73. 私と異性 (2000/8/17)


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お盆である。今年の始めに亡くなった祖母の四十九日とやらで、私の親族が田舎に集まったようであるが、私は仕事が忙しくて帰れなかった。そういえば去年の今ごろも、クソ暑い中を横浜まで二時間掛けて直行直帰して仕事をしていた覚えがある。

私には別に田舎に行きたい理由はない…ただ一つの目的を除いて。さきほど田舎から帰ってきた母に、私のその一つの目的であったある人が来ていたかどうかを聞いてみた。その人とは、私のいとこの子供の、小学四年生の女の子のことである。前にこの場所にも書いた覚えがあるのだが、その子はイラン人の夫と結婚した従兄弟の子で、明朗活発でかわいい女の子である。

今年の初めに初めて会ったときは本当にかわいかった。ジーンズのワンピースを着ていて、強気にグイグイと自分より年上の大人たちを自分のペースに巻き込んでいく。私は多分彼女に恋をしていたのではないかと思う。まあ私はさすがに大人なので小学四年生の女の子に熱を上げることはしなかったが、間違いなく私が久しぶりに恋に落ちた相手だったと思う。

■私の初恋

私の初恋もそういえばたぶん小学四年生のころだったと思う。近所に同い年の女の子がいた。彼女とは同じマンションに住んでいた。彼女には、私の弟と同じ歳の妹がいて、よく二人でマンションの駐車場で縄跳びをしていた。私はといえば、兄弟揃って彼女の姉妹にちょっかいを掛けた。情けないものである。やはり気を引きたかったのだと思う。

しかし当時の私は、同じクラスの女の子とは仲良くやっていた。これは実に不思議なことである。卒業アルバムが残っているのだが、スナップショットには、私が隣の女の子と何か話しているところが写っている。その頃、女の子と親しかった男の子は、私の他におかま風の優等生の通称ゆうくんがいただけだった。私は彼ともそれなりに親しかったが、私の友達は大抵普通の男だった。

私は学校外では男の友達としか遊ばなかったが、学校の中ではよく女の子と話をした覚えがある。それなのに、なぜか自分の一番近所に住んでいた彼女とだけはうまくいかなかった。いまから思えば、私の方がちょっかいを掛けているという状況になったのは、彼女が私のことを相手にしなかったからだと思う。相手にしてくれていれば、ちょっかいという形ではなく、きっかけといった形として残るはずだからである。

残念ながらついに私は彼女と仲良くなれなかった。これが多分私の初恋である。彼女の母親と私の母親はいまでも仲がよくて一緒に旅行とかに行くらしいので、彼女の消息はいまでも時々耳に入ってくる。なんでも将来ケーキ屋を開きたいそうで、そのために料理学校に通いつつ、お金をためるために NHK にバイトに行っているそうだ。バイト先では気に入られて、社員にならないかと誘われているらしい。多分番組製作会社だろうが、そんな話を聞くといまでも私は彼女のことが気になるのである。あのときはあまり愛想がよくなかったけど(まあ親しくなれなかったのだから無理もないが)、いまはどんな風になっているのだろう。

■私の初ポカ

私はその彼女とは仲良くなれなかったのだが、繰り返すがクラスの他の女の子とは仲良くやっていた。私はその小学校を転校して東京の学校に移ることになるのだが、お別れ会でも女の子から何通か手紙を貰っていて、それがいまでも残っている。ところが、貰った手紙の中で一つだけ、失われてしまった手紙がある。

小学六年生の頃である。当時の手紙を見てみると、さすが思春期の早い女の子は書く内容が違う。さすがにマセた内容のものは無かったが、さらりと好意と励ましの内容が書かれているのを見ると、よくまあ当時のアホだった私と話をしてくれていたものだと思った。当時の私のノートを見ると私の馬鹿さ加減が分かるというものだ。そして、失われた手紙の事件はその象徴とも言えるものである。

意外なことにその手紙の主は、特に私があまり気にしていなかった女の子からのものであった。時々話をした覚えはあるのだが、そんなに親しかったわけではなかった。その手紙にはこんなようなことが書かれていた。「わたしはなんたらなおばさんであなたはなんたらなおじさんで、よい関係でいましたね」なにしろ手紙が残っていないのだから正確な内容までは思い出せないが、とにかく彼女は自分のことをおばさんと形容し、私のことをおじさんと言い、とにかくあの歳からすると高度な比喩が使われていたのではないかと思う。いま思えばそれは彼女の私への好意の表現だと思える。…まあひょっとすると当時のテレビか何かでこのような内容の台詞や手紙があったのだとしたら是非教えて欲しい。私の中ではいまでもささやかながら人生の謎の一つではあるのだ。

私がこの手紙を貰ったのは、私のお別れ会の当日である。ところが具合の悪いことに、私はその日に家に帰ってから手紙を読み、もうこれでお別れかと思っていたら実は次の日が最後の登校日であった。で次の日、やることがなくボーっと窓際でボーっとしていたとき、彼女が私に近づいてきた。彼女はさりげなく手紙の内容をほのめかして楽しそうに話し掛けてきた。彼女は当時の私の頭では理解できないような抽象的な話し振りをしていた。私はひょっとすると、この話は昨日読んだ彼女からの手紙に関連するのかと思い、ついついその手紙のことに触れてしまった。すると彼女は突然「もう見たの?」と怒り出し、私の元を去ってしまった。

私はそのときのことがよほどショックだったのか、いまでも彼女の様子をぼんやりと覚えている。そしてなぜか、しばらくして彼女からのその手紙は、私の思い出の袋の中から消えてしまった。

■東京の小学校

そんな最悪な日を最後に、私は東京へと戻ってきた。最悪と言っても当時の私にはワケが分からなかったので、実はなんとなくバツの悪い感じがしていたに過ぎないのだが…。

東京で私を待っていたのは、ハイテンションなクラスメイトたちであった。中でも一番活発な女の子がいて、当時流行っていたギャグを私にも仕掛けてきた。それは「ねえ○○君(さん)」と相手を呼んでおいて、相手が返事をするとすかさず「ブー」と言うギャグだった。

それまで私がいた札幌とは、東京は何かが違っていたと感じた。まあ東京が特別な場所というのではなく、ひょっとしたら私のいた小学校や中学校が特別だったのではないかとも言われている。というのは、中学のときに修学旅行で京都と奈良に行ったのだが、私のいた中学では男女がよくじゃれていて、他校の生徒がその様子をぼんやり見ていた、と教員が語っているのを聞いたからである。

私は札幌の友達から色々なものを餞別としてもらってきた。その中で、一番親しかった女の子から貰った消しゴムがあった。私にはその消しゴムはやはり特別なものだったようなので、まあ安物の普通の消しゴムなのだが、誰から貰ったのか忘れないようにと、消しゴムのゴムの部分を紙のケースから抜き取って、ゴム本体に彼女の苗字を書いておいた。苗字なので特に照れくさくはない。ところがなぜかそれがクラスの女の子にバレた。突然私の消しゴムを取り上げて
「実は消しゴムの中に好きな人の名前が書いてあったりして」
と言って消しゴムの紙のケースを取って「あ、本当に書いてある」と言った。私は取り澄ましてこう言った。
「貰った人の名前を忘れないようにさ」
「でもこの○○○って女の子でしょ」
「うん、まあそうだけど…」
「ふーん」

私が東京の小学校にいた時期は非常に短かった。二学期から入ってきたので、半年ちょっといただけである。だがその半年あまりに色々なことがあった。私が同世代の人から唯一バレンタインデーのチョコレートを貰ったのもこの時期である。ただし、班の女の子が男の人数分のチョコを一緒に買ったらしいのだが…。

私のことを馬鹿にした女の子と初めて出会ったのもこの時期であった。家庭科の時間は普段の教室とは別の席になり、隣の席にその背の高くて優等生的な女の子と一緒になった。私は家庭科はあまり得意ではなかったし、なにやら一学期のときから進められていた刺繍クッションの作成の続きから入り、途中からやることになった私はよく分からなかったので、たびたび授業中に彼女に訊いた。先生が説明しているときにも構わずに私がたびたび彼女に質問したのが悪かったのだろうか、次第に険悪な雰囲気になってきて、しまいに彼女はつっけんどんな態度になった。私は彼女が怒るのが面白かったので、「なんで怒ってるの?」「当たり前でしょ!」みたいなやりとりになった。彼女は中学に入ってからは生徒会で副会長だか書記だかをやり、中学の卒業アルバムでは大き目の写真の真ん中でおとなしそうにニコリと笑っているのだが、当時の彼女を知る私には何か別の感慨がある。

■陸上部の四人

中学に入ってから私は、パソコンが欲しくてしょうがなかった。親に買ってくれとせがんでいたら、条件付きで買ってくれることになった。その条件が、体育系の部活動に入ることであった。

当時の私は運動があまり好きではなく、家でゲームをしているのが好きな子供だった。めがねを掛けていて、少し太っていた。ちなみに今も当時と体型は変わっていない。運動が得意ではないのも今と変わらない。そこで親が私に運動をさせたかったのだろう。私の親というのは何かと子供に運動をさせたがり、私が算数やコンピュータの才能を見せたときにも、その才能をほとんど評価せずにあくまで運動をさせたがった。現に、コンピュータを買い与える代わりに運動部に入れ、というのは裏を返せば「運動しなければコンピュータをやらせない」ということであった。

そこで私は悩んだ挙句陸上部に入ることになった。いまから思えばこの選択は間違っていることは明らかだ。陸上部というのは運動の大好きな人間の入る部だろう。苦手な人間なら、せめて球技をやる部に入るべきだっただろう。なぜこの部を選んだかというと、確かクラスで親しくなったS君が陸上部に入ろうとしていたからだったと思う。S君は私と顔の感じや体型が似ており、双子とからかわれたこともある。

私は結局一年間だけ陸上部で活動をした。小さな大会にも一応出たが成績は散々だった。練習は出来る限りサボろうとした。職員室の近くの掲示板には、部活動の連絡板があるのだが、その板に「今日なし」みたいに書かれていると非常に嬉しかったのを覚えている。その日あったとしても、無いと思い込むための材料を探してはかなりサボっていた。それでもよく一年続いたと思う。結局ほとんど足は速くならなかった。嫌々やっていて上達するはずがないのだ。

ちなみに私は別に運動神経が悪いわけではない。走るのは苦手のままなのだが、それは多分小さい頃にローラースケートをやりすぎたからだと思う。一時期、外で遊んでいる時間のほとんどをローラースケートを履いたままでいることがあった。そのときに、前へ進む感覚をローラーで滑るイメージで固定してしまったことが走る妨げになったのだと思う。おかげで平衡感覚には今でもかなり自信を持っていて、階段を二段飛ばしで駆け足で下りる速度では大抵の人に負ける気はしない。…なにを自慢にならない自慢をしているのだか。

そんな嫌で嫌で仕方が無かった陸上部時代に、四人の女性と一応知り合いということになっていた。だが私は部では無様な姿をさらしていただけなので、極力異性とは接触しないようにしていた。ところがその陸上部の四人の女性とはなぜか、私が部を一年でやめてからも何かと因果が出てくるのである。

まず一人とは三年間同じクラスだった。まあそれだけである。中学卒業後にも偶然会って少し話をした数少ない同窓なのだが、はっきりいってそれだけの縁である。

もう一人とは、私が部をやめてからクラス換え後の二年次に同じクラスになった。私は陸上部にいたころの自分が嫌だったので、そのときの自分を知る彼女にはなるべく近づかないようにしていた。ところが彼女はとんでもない手段で私に接近してきたのである。私が先生に頼まれて席替えのくじを作ってみんなに引いてもらったのだが、みんなの席が決まった直後に彼女は突然私の後ろからヘッドロックを掛けてきて私を廊下に引きずり出した。「なんでこんな席にしたんだ」みたいなことを言っていた。私は何が起きたのかよく分からないまま「仕方がないじゃないか。くじなんだから」と言っていたが、振り回されてよだれがたれてきて彼女の腕に付きそうになったので彼女から離れた。私にこのような身体的なアクションをしてきた女性は彼女とあと一人だけである。

それから別に彼女のことをしばらくはなんとも思わなかったのであるが、三年次に進級してクラスが分かれてから、なぜか彼女のことが気になるようになった。多分私の二番目の恋ではないかと思う。が、私の小学校時代の友人のUが彼女と同じクラスになっていて、Uが彼女にちょっかいを掛けては追っかけられているのを見ているうちに、まあいいや、と思うようになった。Uのちょっかいの最も大胆なのは「おまえ俺のこと好きだろう」という言葉で、それを近くで聞いた私はどうでもよくなったのである。

彼女と最後に出会ったのは、確か高校三年生のときである。違う高校に進学してほとんど忘れかけていたとき、私は友達三人くらいと公民館の体育館でバドミントンをやっていた。隣で聞き覚えのある声が聞こえるなと思って気になっていた。コートは二面あって、彼女は友達と古今東西ゲームでバドミントンで打ち合っていた。帰り際、私は思い切って彼女に声を掛けた。
「○○さん?」
「ゴミ君?」
「おぼえてくれてた?」
「うん」
他に話すことがないのでどうしようかと思って、仕方が無いのでとりあえず公民館の利用者名簿に終了時間の記入をしているうちに、彼女が友達に引かれ始めたのでじゃあねということになった。以来また会えるといいなと思いつつそれから何度か友達とバドミントンをやったのだが、結局それから今に至るまで会うことはなかった。いまから思うと、私が陸上部でスポーツをやっていたころに出会った彼女と、偶然また高校に入ってから友達と体を動かそうということでやり始めたバドミントンをきっかけにして出会うことになるとは、何かつながりのようなものを感じる。しかしそれは小さな小さなつながりだったようである。

陸上部の四人の女性のうちの三人目は、私の進学した高校の目と鼻の先の花屋でバイトをしていて、たまに姿を見かけて遠くから覗く、ただそれだけである。私はその花屋を通りかかるたびに中を覗き込んで彼女の姿を探した。ちなみにその花屋で一度だけ、高校を卒業してから花を買った。高校のときに三年間世話になった先生が定年退職するので、花をプレゼントしようということになったのだった。私は彼女が店にいることを期待したり一方でいないほうがいいかなと思ったりしながら店に行ったら、残念ながら彼女はいなくて気の良い主人が相手をしてくれた。主人に「どんな相手に贈るのかい」と聞かれたので、先生が定年なのでお祝いに、と言うとツボミのままのバラをつくろってくれた。私たちが先生にプレゼントしたときにはなんてことのないツボミのついた少々寂しげな花束だったが、多分時間がたって鮮やかなバラが咲いたことだろう。三千円で良かったのか、サービスしてくれたのではないかと思った。

そして陸上部の四人の女性のうちの最後の四人目の女性とは、偶然同じ高校に進学して同じクラスになった。とりあえず彼女のことは置いておいて、もう一つ中学時代の別の話をしたいと思う。

■転校生U

Uと言えば小学校のときの友達のUが前に登場したのだが、そのUとは別のUが中学のときにいて、そのUとはまた深い付き合いになった。彼が私たちの中に持ち込んだのは、異性の話だった。

それまで私とその友達の間では、異性のことが話題になったことは一度も無かった。まあ私のグループというのは排他的ではないので、それぞれの成員は別のグループにも属していて、その別のグループでは何らかの話はあったのだろう。しかし少なくともこれまで私の属していたグループでは異性の話はそれまで一度も無かった。Uは突然その手の話を仕掛けたのである。内容はというと単純な話である。「クラスで誰が一番好き?」

Uは私に聞いてきたので、私が答えあぐねていると、何人か名前を出してきた。これはかなわんなと少し照れていた私は、仕方なくNさんの名前が出たところで「あ、いいな」と言った。するとUはこしゃくなことに「うーん、俺はNさんは二番だな」と抜かした。それじゃ一番は誰だと私が聞いたら、Uは少し間を置いてさりげなさを装った挙句○○さんだと答えた。その後私はこれ見よがしに、学級の話し合いで私の係り(委員会関係?)に関係ある決め事をするときに限定で司会をしたときがあって、一番前に座っていた○○さんにさりげなく話を振って調子よく会話をしてるところを見せつけてやった。

その仕返しかどうか分からないが、その後Uは卒業遠足でディズニーランドに行ったときに、遠くにNさんを見かけて大声で「Nさーん。ねえねえ、ゴミ君が用あるってー」私がおいおいとたしなめると「なんでもなーい」と言う始末であった。ちなみに私の中ではNさんはまあいいかなと思いながら時々見ていた程度で、あまり大きな存在ではなかった。タイプはというと、普通、明るい、特別な特徴を持っているわけではないので説明しにくい。

Uは明らかに、異性に対する追い立てられた感情を持っていたようである。異性を好きでなければ、そして異性と付き合わなければ男ではない、という想いを強く持っていたのではないかと思う。Uのことは以前このコーナーの「カウンセリング」という話で取り上げたので詳しくはそちらのほうを参照していただきたい。多分彼のようなタイプは一般に多かったと思う。早熟であるのか、刷り込みが激しいのか、どちらかは分からない。私の周りにはこのような人間は彼しかいなかった。…が高校に入ってから一人目覚めたのがいて、彼の話は面白いので後日話したい。

■面白いから好きなのか

この頃から私は異性に目覚めようとしていた。そこでWさんという人が出てくる。彼女は面白い人だった。よく授業中に茶々を入れて笑いの渦の一角をなすような人だった。具体的な例を挙げると、当時流行っていた歌に KAN の「愛は勝つ」という歌があったのだが、音楽の時間になぜかその曲を鑑賞することになったことがあって、最後のサビの部分で「必ず最後に愛は勝つ」というクサい詩に被せて彼女はこう歌った「必ず最後にバカを見る」当時テレビではこの替え歌はかなりポピュラーだったらしいのだが、私は知らなかったし、彼女があまりに堂々と歌うので思わず笑ってしまった。

私は当時、人を好きになるということがどういうことだかよく分かっていなかった。そこへ彼女のような人に出会い、私は彼女がとても面白いと思う、だから私は彼女のことが好きなのではないかと思ったことがある。そして、好きならば近づくべきであると、そう論理的に判断したのである。そこで同じ班だったこともあり、ちょうど修学旅行の打ち合わせをする時期だったので、班の人からめんどくさいからと班長に祭り上げられていた私は、実質上の主導権を持っていた彼女の席へ近づいて「これどうする?」と彼女だけに聞きに行った。すると彼女はこう言った。「なんで私のトコへ来んのよ!」

あとで分析してみれば割合簡単な話である。当時の私は、ボケ役だったのである。修学旅行のときも、班で行動したのだが、班員全員から突っ込まれていた。まさか彼女よりもボケ役だったとは当時全く想像できなかったのだが、どうやら私は彼女以上のボケ役だったらしい。彼女が私に突っ込んでくるのである。ボケ役が真面目に話し掛けてきたので話に困ったのが先の話ではないか。

当時の私は軽薄に喋りすぎていたようである。しかもテレビをほとんど見ていなかったので、いわゆる「天然ボケ」もかなり入っていたようなのである。

中学を卒業して半年か一年たってからピザ屋で同窓会をやったのだが、そのとき彼女は私の真正面にも来て私に話をしてきたので、多分彼女は私のことが嫌いではなかったのだろう。しかし彼女の上の強烈な一言は、私の高校以降の性格に強い影響を与えたのだった。ボケ役ではダメだ。主導権を握らなければ。そのためにはまず口数を減らそう。中学生の坊主にここまで決意せしめたということはやはり当時の私に多大な影響を与えた事件だと言えよう。

■いきなりつまづく

高校生になった私は、平時はなるべく落ち着き払い、あまり喋らないようにしようと試みた。そこへ中学の時の陸上部の四人目の女性が登場するのである。

彼女はSさんというのだが、私は中学の頃にSさんを見た覚えがなかった。しかし、陸上部の卒業写真を見ると確かにSさんが写っている。ちなみに私は一年で辞めたのでその写真には当然いない。ところがSさんは私のことを覚えていて、入学してすぐに、周りが知らない人間同士の中で、彼女が私に話し掛けてきたのである。同じ中学出身ということで近づいてきてくれたのだろう。

その後がもうメチャクチャである。私はなるべく落ち着き払うようにしているのだが、Sさんはどんどん飛ばして、クラスで妙な存在感を獲得していった。しまいには、私の凡ミスも手伝い、私と彼女の出身校であるM中学は変人の集まりだということになってしまっていた。

当時のクラスは、一年たって振り返ってみるとそもそもかなり個性の豊かな人が集まったクラスだったらしいのだが、そのクラスが一体になる始めの部分は間違いなくSさんが切り開いた。そして私はその現象に引きずられて、真面目でヘンなヤツというキャラクターを押し付けられる形となった。特に理科の実験のときに四人一組になって実験をするのだが、私以上にふざけた人間たちを相手に私は切り盛りをしなければならなくなった。

あの頃のインパクトはかなりのものだったと思う。いまの時代はどうか知らないが、当時の中学生の男は馬鹿である。そんな馬鹿な中学生を脱皮したばかりの男どもと、一足早く思春期を脱した女性がいて、それが共学の公立校という環境の中で、文化祭などの行事を通じて徐々に親しくなっていく、といった感じが普通なのではないかと今では思う。しかしSさんという導火線によって私のいたクラスはあっという間に男女が仲良くなった。私は何の働きかけもせずに、その中のある位置に組み込まれたのである。そして私は恐らく、異性と普通に会話をしている人間だと一目置かれていたのかもしれない。でなければ、はしゃがないと決めて実行していた私がなんらかの注目を受けたはずがないのである。

いまでは、テレビなんかを見ると、小学生のころから「あの子が好き」みたいなことを言い出す子供がいるのだが、私にはどうしても信じられない。いまの子供に思春期はないのだろうか。小学生というのは馬鹿なものである。ちょっとマセた子供はドキっとするようなことを言うが、それもテレビかなにかの刷り込みである。中学から高校に掛けて、刷り込みを脱して自分の感覚で自然に異性との付き合いを覚えていくのではないだろうか。

その後クラスは、男では柔道部のNなどが中心となって盛り上がっていった。私は一歩退いてその様子を見ていた。Nは男の私が嫉妬交じりに言うのもなんだが、絵になる良いキャラを持っていた。私は彼とは三年間同じクラスだったのだが、彼はのちに柔道部の部長となるほどスポーツができて人望があり、一方で感情に左右される直情的な感じはあったが、どんなタイプの人間とも親しくなれ、なおかつ意外だったのだが頭も良かった。大学に入ってすぐに同棲生活をしているという噂話も伝わってきた。

■反動

高校一年生の後期か末期あたりに、ハイキング+飯盒炊飯みたいな行事があった。男女の班を作って、事前に料理の材料を買いにみんなで近所のスーパーへ買い物に出かけたり、その材料を使ってみんなで料理をするというイベントがあった。班は、まず男同士と女同士で組を作り、その組を無条件に組み合わせて班とした。同性同士の組はごく親しい者同士で作ったので、私の親しい人ばかりである。それでクジで異性の組と組むのだが、クジが終わって班を組んだときにN君が「いい組と組めたね」と言った。N君とは今でも付き合いがあるのだが、つい最近彼にこのことを話してみたのだが、彼は覚えていなかった。私の心の声だったのだろうか。いやいや。確かに彼はそう言ったのだ。

そんなかわいい女の子三人と一緒に近所のスーパーに買い物に行ったときのウキウキした感覚、比較するものが少ないほど楽しい時間だった。その三人組の中のリーダー格のMさんはちょっと天然気味だったのをいいことに、私は買い物中に思い切りはしゃいでいた。彼女が書くものを入用になったので、芯を出す方法がわかりにくい cross のシャープペンを彼女に渡したところ、案の定どうやって芯を出すのか分からずに首を傾げているのを見るのは楽しかった。

しかし私は基本的に自信のない人間である。当日のハイキングでは、彼女らの組と一緒に歩く気になれなかった。多分私たちの男の組と一緒に歩いても楽しくは無いだろう、どうせ飯盒炊飯のときには共同作業やるのだから、ハイキングのときは他の組とでも歩いたらいいだろう、と思い、男の組だけでスタスタと駆け足で山を上り下りすることになった。私の周りの人間で異性に対して積極的な人間がいなかったのだから、私が諦めればそのままである。しかも具合の悪いことに、私たちは野外研究部という「ハイキング部+生物部」というかなりハイブリッドにマニアックな部に所属していて、登山部やワンダーフォーゲル部のようなストイックな体育会系の部ではないのだが山道は慣れており、ただ歩くのは詰まらんとばかりに飛ばした。

そこへ上の方から情報が回ってきた。先の天然気味のMさんがアゴを切って怪我をしたらしい。かなり大きな怪我で、そのまま車で病院に行くことになった。私たちはその頃、一通り山道を降りて車の入れるところまで来ていたのだが、しばらくして彼女が人に連れられて、あごを手で押さえて歩いてきた。私は何か声を掛けるべきかと思ったことは思ったのだが、何か嫌な感じがしたので黙って彼女をやりすごした。私の隣には偶然、端正な顔をしていた背の高いなんたら君がいて、彼は「だいじょうぶ?」と声を掛けた。私も素直に声を掛ければよかったのだろうが、なぜかそのとき「だいじょうぶ?」のような言葉がポイント稼ぎのような気がして嫌だったのだ。私は多分これからもずっとモテない男なのだろうと思った一つの出来事である。

Mさんは天然の中に理性を感じられるしっかりした女性だった。彼女は一年次の終わりに熊本へ転校していってしまったので写真が残っていない。残念である。

Mさんを含めた先の三人組の女性のうちの一人で、おとなしげなのにしっかりしたNさんという人がいたのだが、文化祭のあとのフォークダンスで一緒に踊る番になったときに彼女は大胆にも私に「好きな人とはもう踊った?」と言ってきた。異性からこのような核心に迫る突っ込みを受けたのはあとにも先にもこれだけである。本来の私ならばドキドキして当然のシチュエーションだったのだろうが、そのときの私は全く取り乱さずに「(フォークダンスの輪が)一周したからもう踊ったんじゃない」と答えた。恐らく理性が防衛本能を働かせて本能を麻痺させたのだろう。

それから卒業まぎわにMさんと道端で会った。会ったと言っても、私は自転車でかなりの速度を出していて、しかも音楽まで聴いていたところを、正面からやってきて彼女が私を確認して何か声を掛けてきた。ところが私は頭が回らず、彼女とすれ違い、振り返ったもののそのまま走り去ってしまった。私は本能の深いところで彼女または異性一般を避けていたのかもしれない。

■体に惚れる

かなり密度の濃かった一年次が終わってからクラス換えが行われ、それから卒業までの二年間は同じクラスになった。一年生の時の一年は時間が遅く感じられたのだが、そのあとの二年は割合あっという間に過ぎていった感がある。いや、確かに二年次の文化祭くらいまではかなり時間のたつのが遅かった気がするのだが、そこから先があっという間に過ぎ、この出来事って二年のときだっけ三年のときだっけ、と考えてしまうこともある。

私は高校二年のときに初めて、異性の体を見て惚れた。それまでは、体どころか顔もあまり気にしていなかった。私の学校には合唱祭というものがあり、クラスで混声何部合唱の曲を二曲ばかり練習して競い合うのである。その練習のとき、自然に男と女とでクラスの両端の壁にへばりつくようにして向かい合い、テープに録ったピアノの伴奏に合わせて練習するのである。あれは初夏だった。向かいの女の子の中で、ひときわ色黒く綺麗な足をした人がいて私を魅きつけた。多分私はあのころ、彼女の特に足をジロジロ見ていたのだと思う。顔にも惚れたのだが、顔を見たら相手に気づかれると思ったのであまり見なかった。

余談だが、足に惚れるのは老人に多い傾向だそうである。私は今に至るまで、胸に魅力を感じたことがない。いや、女性の象徴としての胸にはドキリとするのだが、体のパーツとしての胸にはほとんど魅力を感じない。尻も同様である。私はむしろ手や足に惚れる。極端な話、素足フェチの恐れもある。指にも魅力を感じる。

とにかく、相手の体に惚れたということを私は否定したかった。この頃から私は、外見つまり相手の顔やスタイルが気になるようになった。特にそのきっかけとなったKさんには恋をした。

私は基本的に、異性に自分から話し掛けるのは苦手である。もとい、意識して特定の異性に話し掛けるのが苦手なのであって、自然なシチュエーションで不特定の異性に接触するのは普通に出来るつもりである。なので当然、Kさんに自分から近づくことは出来なかった。

ところが彼女の方から私に接触してきた。英語の時間、先生が生徒に問題を割り当てて、黒板に英作文をさせるのだが、彼女が当てられたので、そのとき運良く彼女の隣の席をゲットした隣の私に、彼女が教えてくれと訊いてきたのである。私が自分の記憶を辿る限りでしか断言は出来ないのだが、異性から話し掛けられてドキドキして理性が働かなくなったのは恐らくこのときが初めてである。適当に精一杯助言をしたのだが、私は彼女がみんなの前で間違えて恥をかくことよりも、自分が彼女に間違ったことを教えたことで彼女に対して自分が恥をかくのを何より恐れた。

私はそのことをきっかけに仲良くなるということを一切考えなかった。私の中では、彼女はただ私の席が彼女の隣だから話し掛けてきてくれたのだろう、と理性が本能を鎮めた。私の本能はそれによりあっさり鎮まった。いま思えば、むしろ本能が多少なりとも暴走してくれたら良かったのではないかとさえ思える。

私は彼女を好きになってから初めて、好きだけど近づかない・近づけない、という甘くて苦い感覚を味わった。一度だけ、彼女が一人でいるところを狙って、こちらも一人で近づいていったことがある。しかしそのときも、結局自分から声をかけることが出来なかった。どういうシチュエーションかというと、確か三年生のときの合唱祭で彼女がピアノ伴奏をやることになったのだが、練習の合間に彼女がピアノの前でボーっとしているところを狙ってさりげなく、自分のパートの音を自分で確かめる目的で彼女の横で指一本で旋律を弾いたのである。そうしたら彼女が「どの部分?」と声を掛けてきてくれたので、「ここのテナーを」みたいに言ったら彼女がそれを弾いてくれた。欲深な私はアンコールまで頼んでもう一度弾いてもらった。私が彼女のもとを離れてから、彼女が自分の手を自分の頬に持っていったように私の記憶には残っている。私の頭がうまいこと都合よく記憶を書き換えたのだろうか。

彼女を皮切りに、主に外見の良い人を見ることが好きになった私は、授業中にたびたび異性の姿を覗き見るようになった。私は外見で好きになることを恥だと思っていたので、見ることだけを純粋な楽しみとした。中身とやらに関して言うと、私は高校に入ってからほとんど異性と話さなかったので、中身を判断することが出来なかったのだ。かといって中身を判断したからといって、やはり外見の方が本能をくすぐっていたことには変わりないと思う。

■異性に触れない友人たち

私の周りにいる同性の友人たちは、あまり異性の話をしなかった。私がそういう人を友人に選んだことが理由かもしれない。前述のN君はたまに「いい組と組めたね」みたいなことを言ってきたのだが、当時のもう一人の親友Oはもともと何を考えているのか分からないことが多かった。多少距離はあったもののその次くらいに親しかったH君は何か過剰に照れているのが見て取れた。そして結局私も彼らに対して、自分から積極的に異性の話に持っていこうとしたわけではない。似たもの同士なのだ。一人でも毛色の違う友人と親しくなっていたらまた大分変わっていただろう。

その中で、親しい友達ではなかったが、ときどき話した男でUという人がいた。このUはこれまで登場した二人のUとはまた別人なのでややこしい。高校三年間で、彼だけが私に「好きな人はだれ?」としつこく詮索してきた人である。私はちなみに誰かにこんなことを聞いたことはない。やはり私もまた、異性に触れようとしなかった一人なのだろう。ともかく、彼は次々と人の名前を挙げ、そのたびに私は「ちがう」と言い、そして最後に彼はKさんの名前を出してきた。私は知られたくなかったのでやはり「ちがう」と答えたのだが、Uはそれを信じずに「なんだゴミ君もそうなのか」と言った。私の顔に何か出たのだろうか。それはともかく、やはりKさんは人気があったのだ。ついでに言えば、私にはもう一つ奇妙な思い込みがあって、誰もが好きになるような女性を自分も好きになるのは理性的に嫌なのである。

私は自分が誰を好きなのかを友達に言うことはなかったが、一度だけ、差し支えないだろうと思い、当時クラスで男女かまわず世話好きのSさんの名を挙げ、「Sさんはいいね。男女かまわず話し掛けてくるから」と言った。ところが私が何気なく発したその言葉を、ひょっとしたら誰かが広めた可能性がある。関連しているのかどうか不明なのだが、私の所属していた野外研究部にいた、私と同学年の女性が突然、私が誰かとで話しているところへ「Sさんってかわいいよね」という話をしてきた。普段はこういう話をしないのにである。ちなみにSさんはキャラクター的には学級委員タイプである。私はSさんの世話焼きすぎるところが嫌いだったのだが、それでもある種の好感を持っていたことは事実である。

Uは卒業間際に面白い話をしてくれた。私とその友達は、あまり異性についての話はしなかったのだが、彼は私の知らなかった意外な話を聞かせてくれたのだ。理科室で授業があるときは教室とは別の席で授業を受け実験をするのだが、理科室で私の隣だったS君の話である。彼は誕生日にある女性からケーキをもらったそうである。それで彼は、ひょっとしてその女性は自分に気があるのかと思い、その女性のことが気になりだして、しまいには告白をしたらしい。ところがフラれてしまったそうなのである。Uはしみじみと、普通ケーキもらったら好きかと思うよなあ、と言っていた。私は彼のこの不幸なエピソードが好きで、彼には悪いがたまに話のタネにさせてもらっている。それはいいとして、私の知らなかったところでこんな出来事があったのを卒業間際にUから聞いて初めて分かったというのは、自分の高校生活を後悔するのに十分な理由になるのではないかと時々考える。S君とはよく話したのだが、結局のところそれほどの仲ではなかったのかもしれない。

Uの話によれば、Oという男が男女の仲介をしていたらしい。Oというのは先に挙げた親友Oとは別人である。彼がどのように仲介していたのかは分からない。私は、彼が仲介していたことさえずっと知らなかった。一度だけ彼が「おまえとやりたいといっている女がいる」と言ってきたことがあった。それは体育の時間で、皆のいる前であった。私は冗談だと判断して取り合わなかった。彼のような人と親しくなっていればだいぶ違っていただろう。しかし実際のところ、彼は基本的に私のことが嫌いだったようである。

■歪んだ現実認識

私は基本的に、自分が異性から好かれるとは思えない人間である。現に、これまで異性から好きだと言われたことはない。私は親から冗談半分に「結婚できるの?」と言われ、弟からはモテないと言われ、友人たちからは特に言葉はなく、異性からのはっきりしたアプローチもなかった。つまり、客観的に言えば、私が異性から好かれた証拠は一つもない。

私は少なくとも、異性から嫌われているにも関わらずかかわりを持とうとするしつこい人間にだけはなるまいと思っていた。テレビやアニメや漫画の世界では、そのような人物がギャグにされ、醜く描かれていたことが大きかったと思う。だから、嫌われている可能性が少しでもあると、不必要に話し掛けたりすることはしなかった。この考えは、高校に入ってから身についたものである。小学校と中学校のときは、あまり考えずに話したい時に話していた。中学でのターニングポイントが大きかったのだと思う。Wさんから言われた「なんで私のトコへ来んのよ!」の一言がそれからの私の性格形成に大きな影響を与えたと考えるのが自然だろう。いまの私は、Wさんのその一言が多分思春期独特のものだと信じているのだが、しかし一旦形成された性格を理性によって矯正することはどうやら不可能なようである。

私は恐らく、異性からいくらかの好意を投げかけられたこともあると思うのだが、それを好意だと認識することが出来ないでいた。たとえば、さきほどのKさんについてなのだが、高校を卒業して二年が過ぎてから、担任の先生が退職するというので会いにいったときに、たまたま学校にいたI先生がKさんの部の顧問だったこともあって、彼女の名前がI先生の口から漏れたときについでに私は「Kさんは(卒業後に)どこに行ったのですか?」と聞いてみた。相手がどこにいるのかを知りたがるのは立派な好意だと思う。振り返ってみれば、私も聞かれたことがあるのだ。中学の卒業遠足のとき、ディズニーランドに行った帰りに、女の子の三人組が電車の中で私に聞いてきたことを思い出した。私はそのときはそんなことに気づかず、ただ学校名を言っても詰まらないので簡単なクイズとして、M中学から距離的に一番近い高校だよ、と言った覚えがある。こんな好意を受けたことがあることに気づいたのは、それからずっとあとの回想の中であった。

その他、いまの私でさえ気づいていない好意を受けていたかもしれないが、私はなるべくそれをあまり良いように解釈してこなかった。良いように解釈していれば、確率的に私はいくらか仲良くなれた人がいたかもしれないのに、残念である。また私も、異性に対してあまり好意を示さなかった。なぜなら、囃されることを恐れたからである。また、好意を受け取ってもらえないことも恐れたのだろう。好意を示していれば、やはり確率的に私の好意を受けて仲良くなれた人がいたかもしれない。

私は、まあ外見に自信がなく、スポーツが得意ではなく、体型的にもやや太り気味といっていい感じだったので、あまり好かれないだろうと決めつけていた。私は実は高校のころ、学力テストでは一位を何度か取り、結果は全学に公表されていたので、学力の高いことに掛けては周りから知られており自信を持っていた。しかし、その自信は異性に対しては無力だと思っていた。最低でもなんらかの影響をいくらかの人に与えていたのだろうが、そんなことを思いもしなかった。

■現実を見失った私

他にもいくつかのエピソードがあるのだが、私の想像で補わなければならないことが多く、このままこれ以上のことを書くことは出来ない。また稿を改めて、想像で補っていることを断った上で書くかもしれないが、今回はここで終わりにしておく。

私は途中で現実を見失った。自分がどういう人間で他人からどう思われているのかを考え始めたのは中学一年のころからなのであるが、その頃は現実をどう受け止めるかが簡単であったし、いくつもの可能性について考えることもしなかった。しかし、中学の終わりごろから、現実が複雑になっていく。

私は中学のとき、自分がWさんを好きなのかどうか、当時あまりよく分かっていなかった。面白い人と親しくなりたい、と既成の回路で私は考えた。そしてまた新しい回路で、異性と親しくなりたいということは彼女のことが好きだということなのだろうか、と考えた。異性が絡むと話がややこしくなる。私自身の回路は単純だったのだが、外部から入ってくる情報は非常に面倒なものだった。

親しくなりたければ近づくのが良いのだが、いつしか私には、親しくなりたくても近づかない、という思考パターンが生まれていた。

中学の卒業遠足でディズニーランドに行ったとき、組になっていた女の子の一人がキオスクでプリッツを買い、近くにいた私の前にやってきて、私の前でプリッツのこれがおいしい、というようなことを言った。私は当時、彼女の行動に何かしら違和感を感じた。それは多分彼女の好意なのではないかと思った。彼女はたまたま自分の好みをなにげなく話しただけなのかもしれないが、当時の私は彼女の視線と話を、新しく出来つつあった回路を通して理解することを始めていた。

そして最終的に、私が高校に入ってから行った決意が、新しい回路を決定的にし、古い回路を捨て去ってしまうこととなってしまった。決意とは前述したとおり、異性から親しみと同時に軽んじられることを避けるため、はしゃがないように決めたことである。結果、異性と話すという行為が私の中で特別なものになってしまった。

余計ややこしくなることに、私の決意は二年次への進級により大幅に緩和させた。あくまで真面目にとの方針をやめ、中学の時の本来の性格を出すようにした。ただし、そう決めた時点で既に異性への意識は戻しようがなかったこともあり、私の自分への自己認識はこの頃に大幅に崩れてしまった。

それからの私は、私に関して聞こえてくる噂の全てが非現実的なものにしか思えなくなっていた。異性とは関係ない話を例として挙げるが、授業中に先生が生徒に問いを投げるときに、私に先生から三択の問題を答えるように問いが来たのだが、そのとき私は「3」と言ったつもりなのに、周りは私の口癖の一つと聞き違え「さあ」と答えたと思ったらしく、突然笑いの渦が起こった。先生の問いに「さあ」と答えるほどの度胸のある人間だと思われていたことに私は違和感を感じた。私はこの頃、自分の持つ自己イメージと、他人の持っている私のイメージとが、乖離していっているなと思った。そう思っていくと、だんだんうかつに行動を取ることが困難になっていった。結果として、自分をあまり当り障りのない人間だと思い込むようになり、その自己認識を元に行動を決めていった。

■現在の私

私は今も、現実を見失ったままである。

ただ、過去を振り返って意外だったのは、私はあまり異性へアプローチしなかったが、逆に異性からアプローチを受けていたことである。私は当時、自分は誰々に好意をもっているけど相手は自分には好意を持っていないだろう、と思っていた。ところが、まあ私も中学のころなら無意識に異性と話をしていたようだし、高校のときは個々人ではなくクラス全体に向かって話していたことはあったのでなんとも言えないのではあるが、自分が高校以降、異性に対してアプローチを試みた回数がかなり少ないことに気が付いた。

そこで、それからの私は、私が相手に好意を持ったらなるべくはっきりした形で相手に伝えることにした。相手のことを誉めたり、極端な例では「君の何々が好きだ」と言ったこともある。また詰まらない例だが、電車で外見の良い人を見かけたら、基本的にジロジロ見ることにし、多少気づかれても気にしないことにしている。そうやって相手に伝えることで、自分には何も返ってこないとしても、伝えるということ自体を目的とした。

職場の先輩が髪を切ったときに、
「あ、髪を切ったんですね。前よりいいんじゃないですか。…私がショートヘアが好きだというのもあるのですが」
と余計な一言二言を交えながらも言うようになったのは、私自身の良い変化だと自分では思っている。

ところが世の中はやっかいなもので、誉められるよりもけなされることを嬉しがる人が意外に多いので面倒である。そのあたりは本シリーズの「正と負のアプローチ」に大体のことを書いたのでそちらを参照していただきたい。私自身は、けなされることで好意を示されることにまだ違和感を感じる。多分そのとき私は「いじってもらっている」のだろうが、どうしてもそのときのリアクションの取り方を考えなければならないのである。

いやはや、理性の先行する人間は、色々と考えなければ最適な行動が導き出せないので大変なのである。

■次回予告?

私がいまからさらに枯れたら、当時の私の持っていたもう一つの現実を語ることが出来る日が来るだろう。しかし、このページを作っている間にそこまで枯れるかどうかは保証できないので、期待しないで待っていただきたい。


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