25. カウンセリング (1999/3/6)


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最近仕事が忙しくて更新が出来なかった。そこで今回は、一気にたくさん書きたいと思う。テーマも、前から書こうと思っていたことである。

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私は心理学に関して素人だが知識はある。知識だけで言えば、カウンセラーにもなれるだろう。だが、知識だけではカウンセラーにはなれない。というか、逆に知識が無くてもカウンセラーになれる。

カウンセリングに一番必要なことは、悩みを持った人の話を本気で聞くことが出来るかどうかである。とユング派の心理学者河合隼雄は言っていた。

今回は結論から言ってしまったので、このあとの話の展開がどうなるか、書こうとしている私にもよく分からないが、とにかくそういうことなので、これから話を膨らませていくことにする。

なぜ人の話を本気で聞くことがカウンセラーにとって一番必要なのか。それは、単純に「悩める人は自分の悩みを打ち明けられる人を必要としている」からではない。極端なことを言うと、カウンセラーは患者(と言って良いのだろうか)の話を理解する必要はない。本気で聞いていればいい。それから、患者に適切なアドバイスをする必要もない。一緒に困るのもありである。問題の解決は、患者自身が出すので、カウンセラーが解決策を提供する必要はないばかりか、不要であるとさえ言える。

カウンセラーだとかセラピストというのは、世間一般のイメージからすると、人の心理のことは大体分かってしまうすごい専門職だと思われているかもしれないが、実際は全く違う。確かに知識は重要であり、かなり深刻な、病的な悩みを持つ患者に対しては、過去の症例を参考にしつつ理論を実践しなければならないこともあるだろう。だが、その場合でさえも、知識や理論が必ずしも必要であるわけではない。

現代人には心の病が多いが、昔の人はそんなに心を病んだ人はいなかった。これは事実である。現代人のストレスが心の病を生んだと考えることも自然であるが、もっと分かりやすく根本的な理由がある。それは、単に現代では相談者がいなくなったから、というものである。昔の社会では、いまと比べて家族というものがしっかりしていたし、家族を束ねる村がしっかりしていた。家族も大家族で多世代が同居していたので、一家に必ず老人がいたし、大人の数も多かったので、自分の好きな人に悩みを打ち明けたりできるし、悩んでいると誰かしら悩んでいる人を気に留めて話しを聞くはずである。ところがいまの時代は、家族も核家族化が進み、親と子だけしか普段は身内が側にいない。友人や学校の先生ともそんなに親しくはなく、むしろ自分の外界として扱い、決して自分の内面を打ち明けようとは思わない。

私の極論としては、ほとんどの心の病は、親しい人、愛を注いでくれる人がいさえすれば、発病しえないのである。

よく言われるのは、老人は無限の愛を孫に与える、といったことである。そんな老人を家族から切り離してしまった現代では、子供は老人からの愛を受け取ることが出来ずに、親からの「なんらかのしがらみのある愛」しか受け取ることが出来ないため、なにかの心の病を負ってしまう。たとえば、親なら子供に期待もするだろうし、子供の身を思うあまりに子供の意志を無視してしまうことがあるだろう。子供にとって親の愛が一番大きな愛だ、ということに異論がないとしても、その愛が万能であるというのは誤りである。

つまり、理想的なカウンセラーは、老人である。おしまい。面白くもなんともない結論である。カウンセラーになりたいという若者の意志をくじいてしまうだろう。

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面白くない真面目な話はさらに続く。次は、この私がいままでに見捨ててきた友人の話をしよう。

私はいままでに、少なくとも二人の、精神的にもろいところのある友人を見捨ててきた。そのうちの一人とは、もう五年も会っていないので時効だろう。彼について話すことにする。彼の名を仮にUとしておく。これを読んで、精神的に弱いところを持った人間を癒すことがいかに難しく面倒で大変であることを少しでも理解してもらいたい。

U君と会ったのは私が中学三年の時だった。彼は突然転校してきた。彼は非常に外向的な人間だった。それと、当時の私は、転校生と見ると自分のグループに引き入れたくなるような人間だったので、彼にもアプローチをかけた。多少の曲折がありつつも、彼は事実上私たちのグループに入った。性格の共通点もあったので自然な流れだろう。

Uの特徴は、まず転校元の学校が地方の私立中学だった。その学校は男子校で、ケンカとかがすごかったらしい。彼もケンカに強いと自分で言っていた。事実力が強いことは確認した。頭も良かった。これは模試の結果で分かった。河合塾のテストで、ある回の模試で国語の偏差値が 100 を超えて文字化けしているのを見せてもらったことがある。英語が苦手で足を引っ張っているので、総合するとそんなに出来すぎるわけではない。

Uは自信に満ちていた。私のグループに、彼より学力が高い人がいたので、その人には一目置いて競争心を燃やしていたが、私はそんなに学力が高くなかったので、私のことをふざけて馬鹿にしていた。もちろんそれはじゃれあいの形で、親密な間柄であって初めて成り立つことである。前にいた学校のケンカの話もよくしていた。向こうのケンカはすごかった、というようなことを言っていた。それから中学を卒業して高校に入ってからのことだが、女性に服を買ってあげた、とかいうことをさりげなく自慢げに話していたこともあった。真偽の方は確認できていないが。

私が彼に初めて何かの予感を感じたのは、私にとってはごくごくしょうもないある事件が発端である。私にとってはしょうもないことだったが、彼にとっては重要なことだったみたいである。先の段落で、彼より学力の高い人間の存在について触れたと思うが、この人物を仮にW君としよう。彼がこのW君について、学力面でちょっとした悪口をじゃれながら私に向かって喋ったことがあった。それは私と彼が下校途中の道で、当然W君はその場にはいなかった。彼は私に対しては他の人よりも親近感を持っていたと思われる。私はU君ともW君ともみんな同じように親近感を持っていた。それで、私は彼がいる前で、W君に「Uは君のこと…って言ってたよ」と言って、冗談の場を作った。よくある光景ではないかと思う。Uはそのとき笑いながら「そんなこと言ってないよー」とその場に加わっていた。だが、あとになって本気でむっとしているようだった。私と二人きりになったときに、不機嫌そうに言ってきた。曰く「裏切った」、そんなにどす黒い口調で彼が言ってきたわけではないのだが、彼はそれは冗談にはならないということを私に言いたかったのだろう。

その後、日はたって、あるときに私の家でみんなで遊ぶことになった。U君も来た。みんなで遊んでいたのだが、Uが私の弟のプラモデルをちょっとだけ壊してしまった。すぐにUは弟に誤って、弟もあっさり許したのだが、周りの友人が「かわいそー」と冗談で連呼しだした。これもよくある光景ではないかと思う。だが、U君にとってはシリアスな状況だったようである。彼は知らない間に私の家を抜け出し、友人たちは「あれ? Uは?」と言い出したが、いないならいないでどこか買い物に行ったのだろうという結論に達してそのまま遊びつづけた。しばらくしてUは帰ってきた。彼は私に「そこらへんを回ってきた」と言っていた。

彼の「自信に溢れながらもどこかコミカルなキャラクター」は、皆から好かれていたのであるが、本人にとっては時にシリアスなことになってしまうようである。当時の私は中学三年生で、彼のことを「ちょっと気が弱いのかな」としか思っていなかったのだが、いまになってみればいくつかの想像が出来る。以下は、私がそれから七年以上たち、心理学の本を色々と読んだあとの愚考である。

彼はどうやら父親とはうまくいっていないみたいであった。父親は慶大卒で某大手商社に勤めており、厳格な父親だったらしい。彼の学力が高いのも、そのような父親の影響を受けてのことだろう。彼の力が強いのも、父親の影響が強いのだろう。逆に、母親とは友達のように仲が良かったようである。

彼は武田信玄が好きだった。彼の父親は武田信玄に似ていると少し漏らしていたことがあった。そういうことから考えて、彼は父親に対してまさに「畏敬」を抱いていたのではないかと思う。

彼はWとの友人関係についてはいまいち踏み込めなかったようである。私が思うに、その理由は、Wの学力が高かったことだと思う。学力が高いということは、自分の父親にも近い人間になるので、距離感がつかめなかったのだろう。それに加え、W自体がつかみ所のない人間だったことも大きな理由ではないかと思う。我々は中学を卒業したら高校はバラバラになったのだが、その半年後か一年後くらいに私がUと会ったときに、Uは「W君に手紙を送ったよ。君らに送ったのとは違って真面目に、手紙の体裁を整えてね。そしたらちゃんと同じように丁寧に返事をくれたよ」と言った。当時の私は、それを聞いてなんとも思わなかったのだが、いま考えると何かが見えてくる。Uは私や友人たちとは違った視点でWを見ていたのだ。私や友人は、Wとは普通に友達だったことを思えば、彼がWに対して特別なものとして見ていたのは明らかに何かがある。

逆に、Uは私のことを、母親的に見ていたのではないか。五年たったいま、初めてそう思える。そして、私はあくまで私なので、他の友人とUがどのように付き合っていたのか良く分からないのだが、ひょっとするとUは他の友人とはそんなに仲が良くなかったのかもしれない。これは、彼が他の友人と仲が悪かったと言っているのではない。腹を割って話をするような友人ではなかった、ということである。

話を整理すると、Uは、Wを父親に見立て、私を母親に見立て、その他の友人を当たり障りのない友人として見ていたのではないか。そして、父親とうまくいかなかった彼は、母親や私との親密なコミュニケーションを、他の友人へと拡大していくことが出来なかったのではないか。

彼との別れは、私が久しぶりに、思い出したように彼の家に行ったときだった。会う約束もせずにいきなり私は彼の家に行った。運良く彼は家にいた。そこで互いに近況を話し合って、普通に別れた。帰り際、彼はこう言った。「帰っちゃうの?」。当時の私には、この言葉の重さが理解できなかったので、そのまま帰った。以後、彼には会っていない。

そしてそれから数ヶ月か数年がたって、たまたま彼の家を通りかかると、彼の母親と妹が、妹の友人たちの見送りに答えていた。家族でカナダに引っ越す見送りだった。彼一人が日本に残るそうだ。彼は当時他県の全寮制の高校に行っていたので、彼は家にはいなかった。

この話で私が何を言いたいのかと言うと、私は彼の友人として、彼にこれ以上親密に付き合いつづける気が無かったので、その結果として彼を見捨ててしまったことになったのではないか、と思ったことである。私は現在も中学時代の知り合いと四人くらい連絡をとっているのだが、彼はその中には入らなかった。それは多分彼が他県の全寮制の高校に行ってしまったことが大きいと思う。それから、これは案外重要なことだと思うのだが、彼のように学力もあり力もあり自信に満ちている人間と、対等に親しい友人でいることは本来大変難しいことである。自分の能力を自慢する人間と言うのは、どこか自分に大きな不安を持っているものであるから、ことさら自分の自慢をして自分を保とうとするものである。そんな人間と付き合える人間は、母親か、純真な子供か、老人のような枯れた精神構造を持っている人ぐらいだと私は思う。私は当時、子供と老人を足したような性格をしていて、彼とは普通に親しく付き合えたのだが、それでも心の奥では彼と付き合うことが何らかの重荷になっていたかもしれない。

ここまで書いていきなり「この話はフィクションです」とか言ったら、私のホームページの掲示板が荒らされるかもしれないので、さすがにそこまでは言わないが、この話には私の主観が混じりすぎているので、そのまま鵜呑みにはしないでほしい。私がさらに年輪を重ねるに従って、別の解釈が出来るようになるかもしれないし、なにより真相は誰にもわからないからである。

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この文章のこの個所を書き上げているのは、仕事がかなり忙しい中での休日出勤の出先の PC である。もう少し時間があると思うが、話題の方もきりがいいので、このへんで切り上げることにする。次回はコンプレックスあたりについて書こうと思う。


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