78. 孤児もの (2000/9/24)


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最近、孤児が主人公の物語を二つ味わった。

■コインロッカー・ベイビーズ

私は最近ノンフィクションしか読まないのだが、珍しくフィクションを読んでみた。村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」である。結論から言うと、あまり面白くなかった。

私はこの小説を文庫で読んだ。この小説は、どうやら七十年代に書かれた作品らしく、言うなれば現代の古典と言うべきものである。古典というものは、月日が経っても色あせないことが何よりの条件である。しかし私が読んでみたところ、既にこの小説は色あせているのではないかと思った。

私は七十年代という時期がどういう時期なのかわからない。というのは、私自身が七十年代に生まれているからである。この小説が出たのは私が赤ん坊の頃である。当時の風俗についてはいくらかの情報を得ているが、当時を生きていない者にそのときの様子を感じるのは難しい。

私がこれまでに読んだ本は、さして面白くない本でも、後半はグイグイと読み進められるものが多かった。というのは、前半で物語の世界に入っていけるからである。しかしコインロッカー・ベイビーズはついに最後まで読むことが面倒に感じられた。

ただ感覚的に感想を述べていっても仕方が無いので、分析していくことにする。

▼養父母の描写

私がまず面食らったのは、養父母の描写である。この物語の主人公は、キクとハシという二人の少年なのであるが、作者はまずこの二人の孤児を引き取った養父母の経歴をこまごまと書いている。これがとても生々しいのである。大抵の物語では、結婚は「恋愛の結末」または「過ぎ去った出来事」として描かれる。この物語でも、養父母の結婚は「過ぎ去った出来事」のはずなのである。しかし作者は、あえて家庭を描写するために、結婚までの養父母の家庭を掘り起こすのである。掘り起こされたのは、スポットライトどころか光も射さない暗がりでの物語である。おおかたの人は、自分が生まれてくる元となった「両親の結婚」について、あまり深く詮索しようとは思わないだろう。

養父母の結びつきとは要約すればこんな感じである。男ばかりだった炭鉱にいた数少ない女で炭鉱のアイドルだった義母が、廃坑と自身の肌の衰えに日々悶々と暮らしているところへ、一人やってきた養父が綺麗だ綺麗だと養母に言って結婚することになった。私はこの彼らの物語を読んでいて気持ちが沈んだ。が、この部分は、物語というもののタブーを破ったと言えるのではないだろうか。子供が主人公の物語で、両親のドロドロとした物語を敢えて描写したのである。とはいっても、物語では終始して養父母がよく描かれている。彼らの人間的な欠陥についてはほとんど語られていない。

にしても、当時二十代だった作者がこのような描写をするのは少々無理があるのではないかとは思わなくない。

▼感覚表現の過多

目に余ったのが、ドロドロ、グチャグチャ、などの感覚的な擬音である。

私はあまりフィクションを読まないので、小説の系譜というものをよく知らない。ただ、これはあくまで予想なのであるが、上のような感覚的な表現を多用して高い評価を得た作家がいたのではないか。そして村上龍はこのような系譜の影響を受けたのではないか。

この作品には世紀末のようなものが描かれており、こぎれいに生きている我々現代人の感覚器を刺激しようという意図もあるのだろう。しかし、私はあまりに感情移入できなくて困惑するだけであった。ドロドロとかグチャグチャというのは、登場人物が感じている感覚なのであるが、彼らの感性があまりに敏感とでも言うべきなのだろうか。まあ、主人公二人はそれぞれ異なる理由で心神喪失に陥るので、その前後や最中の状態がまともな精神状態ではなく、異常な感覚に縛られているのは当たり前であるのだろう。しかし敢えて言わせてもらえば、異常な状態にある人物の感覚を解説されても何の感情移入もできないし、逆に読み進めるのは退屈な作業となる。

▼主人公たち以外の存在感の薄さ

そもそもこの小説には魅力的な人物はいないと言ってしまえばおしまいなのだが、主人公たち以外の登場人物の存在感が薄いのである。まあ、主人公たちは人と正常に接することが出来なかったというか、他人にあまり興味が無かったということをうまく表現しているのだと思えなくもない。しかし、登場人物に魅力がなくて面白かった物語はあったろうか?

キクにはアネモネというヒロインが、ハシにはDというパトロンがいるのだが、彼らの描かれ方は物語中のウェイトの割に希薄である。両者に共通するのは、過去の出来事や現在の感情について淡々と説明されてはいるのだが、現在の彼らを突き動かす感情が感じられない。

特にアネモネは立派なヒロインで、映画化されたら恐らく主演女優が演じるべき役割である。キクとアネモネは多分恋に落ちたのかもしれないが、元々キクが人との情緒的な付き合いが出来ないせいか、描写は感覚的なものに限られ、極めて淡々と行動や事実だけが描き重ねられていくだけである。ハシがアネモネに恋心を描くシーンもあるが、その理由は「張りのある肌」だけである。

ハシは歌手デビューし、マネージャーのニヴァと結婚することになるのだが、その理由はマネージャーの年不相応のしわのある手に心ひかれたことである。

▼母親殺し

とまあこのように人との付き合いが淡白な主人公たちなのであるが、それなのにどうも不自然としか思えない部分がある。その際たるものが、キクの母親殺しによる罪悪感と心神喪失である。

キクとハシは生まれてすぐに捨てられた孤児であり、養父母のもとに引き取られてからしばらくして、ハシは自分の本当の母親についてのヒントを得て家出する。そこで様々な紆余曲折があったあと、ハシは歌手デビューし、プロデューサーのDはプロモーションの一角としてテレビでハシを実の母親と会わせることを計画する。マスコミが群がる中で、ついに自分の本当の母親を見つけた…と思ったら実はそれはキクの本当の母親だった。その頃、キクはハシがテレビで人々のさらし者になるのを防ぐため、怪しい閉鎖区画で手に入れた散弾を撃てる拳銃を持って撮影現場に乗り込む。そこでハシと会ったキクは、ハシを救おうとして拳銃を群集に向ける。キクが威嚇のために発射したその先に、キクの実の母親が飛び込んできて…。実の母親を自らの手で目の前で殺したキクは、心神喪失状態となって少年院に送られる。

これまで他人と情緒的なつながりを一切してこなかったキクが、なぜここで心神喪失となるのだろうか。実の母親とはいえ、数十秒前に初めて出会った人間である。このあとキクは無気力状態となるのだが、その理由が「母親の最期の言葉が『やめて』だったから」である。それから敢えて突っ込むのだが、なぜ母親がキクの銃口の前に立ちふさがったのかが全く分からない。描写も少ないままに、後半の少年院編へと話は進んでいく。

▼物語の筋は?

私はこの作品を読み終わったあと、解説を読んで気が抜けた。この作品に対してここまで深読みが出来るものだと解説者に対して感心することさえ出来なかった。解説によると、コインロッカーは現代社会で、キクとハシは私たち現代人なのだそうだ。また、バタイユを引用して、人間の生には破壊が含まれるだとか、太陽からエネルギーをもらっているから人間は常に余剰を抱えているだとか、トンチンカンなことを並べ立てている。

キクとハシはそれぞれ役どころが違うらしい。キクは途中で、ダチュラという米軍の極秘化学兵器を追い求めるようになる。世の中を破壊したいのだそうだが、その理由がいまいち分からなかった。ハシは、幼少の頃に自閉症の治療に使われたリラクゼイションルームで流れていた謎の音の正体を求めはじめる。あの安心する音が何かを知りたいのだそうだ。キクは最終的に、ダチュラの入手に成功し、東京に散布してしまう。その影響かどうか知らないが、ハシは急に不安になり、自分の妻となり子を宿しているニヴァを刺してしまい、そのときにニヴァの心臓の鼓動が自分の捜し求めていた音だと気づく。

心臓の音というのは、キクの少年院での仲間となった山根によっても語られる。彼はいわゆるプッツンしやすい気質を持っていて、怒りをこらえるときには自分の胸に手を当てて必死で自分の心臓の音を探って気持ちを落ち着かせようとする。が、こうして語られる心臓の音というモチーフは結局のところ未消化のまま終わってしまったように思える。

結局のところ、作者の描きたかったのは「退廃」この二文字に尽きるのではないかと私は結論する。…が、それではあまりに寂しいので、私なりの解説をつけることにしよう。

やはりコインロッカーは現代社会の比喩という分析には同意できる。今の世の中に、段段と情緒的なつながりが欠けてきているのは確かである。そんな中で、人間関係は常に淡白であり、情熱は行き場を失い、もはや破壊・劣情などの退廃にしか行き着かなくなる。

が、村上龍に対してここまでの解釈をする必要があるのだろうか。私は彼の作品は他に「トパーズ」しか読んでいないのであるが、この作品も念頭に置くと、結局のところ村上龍は退廃を描きたいだけにしか思えない。

彼の最新作は「希望の国のエクソダス」と言うらしい。この作品は、筋を聞く限りでは、あまり退廃とは関係ないようにも見える。しかし、子供たちが大人社会に反旗を翻して、大人顔負けのことを次々としていって最終的には日本を脱出するという筋書きを聞くと、村上龍は社会派を装った単なる愉快犯としか思えない。この物語には、彼が最近勉強してきたインターネットや経済の話が散りばめられているらしいのだが、これも恐らく単なる添え物に過ぎないのだろう。

■こどものおもちゃ

手塚治虫の作り上げたストーリーマンガは、現代に脈々と受け継がれている。中でも私は少女漫画が大好きである。

少女漫画といえば、七十年代が有名である。私は特に時代にはこだわらず、まんべんなく色々な漫画を読んでいる。古本屋で無作為に本を抽出して買って読んでいたこともある。が、ただでさえ内容が重い上に、時代を遡るほど読むのに疲れるため、最近は比較的最近の漫画しか読んでいない。

さすがに私は「少女漫画オタク」という尊称を名乗るには程遠い。たまたま見たアニメから原作の漫画を知って読み始めたことも多い。放映開始からチェックしているわけではないので、たまたま見たアニメが面白かったらアニメを見つづけるのであるが、最初の部分が分からないので漫画を一冊だけ買ってみたりする。

私は「漫画>アニメ」派なので、アニメで時間を潰すよりは漫画を読んだ方が基本的に面白いと判断している。が、「こどものおもちゃ」というアニメに初めて出会ったときには、単にハイテンションのくだらない話だと思い、時々しかアニメを見なかった。そんなわけなので、漫画も当然買わなかった。

しかし、アニメの騒々しくてうっとうしい演出に慣れた頃にじわじわ面白く思えてきたので、そのときに漫画を一冊だけ買って読んだ。が、そのときはすぐに続きを買って読むという衝動は起こらなかった。というのは、当時の私は漫画を主に古本で手に入れていたからであり、確かあの頃はまだ完結していなくて、わざわざ新品を買ってまで追いかける必要は無いと思って、一巻を買って読んでそのまま本棚の奥に仕舞ってしばらく忘れていた。

その後、引越しをしてから、近くに古本屋がなくなってしまい、よほど気になる漫画しか買わなくなった。それから、友人が少年漫画を貸してくれるので、あえて買ってまで読もうという気もなくなっていた。

ところが、近所のパルコの催事場で古本市が開かれているというので行ってみた。私はまず値段を確認した。というのは、実は私の家の近くには実は古本屋があるのだが、強い異臭が漂うほど管理状態が悪い上に値段が高くて馬鹿馬鹿しくて買う気が起こらなかったからである。私の目安としては、四百円くらいの単行本で最高 150円までしか出す気はない。パルコの催事場の古本市は、比較的新しいものが 150円であとは 100円だった。合格である。

そこで私は、いくつかの判断基準に照らし合わせて本を選んだ。まず、私は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を集めていないので、百巻手前の 100円の巻を何冊か手にとった。その後、テレビで最近やっていてテレビドラマにもなった「GTO」が比較的安かったので、飛び飛びに買って欠けているものはあとで新刊で手に入れることにした。先に言った「こどものおもちゃ」を発見したのはこのときである。これも飛び飛びの巻しかなかったのだが、あとで補充することを考えてあるだけ入手しておいた。その他、週刊文春の漫画の欄で薦められていた「天使禁猟区」が一巻から三巻まで偶然続きであったので買っておいた。

▼筋書き

私は一生懸命探したのだがついに第一巻が見つからなかったので、物語を最初から振り返ることが出来ない。探す手間を掛けるぐらいならもう一冊買った方が経済的なので今度買ってくることにする。

「こどものおもちゃ」は、小学館のりぼんという小学生向け(?)の雑誌に連載されていた漫画である。ここでなぜ小学生向けにクエスチョンマークをつけたかというと、白泉社でほぼ同世代向けの雑誌 LaLa をヤンキー風のごっつい女性が買っていたのを見たことがあるからである。

主人公は倉田紗南という小学生で、彼女は劇団こまわりに所属するタレントである。作者によればこの主人公のモデルは有田気恵で、題名の「こどものおもちゃ」は物語中のテレビ番組の名前で、この番組のモデルが「あっぱれ!さんま大先生」なのである。モデルとなったこの番組は、明石家さんまというお笑いタレントが(ってわざわざ注釈がいるのだろうか)、学校みたいなところを舞台に、子供を色々といじくって笑いをとる番組である。ここに出てくる子供はなかなか個性的で、変に大人びたことを言ったりとか、天然ボケなど子供ならではの意外性が面白い。

主人公の紗南がいる学校が主な舞台となるのだが、同じクラスには羽山秋人という不良のボスがいた。彼とその取り巻きが授業を妨害したり、同じクラスの生徒をいじめたりする。そこで紗南が立ち上がり、羽山に対抗していくうちに、紗南は羽山の家庭環境の悪さに気づき、羽山と心を通じさせていく。

羽山は孤児ではなく、彼の母親は彼を生んですぐに死んでしまい、それが原因で姉から意地悪をされたり、父親は仕事が忙しくて、暗い家庭環境で育ったということであった。

孤児は紗南の方なのである。紗南は、特にアニメではひたすらハイテンションなのだが、それがそもそも孤児の裏返しだったのである。

▼感情表現の豊かさ

紗南の育ての親である実紗子は作家なのだが、実紗子は紗南と五歳のときに、とある約束をしたということになっていた。その約束とは、紗南が人より少し有名になったら、実紗子は紗南との物語を書いて出版するというものであった。五歳の子供とこのような約束を交わすという設定には無理があるが、こうすることで物語には豊かさが生まれた。

孤児ものにありがちなのは当然、実の母親との再会、である。実紗子が本を出版すると、たちまち話題になり、ついには実の母親がひっそりと二人の前に現れる。実紗子は現れた実の母親を殴り、あとはその母親の扱いを紗南に任せることにする。実紗子は、紗南に全てを委ねたのである。

実紗子は、紗南が望むなら実の母親とこれから暮らす方が良いと思い、そのときは紗南を手放そうと諦めることにしていた。紗南の決断がどうなるのか不安で仕方が無かった様子が描かれている。紗南は紗南で、自分は実紗子に見捨てられるのではないかとの不安に怯えている。

とまあほとんどネタバレ的な解説しか出来ないのであるが、物語の造り、それを支える感情表現、分かりやすくてどれも素晴らしい。

▼どうしてアニメは低俗なのだろう

アニメの方では漫画よりも特に紗南がひたすら明るく描写されていて、私はアニメ版はあまり好きではない。そしてなによりも、アニメ版は話が途中で終わってしまうのである。漫画では最後に、紗南の核心に迫る筋を用意して、主人公の紗南を描ききって終わっている。

その筋まで言ってしまうとひんしゅくだろうから、簡単にほのめかす程度にしておく。紗南は孤児であった。五歳の頃、本当の母親だと思っていた実紗子から本当のことを打ち明けられ、自分が継子であることを知る。それ以来、紗南の心の奥には常に不安があった。その裏返しに、とてもポジティブで明るい性格を持つようになり、その性格で子供タレントとして成功していた。しかし物語の後半、様々なことが起こってしまい…。

一言で言ってしまえば、アダルトチルドレンということなのだろうか。

▼恋愛描写

私がこの作品を秀逸だなと思ったのは、恋愛描写である。どう良いのかを説明するためには話の筋を書かなければならないので、ちゃんと読みたい人はこの項を飛ばしていただきたい。

まず紗南は、ずっと年上のマネージャーの玲くんという人物に恋をしているということになっている。しかしそれは、恋というものをロクに知らない紗南のゴッコ遊びということになっていて、途中で紗南は実紗子にそれに気づかされ、自分の思い込みを恥ずかしく思い反省する。

それ以来、自分が誰かを好きになるとか自分が誰かから好かれるという状況を容易には受け入れられなくなる。羽山と色々衝突があったあとに仲良くなり、羽山はタイミングを見計らって紗南にキスをするのだが、紗南は羽山が幼稚園の頃にキス魔だったことを挙げて、羽山は単に誰にもキスをするものだと自分に思い込ませている。

その後、三ヶ月ばかり紗南が映画の撮影で学校に行かなくなるのだが、その間に芸能誌が紗南と映画の共演者の一人が交際しているという嘘の記事を書く。それを見た羽山はどうでもよくなり、紗南の親友が羽山に交際を申し込んできたのでそれを受ける。そのことを映画撮影のロケ中に聞いた紗南は、初めて自分が羽山を好きだったと気づき涙する。

私は作者のこの紗南という人物の造り込みに驚嘆する。リアルではないか。恋愛というものに気づくまでの過程が私にはとてもリアルに感じられる。

▼あえて言えば…

が、この作品に対して不満がないわけでもない。

出来ることなら、この作品に芸能界を持ち込んで欲しくなかった。現代の小中学生いや高校生それ以上まで、芸能界に憧れる子供は多いらしい。劇団こまわりは言うまでもなく劇団ひまわりのパロディで、紗南は一部にファンを持つタレントという比較的ソフトな設定だったのだが、それでも主人公をタレントにすること自体がかなり特殊な設定である。

羽山というキャラクターについてだが、確か第一巻では、従来の枠ではとても主要登場人物とは思えないようなことまでやっていて、その点に関しては非常に良かったと思う。その代表的な例は、クラスの女の子を池に落とす、紗南に暴力を加える、である。途中、中学生三人相手の喧嘩に一人で勝つとか、やや不自然な描写もあるのだが、攻撃は強いが防御が弱いという小さな設定があったり、万引きも主導したというきれいではない事実も判明し、一応バランスは取れたのではないかと思う。

■活字の衰退または弱み

というわけで、単純に比べて読むと、活字のつまらなさと漫画の面白さを感じたと言ってもよいだろう。というか、私が面白い活字に出会えていないというだけの話なのだろうか…?

一応活字の擁護もしておこう。活字の物語つまり小説は、昔からあるし世界中にある。つまり沢山の話が出尽くしているのである。小説のパターンは全て紀元前に出尽くしたとも言われている。だから、これから出る話はどうしてもひねくれたものになってしまう。

例えば推理小説では、密室のトリックはあらかた出ている。読者は古典も読んでいるものと想定されるので、これまでに出てきたトリックを使うわけにはいかない。だから、どんなに素晴らしいトリックでも、既に発表されたものは使えないので、ひねったりしてなんとか新しいトリックを作り出す。そんなトリックは、大抵の読者にとって、望まれていないのではないだろうか。

一方漫画の場合、子供が読者だと想定されているので、名作小説の焼き直しが出来る。しかも名作を現代的に子供向けに分かりやすくアレンジできるので、読みやすくて面白いのは当たり前である。海外の小説は翻訳が悪いことがほとんどなので読みにくいが、漫画は絵での描写に助けられてとても読みやすい。

小説にはジュヴナイルというジャンルがある。これはいわゆる少年少女のための小説である。私はかつていくつかこの手の本を読んだのだが、読者をバカにしているのではないかと思えるほどの幼稚さを感じた。一方で漫画は、本当にこんなこと書いて小学生は理解できるのか?と思えるようなことも平気で書かれていることが多い。このあたりが活字と漫画の明暗を分けたのではないだろうか。

まあそんなことを言ってしまえば、なぜテレビドラマが人気あるのか私にはさっぱりわからない。テレビドラマの孤児ものといえば、いまなら菅野美穂主演の「愛をください」だろうか。こんなクズ作品はあえて鑑賞して批評するのも馬鹿馬鹿しい。あれほどくだらない話が多いにも関わらずなぜ視聴率が高いのか。漫画より話がずっと稚拙である。結局漫画も、ほとんどの読者はうわべしか読まれていないのだろうか。

■アニメの再評価「GTO」

アニメはテレビドラマよりも基本的に稚拙である。多くは言うまい。ただし、原作漫画よりも良いアニメを最近一つ発見した。それが「GTO」である。私はまずテレビドラマとなった「GTO」を見た。これは人気俳優の反町隆志が主演したことで知られる。そのあとでアニメの「GTO」を見た。テレビドラマとして大ヒットしたにも関わらずアニメに出たのは私にとってみれば意外であったが、やはりテレビドラマは反町だけで引っ張ってきた別の話だったからではないだろうか。

私はアニメの「GTO」をしばらく見たあとで、漫画を買ってきて読んでみた。私は漫画に結構期待していたのであるが、その中身がアニメとほとんど変わらないのでガッカリした。作者はベテランの漫画家で、恐らくアニメ化あるいはドラマ化も期待していたのではないだろうか。少なくとも、漫画にしか出来ないような内省的な表現はほとんどなく、それどころかアニメ版の方が内面描写が分かりやすかった。

試験管ベイビーの超天才少女とその先生とのつながりは、むしろアニメ版の方が深く描写しているように思える。特に少女が、死の危険が迫った時に、アニメ版では独自に「先生ーっ!」と叫んで先生とのふれあいがフラッシュバックする演出が加えられている。漫画版の同シーンがただ単にバイクの疾走とジャンプを描きたかっただけとしか思えないようなシンプルな描写だったのに比べると、アニメに関わった人間が物語を補完した形となっており、アニメスタッフの素晴らしい仕事だったと高く評価したい。


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gomi@din.or.jp