158. 虚構の間違った作り方 (2007/5/20)


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いろいろと小説やマンガを読んだりテレビや映画やアニメを見ると、中にはとても面白くて感動するものもあれば、つまらなくて失望させられたりするものもある。世の中が面白いものばかりだったら良いのだが、作者だって面白くしたくて作ったのに、どこか間違えてしまってつまらなくなってしまう。

そもそも人が何を面白いと感じるのかという問題は置いておいて、今回は私なりにつまらない作品の問題点を抽出し、どうしたら問題点を取り除けるのかというなるべく建設的な方向で話をしていきたい。

■実体験の欠如と安直さ

他人の作品をあげつらう前に、まずは自分が過去に犯した失敗から見ていきたい。学生の頃に書いた小説らしきものをツライのを我慢して読んでみたところ、批評する以前のレベルだったのでいちいち書いていられないのだが、中にはプロも犯すような間違いもあったのでまずそれから行く。

師匠のもとを離れて別のところに旅立つ青年が、旅立つ前に師匠と飲み交わすシーンというのがあった。私はそれをとても和やかな雰囲気で描いていた。こんなことはほとんどありえない。自分の身に置き換えてみればよく分かる。青年というのは自信過剰なもので、もう自分はとっくに一人前だと思うものだ。優等生的な青年とか育ちの良い青年ならともかく、普通の青年なら親や先生といったものになんらかの感謝の意を表すことすら難しいはずだ。

あと、親元で暮らしていた当時高校生の私が、親や先生からの自立を描くこと自体に問題がある。つまり経験の欠如だ。虚構というものは必ずしも実体験に基づく必要はない。だったらせめて映画を見るとかして十分な仮想体験をしておけばいいのに、それさえやっていないまたは大して考えていなかったからこうなる。分からないことは調べればいいのだ。

それから、大人同士の別れには酒がつきものだというステレオタイプがある。引き出しの少ない人間だと、必ずこういう安直な考えで話を作ってしまう。しかも、別れというものは名残惜しいものだとこれまた一本調子で考えてしまう。成熟した大人同士の別れのイメージを、青年と師匠という全く異なる関係に持ち込んでおかしいと思わないのだ。

■都合の良さ

愉快痛快な物語を作ろうと思ったら、主人公が困難を乗り越えて成功しなければならない。その困難の壁が高ければ高いほど、乗り越えることによる快感が大きくなる。ところがあまりにやすやすと困難を乗り越えてしまうと、都合の良すぎることに対してつまらなさを感じてしまう。かといってあまりに現実的にやりすぎると、全然ドラマチックさがない平凡な話になってしまう。

虚構なのだから現実的だったらつまらないのは当たり前だ。だからこそ、主人公がすごい力を持っていたり、ありえないぐらいの運に恵まれたりして、最終的に物事がうまくいって客が喜ぶ。どこまでやりすぎたら客がシラケてしまうのか、はっきりした線引きは可能なのだろうか。

一番危険なのは、マヌケな敵を出す場合だと思う。敵のほうから勝手に自滅してくれるという状況はとても面白いのだが、それだけ都合が良すぎると客が引いてしまうリスクが高くなる。ギャグとして割り切ってはっきり線引きするといいかもしれない。

ここで一つ述べておきたいことがある。作り話というのは現実感があればあるほど良いわけではない。人が楽しむものなのだから、人にとって受け入れやすいものであることが重要なのだ。たとえば昔から語り継がれてきた神話や民話はまったく現実的でない。しかしそこに人間や物事の本質がある。だから、人に受け入れられる都合の良さと受け入れられない都合の良さがあるのではないかと思う。

人に受け入れられない都合の良さとはどんなものなのだろうか。私がこれまでに鑑賞してきた作品を見てみると、やたらリアルな設定の割に主人公が調子よく困難を潜り抜けていくような作品にシラケたように思う。リアルな設定ならあくまでリアルに徹して渋い話にし、都合の良い話ならあまりディテールにこだわらずに夢物語にしてしまうほうが良いのではないだろうか。

■コミュニケーションの甘さ

人がどんなことを考えているかなんて普通分からないものだ。ところが出来の悪い作り話には、互いになんでもかんでも分かっているように会話をする登場人物たちが出てくることがある。どうしてこんなことになるのだろうか。あんまり他人と話をしない人が作っているからだろうか。

一番ひどいパターンは、互いになんでも分かっているから言葉も省略してしまうような会話だ。あれはどうだとか、これは例の通りに進んでいるだとか、いかにも裏で都合よくコトが進んでいるかのように見せる演出もあるのだろう。気持ち悪い。ちょっと横で聞いてしまった他人のなんでもない一言から被害妄想してしまう神経質な人間を思わせる。

ただ、独立した二人の人間の対話以外の対話というものが物語にはある。私は演劇論みたいなものを全然知らないのだが、例えば一人の人間の二つの側面がそれぞれ人格となって作られた人物同士の対話によって一人の人間の葛藤を表現するとか、物語の進行をテンポ良くするために一人が語るのではなく二人で調子よく会話するようないわゆる狂言回しみたいなものがあるだろう。

だから、会話シーンを作るときはそれぞれの登場人物の性格とかスタンスの違いをちゃんと把握しておくとか、こいつとこいつは表と裏だからわざと戦わせるとか、こいつらには人格を用意せず説明だけさせるとか象徴として存在させるだけにするとか、はっきりと区分けしてしゃべらせるのが良いのではないかと思う。

■実体験と仮想体験

実体験に根ざした物語と、仮想体験に根ざした物語、どちらが物語として優れているだろうか。

登山家の野口健が日本テレビ「行列のできる法律相談所」に出演して自分の実体験を語っていたのを聞いたのだが、あまりに飄々としていてこれでは登山の物語の参考にならないと思った。生きて帰る気力を呼び起こすために女性の香水を持ち歩いているだとか、普通の人にとっては極限の状況でも淡々としている様子だとか、全然リアリスティックな感じがしないのだ。英語で言うと、リアルとリアリスティックは別物なのだ。

だから、作り話としては素人がプロに取材して作った話が一番優れていると私は思う。そこには素人にとってのリアルさがある。一方で、プロが実体験に基づいて作った話も面白いと思う。普通の人との感覚の隔たりが面白いのだと思う。

ただ、自分が描きたいと思うテーマのようなものは、ちゃんと自分で体験したものでないと厳しいように思う。とはいっても、実体験そのものをそのままの形で描くのではなく、何かに重ねて描くのが普通だろう。皆に伝わりやすいものに託して伝える。

たとえば恋愛モノを作る場合、自分がどのくらい恋愛の実体験を重ねたのかは重要ではなく、片思いでも物語の中でもいいから自分が恋愛のどこに気持ちが高ぶるのかを見つめ、その自分の気持ちを何か分かりやすい形で表現することが重要なのだと思う。キューティーハニーなどの作品で今も根強い人気を誇るHなマンガ家・永井豪があれだけ魅力的な女性が描けたのは、彼が童貞であったからと考えられていて、SF作家の筒井康隆らが彼の童貞を守る会を結成したほどだ。

■女キャラ

私は男なので女の描かれ方について語る。

まず事実から言うと、男性作家の描く女と女性作家の描く女にはどうしても違いが出来てしまう。これは仕方が無いことだと思う。ただ、男の私から見て驚くほどリアルな男を描く女性作家がいるし、女性作家が描く女にかなり近い女を描く男性作家もいる。なんにせよ、リアルであれば良いわけではないと思う。

特に少年誌や青年誌や少女漫画にはあまりリアルな異性が出てこない。優れた虚構にリアルさは不要だという一つの大きな例だろう。

私から見てこの女キャラはナシだなと思うのは、あまりに狙いすぎで引いてしまうキャラと、中途半端にリアルを志向しているのにおいしいところだけ都合よく作られたキャラだろうか。異性キャラというのは自分の幻想を投影する対象なので扱いが難しいのだ。だから、あまりに都合の良すぎるキャラだと、心地よく幻想を楽しむことが出来ないのだと思う。

たとえば、若い女性から褒められると男は嬉しいものである。しかし、際限なく褒められ続けるとさすがにおかしいと思うようになる。おせじにも程よさというものが必要なのは、それがたとえウソとはいえ現実と結びついているからだろう。

どんなに空想的な男でも、女に対して感じる魅力のおおもとには現実の女がいると私は信じている。二次元の女にしか欲情しないオタクでもだ。ちょっと前から流行っている「ツンデレ」という女キャラの性格類型は、普段はツンツンしているのに好きな人の前でデレデレすることを言うのだが、そのツンツンの部分が現実と結びついておりデレデレのほうが心地よい幻想と結びついているからこんなにも受け入れられたのだと思う。

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最初の話以外は具体性に欠ける抽象的な話になってしまったため分かりにくかったかもしれない。急に書き出したのでこうならざるをえなかったが、今度は作品を一つ一つ楽しむたびにメモっておいてもっと具体的なことを書いてみたい。


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gomi@din.or.jp