114. 天皇 (2001/11/14)


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最近、阿川弘之の本を読んでいたら、この人の天皇についての考え方に改めて考えさせられるところがあったので、今回は天皇について書くことにする。

ところで阿川弘之というと阿川佐和子の父親である。阿川佐和子とは、ビートたけしのお気に入りなのかどうか知らないが、よくたけしと一緒にテレビ出演しているたぶん作家である。結構年をとっているようなのだが、外見と性格が若くていまだ独身だそうである。明るい女子アナが知的に無邪気に老けたらああなるのだろう。

■タブーか?

天皇について述べた文章はあまり多くないように思う。天皇について話すと、現代なのにいまだに君主がいるのは変だとか、逆に日本の王様なんだから敬うのは当然だとか、大体意見が二つに分かれる。

日本の知識人と呼ばれる人々、つまり色々な雑誌やメディアで自分の考えを話して金をもらっている人々のことだが、彼らの中の多くは天皇の存在自体を否定あるいは無視しているように思える。これはよく言われることなので私だけの思いではない。

一方、全体から見れば少しなのだが、天皇を敬う人々もいる。ほんとうに少しなので、普通に新聞を読んだりテレビを見ていると、ほとんど彼らを見かけることが出来ない。

一応、テレビのニュースキャスターは、天皇のことをちゃんと天皇陛下と呼び、その行動や言動に対して適切な敬語でもって表現しようと試みているようである。我々が持っている憲法には、ちゃんと天皇が日本の象徴であると書かれてあり、つまり天皇が日本の君主なのだから、これに反することは憲法違反と言えなくもない。

つまり、天皇について述べるときは、客観的に研究などの対象とするのでない限り、日本の君主としての扱いをしなければならない。だから、天皇を敬いたくない人々は、天皇について何か述べることを避けているのではないか。

私は戦後も戦後、戦後三十年以上たってから生まれた人間なせいか、天皇をめぐる人々のさまざまな感情が実際のところよく理解できない。

■私の天皇観の変遷

私が物心ついたときには、日本に君主がいることを変に思っていた。物語の世界には王様がいて王家がいて当然だったのに、現代の日本に王様や王家があるのは不思議だと感じた。これは多分無知から来るものなのだろう。アメリカやソビエトや中国やフランスなどには現在王様がいないのだが、少なくともイギリスにはいる。アジアに目を向けると、タイにもいる。

私が次に思ったのは、天皇なんていらないから皇居を壊して家を建てた方がいいのではないか、という考え方である。よく分からないが私のこのような考え方は、首都圏の住宅難についての意識から来ており、私が中学高校生のころからあった。多分、私が弟と相部屋で住んでいて、なぜ一人一人の部屋を持てないのか、といった身近で些細なことから、住宅難そして皇居について考えたのだろう。

それから高校のころだと思うのだが、天皇を崇拝している人たちのことを知る。彼らはたいていが戦前生まれであり、昔の人なら王様を崇拝しても不思議ではないなと思った。つまり、彼らは物語の住民だったのであり、現代人の私とは関係ない世界に生きていたのだという思いが強かった。

いつだったか覚えていないのだが、多分父親との会話の中で、もし天皇が突然普通の人と同じ生活を送ったらどうなるのか、という話になった。私の父親は、天皇制がどうこうということは一切言わず、ただ天皇はいきなり普通の人にはなれないのではないかということを言うのみであった。たとえば、王様が突然普通の人になったら、王様を非難する過激派の人々が王様の命を狙ったりすると、普通の人になった王様の身を守るものは何もないのである。それからしばらくはなるほどなとその意見に納得し、この消極的肯定論がもっとも常識的な考え方のように思えた。

そしていよいよ私が色々な本を読んで世界が開けてきたときに、まず天皇というのは優秀な外交官なのではないか、という機能的な意味で天皇を肯定しはじめた。世界各国に王族がいるのだから、彼らに対して日本が対等に渡り合うには皇族はちょうどいい。もちろん大統領も国家の元首なのだからイギリスの女王とは対等なのであるが、選挙で選ばれる元首よりもむしろ皇族として生まれた人々の方が、王族同士の話ではぴったりなのではないかと思う。虚々実々の外交とは違う、ただ関係を温め合う王族外交は、国のために良いのではないか。

歴史に目をやると、名目上でも千数百年も続く王家を持っている国は日本だけである。最初の方は神話に溶け込んでいて、途中では南北朝時代などで断絶しているということも言われる。しかし、イギリスの場合はウィンザー朝がハノーバー朝と呼ばれていた頃より数えてもまだ三百年も経っていない。つまり、日本の素晴らしさの一つとしての天皇肯定である。一方でもちろん日本がいまだに旧態依然としたものを持ち続けているという意味での否定も可能である。

■現代日本人と天皇

ここで究極の命題を出すことにする。現代に生きる我々日本人は、天皇を尊敬すべきか。我々は、王国に住んでいるのである。そして我々は、はっきりと明文化された形で、天皇という名の王様を戴いているのである。

私の結論は、天皇を尊敬すべきだと思う。

まあよほどの人間でない限り、尊敬すべきだとかそうでないとか言う前に、実際に天皇の前に出たら、その天皇自身の迫力と周りの雰囲気で、つい尊敬を表してしまうことだろう。そもそも王族や王制というものはそういうものである。

天皇を尊敬したくなければ改憲しかない。

■呼称

とはいっても、私はここでは何も敬称をつけずにただ天皇天皇と連呼している。いやこれはとんでもない話で、尊敬すべきなのになぜ敬称をつけないのか、と言われたらどうしようかと思う。私自身、天皇を尊敬せよと言われても釈然としないものを感じるからである。

右翼だと唾される阿川弘之でさえ、天皇のことを天皇さんと呼ぶ。この言い方は奇妙な言い方だと私は思うが、多少の尊敬と親しみを込めるには理想的な呼び方であろう。ただし極右からは何を言われるか分からないので気をつけたほうがいいかもしれない。ただ、私自身は天皇のことを天皇さんと呼ぶ気も起きない。

私は、天皇のことを天皇と読んでいる時点でそれなりの敬意を表せていると考えることにしている。現に朝鮮では最近まで天皇のことを失敬にも日王と呼んでいたらしい。王も皇も変わらないじゃないかと思うかもしれないが、そもそも皇ということになっている人をわざわざ王と呼ぶことが失礼だし、なぜ王じゃなくて皇なのかという話になると華夷秩序という歴史上の話になって面倒である。

■不敬

天皇のことを、たとえば昭和天皇のことを裕仁と呼ぶのはさすがに不敬であろう。私はつい知らずにメーリングリストにヒロヒトと書いてしまったことがある。外国人が昭和天皇のことを Hirohito と呼び、それを日本人がヒロヒトと訳したことに寄る。私としてはちょっとした格好つけだとか、天皇を客観的に見てるぞという意味でそう書いたつもりだったのだが、この呼称は明らかに不敬であろう。

昭和天皇の名前は裕仁であるから、なぜ名前を呼んではいけない、ということになる。ところが裕仁というのはパーソナルネームである。天皇には名字がないのである。あなたは公の場で自分のパーソナルネームだけで呼ばれたらどう感じるだろうか。健二、健二、とか、益美、益美、と呼ばれてどう思うだろうか。明らかに失礼であろう。

それで思い出して不愉快になったのは、アメリカ人が昭和天皇について書いた本でしきりにヒロヒト、ヒロヒトと呼んでいることである。思い出して欲しい、彼らはイラクのサダム・フセイン大統領やサウジアラビアのオサマ・ビンラディン氏のことを、パーソナルネームでサダムだとかオサマだとか呼んでいるのだが、これは蔑称である。彼らは意図的にそう呼んでいるのであり、彼ら自身それを認めている。つまりこのルールで言えば、ヒロヒトという呼び方もまた蔑称であると言えるだろう。ヒロヒトがフルネームだからしょうがないとも言えるが、向こうでは子供を叱る時などにフルネームで呼ぶそうである。いくら本とはいえ、日本人がそもそも使わない呼び方で呼ぶだろうか。

中国の皇帝も名前を呼ばせなかった。また、皇帝の名前に使われている字は、即位と同時に一般庶民が自分の名前に使うことが出来なくなった。そのくらい東アジアの文化では本名が尊ばれた。この文化を西洋人に理解せよと言うのは無理なのだろうか。

■おわり

天皇や皇族を維持するのにどれだけの金が掛かっているのだろう。また、天皇や皇族によってどれだけの経済的効果があるのだろう。お金や経済だけで論じるのは馬鹿馬鹿しいことではあるが、一度はっきりさせてほしいところではある。その上で、我々国民が納得して天皇や皇族を奉っているのだというのを再確認することが必要だと私は思う。

天皇がいなくなれば、日本を代表する一番偉い人は首相になってしまう。偉いという言い方は微妙だが、外国に行ったときに受ける待遇の度合いに関わる。日本を代表する人間が首相で良いのだろうか。アメリカの場合、国家元首が暴行を働いたとされているのだから、そんな人間が国で一番偉いということになってしまう。

私のような若い人間は、もはや天皇に対して直接的な魅力は感じない。これは事実である。そういう人間が日本を支えるようになってきたときに、天皇や皇族はイギリスの王室のようにゴシップを生むだけの存在として長らえればそれで良いのだろうか。それとも、いまからでも天皇を自分たちの君主として最低限の尊敬をするよう子供たちを教育するべきなのだろうか。天皇制が続くのであれば、必ずどちらかの道を歩むのは確かなことなのだから、早く選択できるうちに選択しなければならないのではないだろうか。なるようになった先が我々の選んだ道というのであればそれも仕方のない話である。


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gomi@din.or.jp