすぐ近くで地面についてしまう。すると足は十分な時間地面を捉えることが出来ずに、ろくに加速できないまま地面を離れ、また足を前に振り上げるアクションに入ってしまう。

▼力強く

速く走る、というといかにも軽快な走りを求められるかもしれない。しかし実際には、人間の重い体を高速で動かすのだから、力強さの方が重要ではないだろうか。

とにかく、これまでのやりかたをもう一度見直した方が良い。つまらない思い込みは出来るだけ頭から追い払うべきである。しかし注意しておきたいのは、これまでうまくやっていた動作なのに、頭で考え始めるようになってから、いまいち自然に運動できなくなってしまった、というようなことが起こる可能性もある。工夫しようと思ったばかりに、余計な部分の力を使ってしまったりすることがあるかもしれない。

▼とにかく走れ

私の友人が興味深いことを言っていた。彼は走るのではなく泳ぐことが得意であった。彼によれば、とにかく泳いで泳いで、疲れてきてもさらに泳ぎ続けると、しまいにはあまり疲れないで泳ぐ動作を自然と体得できるらしい。

頭で考えて実行することには限界がある。とくに、無駄のある動作の無駄をなくすのは、本能に任せた方が良い。

私はいまこうしてパソコンに向かって文章を打っている。私はコンピュータの技術者で、いわばコンピュータのプロである。だからというわけではないが、キーボードは私の商売道具だけあって、キーボードで文章を入力するのは得意である。しかし私のような人間よりもさらにキーボードを打つことが得意な人たちがいる。それはオペレータである。オペレータは主に女性なので彼女たちと呼ぶことにするが、私がこうして何を書こうか考えながらキーを叩いているのと違い、彼女らはとにかくキーを叩いている。そんな彼女たちのキーボードさばきは、流れるようにとても静かなものらしい。私や私の周りを見回しても、キーの打鍵が静かで滑らかな人はいない。私の周りで恐らく最速の人は、ピアノをやっていることから打鍵が強くてうるさかった。ピアノは強く叩かないと音が出ないので仕方がない。

無駄のない動きが必ずしも速いわけではないが、無駄のない分だけ疲れずに済むし、必要な部分に力を集中できる。そして無駄のない動きを体得するには、とにかくひたすら運動を続けるしかない。

■体を動かすこと自体は面白い

私は学生時代、体育の時間がそんなに好きではなかった。まず着替えが面倒だった。校庭を何周というのは嫌だった。マラソン大会は最悪である。球技は好きだった。柔道も着替えや受身のウォーミングアップが面倒なこと以外は面白かった。

思い返してみると、体を鍛える、速く走る、遠く高く飛ぶ、といったことにはまるで興味を持てなかった。しかしいまの私がそのまま学生時代に戻るのだとしたら、これらのことにも熱を入れてみたいなと思う。ひたすら何も考えずに鍛えたり走りつづけたりするのは嫌だが、自分の頭で創意工夫したり、運動のための勉強をすることなら、興味が持てたと思うのだ。

■体も頭も動かすことには変わりない

私は時々、本を読むことが面倒に感じるときがある。いま私は、読もうと思って買ってある本が数冊たまっている。これらの中には、読み始めてもあまり引き込まれずに、興味を引きそうなところを探して地道に読んでいかなければならない本もあるだろう。読書については、このような面倒な作業でも割合苦労を感じない。しかし、筋トレをやろうと思って腕立て伏せや腹筋背筋をやろうと思ったら、途端にめんどくさくなってやらなくなってしまう。勉強の出来ない人は多分、私の筋トレのように途中でめんどくさくなってやらなくなってしまい、最初は腕立て 10回で良かったのがいつのまにか 50回を一気にやらなくてはいけなくなって、それでついていけなくなったりしたのではないだろうか。一つ一つ考えていけば分かることでも、やる気がなくなってしまえば何も分からなくなるのだ。

なにごとも、やってみると面白い。とよく言われる。しかし私には、これの続きの言葉があるのだと言いたい。なにごとも、やってみると面白いが、やりつづけるには興味が必要である。

私は小学生の頃、ウンテイ(運梯?)や登り棒が好きだった。特にウンテイは平気で三本飛ばしとか四本飛ばしをやっていたし、登り棒もただ登るのではなくて隣の棒へ隣の棒へとクルクル回転して移動したりしていた。私にとっての不運は、こんなマイナーな運動を好きになってしまったことである。走ることが好きな人や泳ぐことが好きな人は、中学高校と進んでも走ったり泳いだりする楽しみを味わえる。しかし私の場合は、中学高校でウンテイや登り棒を体育の時間でやるわけがない。何か一つでもやりがいのある運動が私にあったら、その運動を通じて筋力や運動神経が維持され、新たに興味の持てる運動が見つかったときに十分に楽しめるだけの素地があったかもしれない。

■おすすめ

バドミントンは面白い。ぜひおすすめである。テニスほど道具が高価ではなく、場所も地方自治体の体育館が利用できる。ゲーム性があって楽しめる。そして何より、このスポーツは見かけによらずとてもハードである。熱中している間に沢山の汗をかくことが出来る。私の場合は、プレステでスマッシュコートというテニスゲームをするぐらいの感覚で気軽に楽しめた。負けるととても悔しいので、勝つまでやりたくなる。友達を誘ってみよう。

逆に、ジョギングはあまりすすめられない。あんな暇なスポーツはないからだ。ただ走り続ける、特に何の生産性もない運動である。走っているとそのうち脳内麻薬が出てハッピーになる、いわゆるランナーズハイを味わいたければ、面倒でも走りつづけるとそのうちクセになるかもしれないが。

一人でやるなら…水泳だろうか。温水プールなら一年中やっている。プールのはしからはしまでひたすら泳ぎつづけるのは飽きるかもしれないが、意外なことに距離を決めてその距離だけ泳ぎきろうと思うとなかなか飽きない。水着の女性を見るというモチベーションもある。特にロリータにはたまらないだろう。


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gomi@din.or.jp