77. 知の定義 (2000/9/18)


戻る前回次回

普段我々が知と言っているものはなんなのだろうか。

今回の話は、抽象的な思考の出来る人にしか薦められない。

■知を数学で表すと…

AさんはBというものについて知っているとする。この場合、Bというものについて知っている、というのはどういうことなのだろうか。

Bが「おいしい店」だとしよう。ついでにAは田中さんということにしよう。すると、田中さんはおいしい店を知っている、ということになる。おいしい店を知っている、とはどういうことだろうか。普通に考えれば、店というものがいくつかあって、その中で少なくとも一つはおいしい店を知っている、ということである。

彼の持っている知というのは、全ての店を二つのグループに分類するものである。おいしい店と、おいしいかどうか分からない店とである。勘違いしないで頂きたいが、彼はおいしい店とまずい店とに分けられるわけではない。もしそれが可能だとすれば、彼は世の中の全ての店について知っていることになり、そんなことは実際には不可能である。

それから、彼の持っている知というのは、いわゆる真実というものとは異なる。というのは、彼が知っているおいしい店というのは、あくまで彼の主観に委ねられるからである。田中さんの知っているおいしい店に連れて行かれたけどあの店はそんなにおいしくなかった、と思う人もいるはずである。

彼の持っている知を、数学的に説明するとこういうことになる。

U : 全ての店の集合
O : おいしい店の集合
T : おいしい
m : ある店
f(m) : 彼の持っている知

f(m)=T → m∈O

このような式を論理式と呼ぶ。

■論理式

少し論理式に慣れていただくことにしよう。

▼集合

O ⊆ U
(おいしい店の集合O は、全ての店の集合U の部分集合である)

普通、全ての集合を U と称する。というのは、U は Universal の略称だからである。このあたりならば私のような数学者きどりの素人でもうろ覚えで覚えているので、それに習って表記した。

集合(set)というのは、色々なものを集めたものである。たとえば、全世界の車の集合というのは、全世界にある車の全てを集めたものである。色の集合というのは、赤とか黒とか白とか、あらゆる色を集めたものである。

全ての店の集合というのは、この世の中の全ての店を集めたものである。おいしい店の集合というのは、この世の中でおいしい店を集めたものである。

部分集合というのは、ある集合の中の特定のものだけで構成される集合のことである。たとえば、世の中には色々な色があるが、これまでに車のボディのカラーとして使われたことのある色は限られている。リンゴの色となるとさらに限られている(赤や緑の系統ぐらいだから)。

おいしい店というのは、店である以上、全ての店の中に含まれている。そういった当たり前のことを数学的に表したのが O ⊆ U なのである。なぜこのような当たり前のことを説明するのかというと、たとえば「ラーメンの屋台は店と言えるのか言えないのか」といった瑣末な問題を考えないためなのである。

▼文字と値

m∈O
(店m はおいしい店の集合に含まれる)

上記は、m という店はおいしい店だ、ということを数学的に表したに過ぎない。ここで m という文字が出てくるが、これはいわゆる「ある店」という意味である。特定の、たとえば私のよく行く「すず吉」というラーメン屋とかを指しているのではなく、あくまで「どこかの店」を表すものである。

一方で、特定のものを指すのが値である。先の例で言えば「すず吉」は値である。

「∈」という記号は、日本語で言えば「含まれる」という意味を持つ。だから、以下のようなことも言える。

黄色∈全ての色の集合
(黄色は全ての色の集合に含まれる。意訳すると「黄色は色の一つである」ということ)

すず吉∈全ての店の集合
(すず吉は全ての店の集合に含まれる。意訳すると「すず吉は店(店名)である」ということ)

▼関数

f(m)=T
(田中さんはある店m をおいしいと知っている)

このあたりからヤバくなってくる。実のところ私は、関数の定義というもので最初は理解に苦しんだ覚えがあるからである。上で言うと f() が関数にあたる。

そのまえにここで「おいしいかどうか」という集合を定義する必要がある。I という集合があるとして、

I = { T, F }
(集合I は T と F という値で構成される)

そしてここで以下の置き換えを念頭に置く事にする。

T ... おいしい
F ... まずい

関数について定義する前にもう一つだけ例を出すことにしよう。

f(すず吉)=T
(田中さんはすず吉をおいしいと知っている)

f() は集合I の中のどれかの値を返す関数として定義されているのである。

関数の例として、ここでは分かりやすいものを出すことにしよう。ずばり、店の名前の文字の画数が偶数ならおいしい店で、奇数ならまずい店である、という店占いのような関数を g() としよう。

私の職場の近くには「たん清」という焼肉屋があるのだが、この店は先の店占いではどうなるのだろうか。「た」が四画、「ん」が一画、「清」が十一画なので、全部で十六画、つまり画数は偶数である。ということは、

g(たん清)=T
(たん清という店は、店占いではおいしい店だと判断された)

ということになる。このように、実際に関数の結果を出すことを「計算」と呼ぶ。

以上、論理式というものを駆け足で紹介したが、さらに述語論理式というわけのわからないものまでは紹介している暇がないので割愛する。

■どれが知なのか

では、先の例では、田中さんはどんな知を持っているのだろうか。彼は、あらゆる店の中で、特定の店を分けて考えているだけである。彼の知には何の科学的根拠も客観性もないのだ。もし彼が特殊な味覚の持ち主であるとしたら、普通の人にとってみたら彼の知は何の役にもたたない。

では、もし彼が普通の人と正反対の味覚を持っていたらどうだろう。すると普通の人は、何回か彼の勧めに従ってひどい目にあわされることで、彼の勧めには従わないようにすれば、彼の知を有効利用することが出来る。

いずれにせよ、彼の持つ知は、科学的根拠も客観性もないのだから、知だからといって有効利用できるわけではない。

これはグルメ本にも言えることである。何人かの食通が手分けをしておいしい店を見つけ、そのリストを本にまとめて出したとする。その本にはおいしい店が沢山載っていることになり、これは立派な知である。しかし、ここに載っている店が、全ての人にとっておいしい店であるわけではない。それに、そもそも「おいしい店」とは人それぞれの判断なのだ。食べることにあまりこだわりのない人からすれば、どんな店でもおいしい店かもしれないし、逆にどんなでもおいしいとは感じない店であるかもしれない。食通は味にうるさいかもしれないが、そうでない人は食通よりも味に寛容である。

一方、前節で店占いというものを例に出したのだが、この店占いというものは知なのだろうか。店の味を判断する上で、何の関係もない店名を判断材料にしているこの占いは、いっけん何の意味もないものであるかのように思われるかもしれない。しかし、この占いも、全ての店を「おいしい店」とそうでない店とに分けているので、これもれっきとした知である。店占いなどではなく、食通の格言風にもう一つ考えてみよう。例えば「店名にカタカナのつくラーメン屋はおいしくない」とする。たとえば「ホームラン軒」や「キムラ」などの店はおいしくない、というものである。この格言は私がたったいま作ったものなので適当なものなのだが、世の中にある格言には何の科学的根拠がないにも関わらず経験的に正しかったりするのである。これは立派な知であり、しかも有用な知である。

■知識と知恵

知には色々なものがあり、呼ばれ方も違う。たとえば、知識、知恵、知能、いずれも意味が異なる。先の例で言えば、田中さんの知は知識であり、先の格言「店名にカタカナのつくラーメン屋はおいしくない」は知恵である。いずれも、数学的には関数で表すことが出来るが、知識は純粋な定義のみで表されるのに対して、知恵は計算方法の定義で表される。

他に人類にはどんな知があるだろうか。

大雑把に言ってしまえば、あらゆる知は「分ける」ことから派生している。言語は、人間の出す声の中で、意味のある声を分けたことによって生まれた。意味のある声をさらに、ちょっとした声の出し方の違いにより、複数の意味に分けた。文字は、何もない素地に刻みを入れることによって生まれたのだが、何もない素地と刻みを入れられた素地とを分けることによって、素地の単なる汚れや模様の中から文字を分けた。

あらゆる知は、分けることの出来る抽象的な概念によって表すことが出来るのである。そして現代の数学は、関数という抽象的な概念によってこの分けることを記述している。

関数というものは、基本的には写像を定義するものであり、いわば変換器の抽象表現なのであるが、変換という概念自体には知はない。たとえば、日本語を与えると英語を返す関数があるとする。

f(これはペンです。) = This is a pen.
f(はじめまして) = How are you? , Nice to meet you. ( , ... )

これは立派な知なのではないかと思えるのだが、変換自体は単なる置き換えに過ぎない。実物と記号の置き換えは単なる定義であり、記号と記号の置き換えもまた記号の定義に過ぎない。また、実物と実物の置き換えは、あいだに記号が入らない限り不可能である。

■知能と意思

人間が最初に見つけた知は、やはり自らの生存に関わるものであろう。

どの場所が安全か、という問題は、あらゆる場所について「安全な場所」と「安全ではない場所」に分けるということである。どれが食べられるか、という問題もまた、あらゆるものについて「食べられるもの」と「食べられないもの」に分けることである。

では、理解する、というのはどういうことであろうか。

たとえばあなたが「窓を開けてくれ」と頼まれたとする。あなたはそれを理解できるだろう。では、「理解する」とはどういうことなのだろうか。あなたが「理解した」としたら、あなたは「窓」が何を指し、「窓を開ける」という行動がどういうことか、そして誰かに頼まれているということが分かるだろう。これは恐らく一般に「知能」と呼ばれるものである。

では、知能とは数学的にはどのように定義できるのだろうか。

知能は数学的には定義出来ないのである。なぜなら、そこに意思が関わってくるからである。

ここにマネキンがあるとする。そしてあなたは、マネキンに向かって「コップをとってくれ」と言ったとする。当然マネキンは動かない。あなたはマネキンがそんなことをするわけがないと思うことだろう。マネキンは単なる人形なのだから、人の言うことを聞くはずがない。

そこへ偏屈な哲学者が通り掛かって「マネキンが君の言うことを聞かないのは、マネキンは君のことが大嫌いだからなんだよ」と言ったとしよう。あなたはどう思うか。マネキンは生きていない、と思うのではないか。

また逆に、あなたが誰かに「コップをとってくれ」と言われたとする。あなたは当然その言葉を理解できるだろう。しかし、あえてその誰かの頼みを受ける必要は無い。黙って無表情のまま突っ立っていてもいいのである。しかしあなたはマネキンとは違い、誰かの言葉を正しく理解している。

理解する、ということは、意思を持った主体でなければ出来ないことなのである。つまり、理解する能力である知能は、主体のみしか持ち得ないのである。おいしいラーメン屋を知っているのは、人間でなくてもグルメ本であっても良いのである。占いは、人間がやるのが基本であるが、機械にやらせることも出来る。しかし、理解するということは人間(主体)にしか出来ないのである。

ちなみに、占いの類いは、人間の深層意識が成せるものである。たとえばこっくりさんは、複数の人間が硬貨に指を添えて動かすが、これは敢えて複数の人間が共有している深層意識を抽出する作業である。また、占いといえばタロットカードや易や水晶玉などがあるが、タロットや易の棒は人間の手でシャッフルされるし、水晶玉は人間が覗き込むので、必ず深層意識の影響を受けるのである。だから私は、機械の占いはデタラメだと断言できるが、占う対象に直接コミットする人間の占いについては、程度はともかくとして信用できるものだと思う。

*

というわけで、次回のテーマは「意思」である。

残念ながら、私は意思を説明することは出来ない。もし人間に、意思の正体がわかったとしたら、人間が意思を作ることが出来なければならない。そもそも意思というものが哲学的なものなので、意思を作るということはどういうことなのか、という問題は避けて通れない。しかし、人工的に作った脳が言語を理解して我々と会話できるようになれば、意思の仕組みが分かったと言っても良いのではないだろうか。ただし、人工無能や理路整然としたアルゴリズムによって作られたものは脳とは呼ばない。あくまでカオスから作られなければならない。

それと今回は重要なテーマに一切触れずしまいであった。それは「学習」である。学習とはつまり、知の獲得である。もしかしたら「意思」の前に「学習」を書くかもしれない。


戻る前回次回
gomi@din.or.jp