159. 振り返り1 (2007/5/27)


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昔書いたものは捨ててしまいたくなると告白する作家が多い。その気持ちはとてもよく分かる。だが改めて書き加えたいことや、ここは違っていたと反省してみたりするのも悪くないのではないだろうか。

そんなわけで今回は昔書いたものを要約した上で、当時の背景や補足や追加や時に自己弁護をして勝手に満足したい。

■1. VAIO PCG-737 (1998/11/16)

この回はソニーのノートパソコンについて書いている。まとまった金が入って初めてノートパソコンを買った嬉しさと、良いものを選んだんだと思いたい自己肯定的な動機で書いた。

最近爆発騒ぎで話題になったソニーのバッテリーは、この頃から使われ始めたのではないだろうか。私が買ったこのマシンは、他社製と比べてバッテリーの持ち時間が長かった。それが決め手というわけではないが、当時まがりなりにも五時間という長時間を誇るバッテリー性能はなかったと思う。まあ憶測なので鵜呑みにしないでほしい。

当時はハードディスクが2GBしかなかった。同価格で4Gのモデルが出たことに腹を立てた。結構しょうもないことにムキになっていたものだが、当時は結構切実だった。いまは80GBが一万円で手に入る。160GBなんていう製品もある。

ちなみに今の私はノートブックパソコンを持っていないし、欲しいと思わなくもなった。持ち運ぶ需要がない。最近は企業のセキュリティが厳しくなり、オフィスに私物のノートパソコンを持ち込むことは考えられなくなった。このマシンはそれから仕事でとある百貨店のマシンルームに持って行ってつなげて作業するなんてこともあった。アンチウィルスソフトなんて入っていなかった。いまではありえない。

■2. 正と負のアプローチ (1998/11/17)

憎まれ口をたたきあう関係について分析した話。題は、正が相手を褒めたり尊重したりする方向、負が相手をけなしたり馬鹿にしたりする方向で、アプローチが接し方という意味で付けた。

普通に社会で生きていると、憎まれ口を叩き合うやりとりは当たり前のようにある。今で言えば「いじる」という行為がそうだ。そういう当たり前のことを真剣に解説している。理論的なことを面白がる人に楽しんでもらえたらいいなと思って書いた。

どっちのタイプのコミュニケーション手段が良いとは言っていない。多分私は正の方に偏りすぎていて、友達になったかもしれない人を沢山スルーしてきたと思う。言葉や態度の表層だけでなく、感じたままに付き合っていればよかったのかもしれない。ただ、友達が沢山出来ればそれでいいというわけではなく、そんな自分の性格の上で出来た友達を大切にし、自分の個性ともどもいとしく思えれば良いのではないか。

■3. テレビ (1998/11/18)

人間が沢山集まると自然に役割分担が出来上がるという理論から、自分たちの身の回りに面白い人が少ない理由をテレビのせいだと断じた話。

テレビの害についてよく語られる論として、テレビが受身の人間を作ってしまうという話がある。垂れ流される情報をひたすら受け取るだけなので、ずっと観ているとコミュニケーションのできない子供を生むとかなんとか言うアレである。だがずっとテレビばかり見ているわけではないだろう。テレビの悪影響というのは別のところにあるのではないかと思い、じゃあ他に何が考えられるかと考えたとき、ふと集団での役割分担が絡んでいるのではないかと思ったのだ。

しかし正直ちょっと無理があったような気もする。私がまず思いついたのは、「素人はテレビの中の芸人より面白くはなれない」ということで、芸人のお笑いを見て耳目の肥えた人々の間では素人の面白い人はいなくなってしまうからではないか、という仮説だった。一昔前だったらちょっとした変わり者として面白がられた人が、今ではサムい人になってしまうのである。だが、面白いことをやろうとするかどうかはどちらかというと本人の意志の問題だろうと思ったので、そちらの方向に思索を持っていった。ちょうどこじつけられる精神分析学関係の話とリーダーシップ論みたいなものがあったので、テレビとは離れてそっちの話に熱中した。

■4. アニメ (1998/11/19)

エヴァンゲリオンで有名なガイナックスの作品を主に批評した回。

ダラダラ書いているが、一言で言えば「キャラ萌えだけではダメ」ってこと。一人で作る小説や絵画やマンガなどの芸術が統一感を持っているのに対して、複数の人々で作るアニメやテレビや映画などの芸術には統一感がなく、どうしても断片断片で見せるようになってしまう。それが如実に出ているのがキャラ萌えだ。いい言葉が出来たものである。キャラ萌えとは、魅力的な登場人物を味わう感性のことである。キャラ萌え自体はとてもいいことなのだが、それが極端になると作品の物語は極端な話どうでもよくなってくる。テレビドラマが出演俳優で左右される傾向との相似性も指摘している。

まあでもなんだかんだでガイナックスのアニメには楽しませてもらった。

■5. 女性の真実 (1998/11/22,23)

「モテない女」と「イケてる女」のそれぞれの真実とやらを分かった気になって語っている回。

前半は、我々の身辺でも雑誌やテレビの中でもなかなか語られない、モテない女について考察している。モテない男の話は腐るほどあるのに、どうしてモテない女の話はなかなか見当たらないのか。それは簡単に言うと女性の社会的な地位が低いからである。要は男にとって価値のない存在は無視されているってわけだ。

後半はうってかわって、イケてる女というものがどのように作られるのかについて考察している。イケてる女はとにかく崇拝の対象となるため、その成り立ちについてのあけすけな分析はなかなか行われない。

こういうあまり目のつけられない視点から考察をするのがこのページのウリのつもりである。

■6. 週刊誌 (1998/11/25)

週刊誌を読むことを勧めた回。

日本の新聞は以下の点でダメである。

  1. 取材源が発表するものを垂れ流すだけ。下手をすれば提灯記事。
  2. 無記名の記事が多く、独自の視点が少ない。客観的事実に見せかけすぎ。
  3. 左翼的な新聞が多い。逆に産経はアメリカ従属気味の右翼で、どれも思想的に自立していない。
  4. 自主規制している。踏み込んだ記事が掲載されない。
  5. 面白くない連載が多い。
私が愛読している週刊文春は、上記の点は少なく、非常に読み応えがある。毎週欠かさず読んでいる。

本当はこの回はもっと色々なことを書く予定だったが、書き始めてみるとあまり気乗りしなかったので、最低限のことをまとめて切り上げた。正直週刊誌の魅力をあまり十分には伝えていないと思う。もっと具体的に面白かった記事を紹介していればよかった。

新聞ってのは少なからず政治的な影響を受けるものなので、新聞はダメだなんていう言い分はちょっとナイーブだったかもしれない。

■7. よこぎき (1998/11/26)

電車の中で横聞きした二人の女子専門学校生の会話をそのまま紹介した回。

このページの主要なテーマの一つとして、個人個人が持つ秘密について語ろう、というのがある。人の数だけプライベートが存在する。その多くはつまらないものだが、どんな出版物でも叶わないような非常に面白い話を誰もが持っている。また、その人にとっては当たり前のことだが、他の人からすれば興味深いような話ならいくらでもある。そういうのを生々しく切り取ってみた。だが当時は多分何をしたかったのかよく分かっていなかったのだと思う。

■8. ニューロンと意思と神 (1998/11/29)

人間の意思や深層心理を数学で説明してしまおうという野心的な表明の第一弾。

現に認知心理学という分野は工学として広く認められている。認められているというと異議を挟みたくなる人もいると思う。あまりに分野が広がりすぎて収拾がついていないと思う。それは科学的にしっかりやるとそうならざるをえないのでしょうがない。だがここはむしろ、怪しくてもいいから統一理論のようなものが必要ではないかと私は考えた。フロイトの心理学は科学として認められていないが、理論として世の中に広く受け入れられ、多大なものに影響を与えた。今の世の中、真面目で優秀な科学者は沢山いるのだが、現代のフロイトのようなピエロを引き受ける人がいないために、色々なものが放置されっぱなしになっているように思えてならない。私のような無名で無知な人間でも、ネットの片隅で発信しつづけていればピエロ出現のタネを蒔けるんじゃないかと思ってこのシリーズを書いた。逆に言うと、この回で私が自信満々に論じていることには、科学的な根拠は無い。

■9. パソコン (1998/12/2)

いまでこそパソコンはインターネット端末としての役割があるものの、それ以前はゲームをやりたいがためというのがほとんどで、目的を持って使っている人が少なかったという話。

大きく分けて、私の周りにいた三人の人がどのようにパソコンを使っていたか、そして家電メーカーがようやくパソコンの使い道として一定の評価が出来る売り方を始めたという話で構成されている。

いまは携帯電話が高機能化していっているので、再びパソコンの地位が危なくなる可能性も考えられる。

■10. カオス (1998/12/4)

人間の意思や深層心理を数学で説明してしまおうというシリーズの土台となるカオスという概念についての基礎的な説明。他の本を読んだほうが早い、特に私があえて書くまでも無かった話。

■11. 自作機と凝縮性 (1998/12/5)

自作パソコンを作ろうかな、で丸々一回引っ張っただけの回。二つの私の性癖、凝縮されたものや廃品利用を愛しく思う気持ちについて語っている。当時のAMD K-2などの自作パソコン周りの状況についての記録にもなっている。

■12. アイドル (1998/12/8)

人々がアイドルに求めるものが絶対神聖性ではなく自己の代理になってきている現象について語った回。

のっけからSPEEDのことをSPPEDと間違って書いていて笑える。なおさない。

いまのグラビアアイドルのお笑い進出のきざしが見えていた頃だったのでそのことに少し触れている。

■13. マイナー (1998/12/10,11)

知らない人や親しくない人を相手に無条件で話題に出来るものをメジャー、人を選ぶものをマイナーと勝手に呼び、マイナーなものを好むことの愛しさを語っている回。内容が散漫でまとまりがなく、結局感傷で終わっている。

■14. VAIO PCG-737/5G/128 (1998/12/16)

ソニーのノートパソコンのハードディスクを容量の大きいものに交換した話。それだけ。あえて言うなら当時のノートパソコンの事情についての記述がある。

■15. 投資せよ (1998/12/19)

資産運用の話と思いきや、お金を使いましょうという話。よくお金はとっとけと言われるが、若い頃の十万円は、年をとってからの百万円よりも価値がある。また、仕事が忙しくて家に帰ってテレビ見て寝るだけなら、テレビとベッドのいいものを買うことを勧めている。ここでは特にウォーターベッドを勧めているが、今だとジェルベッドにすればメンテナンスが楽なようである。テレビも今は大画面のものが安くなってきて欲しい人は多いだろう。

■16. 犬型人間と猫型人間 (1998/12/24)

人間を二つに分類する話。犬型人間が作る階層は、堅苦しい上下関係かというとそうでもない。なんでも一人で出来る人間ってのはそれはそれで寂しいし、人から教えてもらって到達できる高みに立つ喜びと、それをあとの世代に伝えるやりがい。もちろんしがらみとかいじめとか負の側面もあるのだけれど。

本音を言うと、かわいい女の子の後輩を指導してみたかっただけかもしれない。

■17. さまざまな順位 (1999/1/2)

ノートパソコンの製造元の順位、メーカーの順位、国の順位について語っている。それぞれ良いところも悪いところもある、なんていう優等生的な考え方もあるけど、あえて順位をつけるっていうのが面白いのだと思う。

■18. リアルタイムストラテジーゲーム (1999/1/8)

リアルタイムストラテジーゲームというコンピュータゲームのジャンルについて説明しただけの回。将棋を先手後手一コマずつでなくリアルタイムに全部のコマを動かしたらどうなるか、などとくだらない説明をしている。

ところで、最後に触れている AGE of EMPIRES というゲームについて、コンピュータの AI を作って対戦したときの話を 156. AIウォーズで書いた。

■19. 超自作マシン (1999/1/15)

私が初めてパソコンを組み立てたときの話。こういう話は、これといって優れた視点や鋭い分析があるわけでもなく、むしろ何も知らないところから適当にやってみる一種の無謀さとか適当さがいいのだと思う。当時愛読していたPC-DIY誌などの記事も、一番面白かったのは記者が自分の信念とか思い込みのようなもので適当こいてパーツを選んで時々失敗したりしたのをそのまま書いていたことだった。いま適当に雑誌やウェブマガジンを漁ってみても、書いている人の顔が見えるような文章が少なくて面白くない。ASCIIのアキバ系のページとかに時々載っているか。

■20. パーツ (1999/1/22)

前回の続きで、各パーツに焦点をあてて解説している。七年前のパソコンパーツ事情が分かる資料的な意味が出てくるとは思わなかった。実のところ、割とトンチンカンなことを書いていたりもするけど、そういうのも含めて書いておいて良かったと思う。

■21. メガミックス (1999/1/29)

この回は芸術論の一種で、まだ考えが整理できていない段階で書いているので、とりあえずメガミックスというDJ用語を使って現在の多くの芸術について説明している。言葉を変えると「モザイク」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。もう一つの軸が、芸術とは基本的に一人で作るものだという主張で、ドラゴンクエストを作った堀井雄二やガンダムを作った富野監督の例を挙げている。一方で、ファイナルファンタジー7は大勢の人間の手によって作られた作品のようだが、一種の集団的無意識のような白昼夢が不思議な魅力を出していると述べた。

■22. 死への欲望 (1999/2/8)

フロイトが晩年ごろに提唱しだした「死への欲望」について私なりに考察している。話が転々としてまとまりがないが、

  1. 人間が時に自らを犠牲にするのは文化的な欲求であって欲望ではない。
  2. 種としての生物にとって死とは存続上不可欠である。
  3. もっとも広義な意志とは結果である。つまり必ず死を迎える人間には、死への意志がある。
と話を転々とさせたあげく、なんだ性行為を成り立たせるためにあるんじゃないの、と言って結んでいる。

この回で一番重要なのは実は上の3だ。人間がなぜ意志を持つのかという問題について考える私なりの序章となっている。

■23. 電気街 (1999/2/10, 12)

自分でもあきれるぐらい雑文。電気街に関係する話題だけ集めてみた。

雑文を馬鹿にするわけではないが、人に読ませる以上はテーマを絞り、題を見て興味を持ってくれた人に少なくとも時間の無駄と思われないくらいの内容を込めるべきだと思う。私は日記サイトが嫌いだけど、方向性がはっきりしていて主題通りの内容のものは良いと思う。たまにサーチエンジンで自分の期待する内容っぽいページに飛んで、読んでみたら中身が全然違っているというのが一番腹が立つ。

■24. 死刑 (1999/2/16)

人殺しなんて殺しちゃえ、と過激なことを言っている回。冤罪でも多少は仕方がないと極論している。

ただ、ここで謙虚になってもう一度考えてみると、いま現在残っている文明や文化や宗教や社会を見回すと、死刑に対して微妙なバランスが成り立っているように思う。現に目には目を歯には歯をのハムラビ法典で有名なバビロンだったかは滅びていて、この文明を継承して現存する文明はないかあっても細っている。

ところで、子供に人殺しはよくないと教えるにはどうしたらいいか、というテーマをどこぞのメーリングリストで議論したことがあり、私は「自分が殺されたくなければ人殺しはやめよう」と教えるべきだと言ったところ、東大卒の医学生が「子供に理屈で教えるのは効果が薄いから絶対的に言い聞かせるべし」みたいなことを言っていた。その通りだと思った。話は違うが、我々が生きている社会で何が一番殺人を抑止しているのかというと、結局「化けて出る」のを恐れていることだと思う。

■25. カウンセリング (1999/3/6)

前半は精神医学について聞きかじったことを自信満々に語っていて、後半は私の実体験、かつての友人との話をしている。「大学に入ったら心理学を勉強してみたい」というよくある話に対して、そんなにうまいこと人の心は読めないし大変だよ、と自分のことを棚に上げて語っている。

この回で私は自分の過去の友人について実にあけすけに語っているが、世に公刊される出版物にはここまではっきり書いたものは芸能人の暴露本ぐらいしかないんじゃないだろうか。本当は良くないことだと分かっているつもりなのだけど、出来れば私は色んな人のこういう暴露話を聞いてみたい。精神科医は守秘義務があるから書いてくれないし。


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gomi@din.or.jp