24. 死刑 (1999/2/16)


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弟の知り合いで、浪人とか留年とかそこそこやっているテレビ好きの人が、いきなりぼそりとこう言ったそうである。「ここが変だよ日本人、っていう番組、マジで面白いよ」。その話を弟から聞いた私は、早速見ることにした。面白い。水曜午後十時からだったと思う。TBS 系列だった気がするが、よく覚えていない。

それはともかく、その番組では世界各国の人々を招いて、活発に話し合いをさせて、これこれこういうことには賛成だとか、絶対に反対だとか、日本に関わりのある話を世界レベルで話しあったりする。もちろん、穏便な話し合いには絶対にならない。しまいには皆が声を大きく自分の主張を言うことになる。たとえば、スウェーデンのように性教育は幼少のころから行っておくべきか、だとか、死刑はあったほうが良いかなくした方が良いか、だとかである。それぞれの国の文化とかが分かったりして面白いが、それ以上に、色々と好き勝手なことを言う個々の人が面白い。日本人のゲストとか司会者も彼らに突っ込んだりする。

ところで、あなたは死刑についてはどう思うだろうか。

死刑について賛成の人は、大きく以下のような意見を持っている。まず第一に、犯罪に対する抑止力としてである。死刑がなければ、いくら人を殺したところで自分は捕まるだけで済む。死刑があれば、大抵の人は自分は死にたくはないので、人を殺すことをためらう。続いて第二に、贖罪としてである。自分の命をもって罪を償わなければならない、といった倫理的な意味がある。

死刑について反対の人は、大きく以下のような意見を持っている。まず第一に、人の手で人を裁けるのか、といった幾分倫理的・宗教的なこと。第二に、死をもってしてしか償えない罪は存在しない、人はいつか必ず許されるのだ、といったこれまた倫理的・宗教的なもの。第三に、死刑は一瞬にして終わってしまうので、犯した罪の重さを受刑者が感じることなく死んでしまうのはおかしい、残された遺族のために一生尽くすべきだ、といったことである。

私は、死刑には賛成である。私の考え方は、上の中のどれに一番近いかといえば、やはり抑止力としての死刑が必要だと思う。だが、死刑についての私の考え方として一番大きいものは、社会に関することである。社会が死刑という仕組みを必要としているわけだから、社会にとっての死刑とは何かを考える必要があるのではないか。そうなると、死刑が社会に果たす役割は、もちろん抑止力つまり犯罪を少なくさせることに効果があるほか、人を殺すような反社会的な人間を社会から排除するという目的があるのではないかと思われる。

なぜここで「社会」という言葉をことさらに強調するのかというと、もしここで社会というものを強調しなければ「人を殺すような人間は存在してはならない」と声高に主張していることになってしまうからである。そうなると、人間が人間を判断していることになり、傲慢であり勝手であるように思う。いや、私は実はそうは思わないのだが、一部の人道主義者は確実にそう思うはずである。だから私は「社会」という便利な言葉を使ったわけである。社会は、人間が人間のために作ったものであるから、人間の論理がすべてである。その社会に存在してはならない人間、は自分たちで決める。

ついでに言えば、人を殺すような人間は、人殺しをする人間だけの社会に放り込むべきであると私は思う。そうすれば、彼らは同種の人間同士でうまくやっていけるはずである。人を殺すことを何とも思わないくせに自分の命だけは惜しい人間は、その社会で自分の命が危機にさらされていることを知って恐怖するか反省するかするだろう。逆に、人を殺すことも自分が殺されることも何とも思わない人間は、その世界で少なくとも「人を殺すこと」に関しては自由に生きられて、幸せな一生を送るだろう。その一生はそんなに長くはないだろうが。

私の言いたいことはこうである。人間は、自分たちが生きていくために、動物や植物を殺して生きていかなくてはいけないし、みずからそれを知っている。それを「人間は罪深き生き物である」という宗教もある。しかし結局大抵の社会や宗教では、動物を殺して食べることを許している。それなのに、人間が自分たちの成員の中で、自分たち自身に害をなす人間を殺すことを躊躇するのはどういうことだろうか。私に言わせれば、さっさと殺してしまうべきだと思う。

もちろん、冤罪というケースもある。冤罪もありうることを考えて、死刑反対を唱える人もいる。私に言わせれば、冤罪であることを恐れて死刑を行わないことの方が危険である。裁判さえ正確に行われれば、冤罪なんて数えるほどしか起こらないはずである。もし「証拠不十分」といった理由で無罪放免された殺人犯が、再犯する危険は高い。私はそのあたりの詳しいことは知らないので、無罪だった人間が再犯で殺人を犯した事例がどの程度あるのかは知らない。案外少ないのかもしれない。少なくとも冤罪に関しては、ある程度やむをえない、バランスの上で成り立たせることが大切だと思う。倫理よりも自分たちの社会を守ることを優先すべきであると私は思う。


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gomi@din.or.jp