35. 超能力もの (1999/4/22, 23)


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最近友人が、とある少女漫画家と親しくなったみたいで、誕生日にサイン入りの単行本を貰っているのを知り驚いた。なんでもインターネット上のオセロのネットワーク対戦のコミュニティで知り合ったらしい。その少女漫画家の女性は、私や友人と同じ年なのにも関わらず、既に 10冊の単行本を出している。

で、いまのところの彼女の代表作が、超能力ものだった。そこで今回は超能力ものに関して書きたい。

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私が初めて超能力ものに出会ったのはいつだったか分からないが、とにかく覚えている限りでは、筒井康隆の『七瀬』シリーズだったと思う。まあそれ以前にテレビや漫画で見ているのかもしれないが、残念なことに覚えていないので、無かったことにする。

この『七瀬』シリーズ、最初はテレパス(人の思考を読み取る)を持つ七瀬という家事手伝いの女性が、仕事先の家庭での揉め事を傍観したり、騒動に巻き込まれながらも、家を転々としていく話であった。まるで市原悦子の「家政婦は見た」シリーズのようである。市原悦子は、家人同士の話を壁際で聞いてしまうのだが、七瀬は人の心を読めてしまうのだ。

七瀬は別に、家の騒動を解決しようとするのではなく、ただ自分の居場所を作るために自分を守ろうとするのだが、結局家を出なければならなくなる。ここでの流れは、七瀬は超能力を持っているがゆえに不幸な人生を送っており、普通の仕事が出来ないのか生に合わないのか忘れたが、とにかく自分には家事手伝いが一番平穏で良いと思っているのだった。

だが、このシリーズは話が進むに連れて、さらにシリアスになっていく。世の中には七瀬以外にも超能力者がいて、彼らも一人一人でひっそりと能力を隠して生きているという。偶然七瀬は、同じ超能力者に出会い、互いに身を守り合うことにする。しかしそれも、悪意を持った超能力者との戦いや、超能力者の存在そのものを否定する組織から命を狙われたりして、ひたすら逃げまくったあげくに殺されてしまう。

次に読んだのは、半村良の「岬一郎の抵抗」である。この作品はとにかく長い。現代にもし超能力者がいたらどうなるか、というテーマで綿密にシミュレートした作品である。

とにかくあまりに長いので流れだけを説明する。主人公は題名にもあるとおり岬一郎という青年で、彼が偶然超能力を持ってしまう。最初は能力を隠そうとするのだが、人を治療することが出来ることから周りにバレてしまい、ついにはマスコミが近所に殺到し、ついでに怪しい宗教団体までが集まり出し、世間の人々は彼を「神の再来」または「存在してはならない人間」だと考えるようになる。そうして孤立した彼は、その頃極限まで強くなっていたサイコキネシスで無敵になっていた。彼は故意ではないが能力の発現時に人を殺していることが明らかになるのだが、日本の法律では裁けないことが分かり、国は対応に困る。結局なんだかんだで国家や民衆から彼の存在は否定され、自衛隊までが出動されて彼を殺そうとするのだが、バリアがあるので当然不可能、結局彼は世の中に失望して自ら死を選ぶことになる。

二つの物語に共通して言えるのは、とにかく超能力なんてものを持ってもいいことは全くないよ、という結論である。この二つの作品が SF だからこそこのような結論が導き出されたのだろう。でなければ、主人公が超能力で事件を解決していく物語か、超能力を持った人間同士が戦いあうという安易な物語になっていただろう。まあそれでも面白ければ良いのだが。後者のタイプでは、少女漫画で「僕の地球を守って」(?)という物語があったが、これはこれで面白かった。

最近私が読んだ超能力ものは、のっけから「超能力を持ったところで不幸なだけ」で、最初から主人公とその相手役の男は不幸に見舞われている。私なんかは、上の二つの物語を読んでからも、いまだに「超能力が身についたらなあ」と単純に考えている。人の心は相変わらず読みたいと思うし、物を動かしたり透視したりしたいし、でも予知能力だけは勘弁してくれといったぐらいで、基本的には超能力は持てるものなら持った方がいいんじゃないかと思っている。

私はごくたまに、いまだにサイコキネシスが使えるようになる夢を見ることもある。これまでに一番印象的だった超能力関係の夢は、念じるとパチンコ玉程度のものを持ち上げることが出来る、というごくリアルなものである。せめて夢の中ぐらい、もっと大きなものを持ち上げてみたいと思うのだが、これがまた非常に現実的で、目が覚めたあともひょっとしたら超能力が使えるようになったのではないかと思うぐらいである。なんなのだろう。誰かに夢を分析してもらいたいぐらいである。

簡単に、私の最近読んだ超能力ものの少女漫画のあらすじを紹介する。

この物語は、まず超能力を持った男から始まる。その男が自然動物になつかれているのを、主人公が目撃して急接近、だが男は人の心を読んでしまう能力により人とは疎遠になっており、その主人公を避けてしまう。だが、主人公は心がピュアなことに気づき、男は主人公が自分の安らぎとなるのではないかと思いはじめる。だが、超能力者の近くにいると、普通の人までもが超能力を持ってしまうみたいなので、男は主人公にまで自分と同じような不幸な目に合わせたくないと思って別れてしまう。で、紆余曲折もありながら落ち着いていくのだが、色々な事件が起きたりして二人の仲は…と話は続いていく。

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まとめると、超能力を持つことは二つの意味でよくないことだということになる。一つは、社会的な意味である。つまり、世の中に突然超能力者という特別な人間が生まれたら、彼は他の人間よりも明らかに生存に適しているために、既存種から迫害を受けて滅ぼされてしまう、ということである。もう一つは、精神的な意味である。一番分かりやすいのは、自分の未来を知っても仕方が無いどころか不幸でさえあるということ。それから、人の本当の心を知ったところでしょうがないどころか不幸でさえあるということ。

それと、超能力ものの話というのは結局、ヒーロー&ヒロインものか、社会小説か、どちらかにしかなりようがないのではないかと私は思う。なぜなら、超能力を持った人間というのは、我々普通の人間では共感を抱きにくいこともあり、ただただ超能力を持った登場人物を崇拝または同情することしか出来ないのではないだろうか。だから、いくら人情物に仕立てようとしても結局は登場人物である超能力者がヒーロー&ヒロインにならざるをえなくなってしまう。そうなると、我々が超能力ものを愛読するには、やはり強烈に魅力的な登場人物に憧れて楽しむしかないことになる。

私が読んだ三つの作品の中で、どれが一番面白かったかといえば、一番最初に読んだ筒井康隆の「七瀬」シリーズである。このシリーズでは、圧倒的に主人公の七瀬が魅力的だった。私はこの作品を、筒井康隆の全集の中で読んだので、この作品が発表されたあとの反響に関する彼の文章も読んだのだが、やはりこの主人公七瀬の人気は圧倒的みたいで、この作品が掲載された雑誌に七瀬のイメージ画コンテストとイメージそっくりさんコンテストなるものまでが開かれたみたいである。

一方、三つの作品の中でもっとも重厚な作品であるはずの半村良「岬一郎の抵抗」は、確かに面白かったが、読み進むのに疲れるし、登場人物に魅力を感じることが出来なかったために、話の長さの割に覚えていることが少ない。この作品は、イエス・キリストは超能力者だったかもしれない、などの面白いテーマが綿密に描かれているのだが、私からすれば物語としての魅力には欠けているように思える。

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ところで話はがらりと変わるが、ノストラダムスの予言を信じている若者が大変多いらしい。前回の話題とも関係するが、酒鬼薔薇事件の少年Aも、どうせ 1999年の七の月に世界が滅びるからと信じていたようである。彼らは、ノストラダムスという一人の人間が予知能力を持っていたと信じているのである。笑えるし、恐ろしくもある。

ノストラダムス関係の法人というものがあるのはご存知だろうか。ノストラダムスなんたら協会とかいう名前の組織なのであるが、その組織が 2003年にノストラダムスの生誕500周年を祝う会を開く予定であるらしい。


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