113. 現象と意志と意識 (2001/11/1)


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ネットワークゲームのウルティマオンラインにハマりすぎて、なかなか文章を書く気になれなかった。

■自分から自分を見る

あなたは多分、自分には意志があると思っている。「考える私がいる」と誰かが言ったように、普段我々は色々と自分の意志で考え事をしていて、だからこそ自分は世の中に存在しているのだと思うことができる。この言葉を「我思うゆえに我あり」と誤訳(?)したのも納得できる。

ともかく、あなたは自分には意志があると思っているのだろうが、それを他人に観察させることはできない。科学者があなたをいくら調べても、あなたに意志があるかどうかを科学的に証明することはできない。たとえば、あなたは何を聞かれても「そのとおり」と答えると決めていたとしよう。これはあなたにとっては立派な意志なのだが、他人からすれば何を聞いても同じことしか言わない単なる人形にしか見えないのだ。

誰もが疑問に思うのは、なぜ自分がこの世に存在しているのかということである。昔の人間はそれを、魂とか宇宙の意志と言ってそれ以上考えることをやめた。

■虫の行動と意志

人間について考えると難しいので、もっと簡単なものについて考えてみよう。

ここに一匹の虫がいるとする。この虫は、一日に最低一枚の葉を食べないと死んでしまうとしよう。多分その虫は、生きている間は目や触覚を駆使して葉を死ぬまで探しつづける。葉を探しつづけなければ、葉を食べることはできないので、死んでしまう。さてここで問題なのだが、この虫は死なないようにするために葉を探しつづけているのか、それとも葉を探しつづけた結果生き続けているのだろうか。

結論から言うと、「死なないようにするために」という言葉はまったくもって科学的ではなく、死なないようにするために葉を探しつづけているというのは文学的ではあっても科学的ではない。一方、葉を探しつづけた結果生き続けている、というのは非常に科学的な答えである。

では、虫はなぜ葉を探しつづけるのだろうか。また、虫はなぜ生き続けようとするのだろうか。この「なぜ」という質問は非常にまとをはずしている。というのは、ある物体がある現象を起こすことについて理由などないからである。

■存在しつづけるもの

物体には、存在しつづけるものと、存在しなくなってしまうものがある。

強い風が吹くと散ってしまう砂山もあれば、どんなに強い風が吹こうとも地面にどっしりと落ち着いている重い石もある。重い石というのは、吹き飛ばされないようにするために重いのか、重いという結果として吹き飛ばされないのか。

世の中に存在する物体にはすべて形がある。虫の形をしている物体は、葉を探しつづけることによって存在しつづける。重い石の形をした物体は、その重量や硬さなどによって存在しつづける。一方で、たとえば足のとれた虫の形をした物体は、葉を探しつづけることができずに死んでしまい、そのうち動かなくなる。

世の中を見渡すと、存在しなくなりやすいものはあまり見つからない。というのは、存在しなくなりやすいものはとっくに存在しなくなっている可能性が高いからである。たとえば、子供が作った砂ダンゴは、作った直後から崩壊が始まるので、子供が遊んだあとの砂場で短い期間しか存在しない。

存在しつづけるものと、存在しなくなってしまうものには、それぞれ特徴がある。それ自体の形が、形をくずそうとする何かの影響を受けなければ、それは存在しつづける。あるいは、形をくずそうとする何かの影響を、形をたもとうとする何かの影響によって相殺すれば、それは存在しつづける。強い風が吹くと散ってしまう砂山もあるが、それをシートで覆ってしまえば風に強くなり、形をたもっていられるかもしれない。

■存在こそが原始の意志

この世に存在しつづけるものには、存在しつづけるということ自体が生み出す意志がある。存在しつづけるということ自体が、そもそもの意志の起源である。存在なくして意志はない。存在している何かに対して人は意志を感じる。不思議なことに、人は既に存在しなくなったものに対しても意志を感じるが、それは物理的な存在だけではなく物理的以外の例えば霊的な存在を知覚することによって意志を感じている。もちろんこの場合の知覚とはたぶん幻覚である。

ある物体が存在するとすると、その物体はその物体そのものの挙動として意志を持つ事になる。つまり、重い石はなかなか動かないので動かないという挙動そのものが意志となる。また、軽い葉っぱは風で飛ばされるので、飛ばされて宙を舞っている挙動そのものが意志となる。むろん、重い石は動かないから挙動がないとも言えるし、軽い葉っぱも風に吹かれているだけだから挙動がないとも言える。しかしそう言ってしまえば、あなたが毎日学校や会社に出かけていくのも、誰かから「来い」と言われたから来ているのだと言うこともできてしまう。あなたが外出したときに強い風が吹いていたら、今日は外出をやめようと思うかもしれないが、それはあなたが自分の意志で決めた事なのであって、風があなたにそうさせたのではない。あるいは、あなたが風の精霊または風そのものの意志の存在を信じるとすれば、あなたと精霊あるいは風そのものとの間にコミュニケーションが成立し、その結果として風があなたに外出をやめさせたと考える事も出来る。

ある物体がある形で存在することが原始の意志であり、どのような形で存在するかによってどのような意志を持つかが決まる。特に難しく考える必要はない。体格が良ければスポーツが好きである可能性が高いのと同じである。

■自分の存在

ところが、自分の意志ということになると、なぜこの世に存在しているのかをいくら考えてみても答えが見いだせない。少し考えれば分かる。それは当たり前である。考えている自分自身が、自分自身の存在について理解することなど出来るはずがないのだ。

たとえば、自分自身は果たして存在しているのか、というのを自分自身が考えてみるとする。もしここで、自分は存在していないのだ、と結論したとする。すると、ではいまこうして考えている自分はなんなのか、存在しないものが考えることなどできるはずがない。となるとやはり自分は存在しているのだ、という結論にしたとする。しかし、自分がそう思い込んでいるだけかもしれなくて、本当は存在していないのかもしれない。

■行動と計画と意志

あなたは自分で意志を持って行動していると思っている。しかしあなたは、実はまったくもって適当に行動していて、行った行動からあたかもその行動をしようと思った意志が作られるのだと言われたらどうするだろうか。つまり、まずあなたの足が勝手に動き、そのあとで「足を動かそう」という意志が生まれたのだ、と言われたらどうするか。いや確かに足を動かす前に意志が固まったのだ、と言いたいかもしれない。しかし、人が実際に何かやろうと思う事と、その何かが行動に移されることとは、ほとんど同時に行われる。

大抵の行動は、計画をもって行われる。まず最初に、どこどこへ行こう、と確かに考える。そのあとで、足を動かそう、と意識的にあるいは無意識に考える。そうやって考えたあとでようやく実際に足が動く。と普通はそう考えるだろう。しかし、そのように順序があると考えるのはどうしてだろうか。どこどこへ行こう、という計画と、足を動かそう、という行動とが、なぜ一対一で結びつくと言えるのだろうか。それらはただ無関係にたまたま同時に発生しただけかもしれない。100回中100回つまり確実に起こると考えられる現象であったとしても、確実だと断定することは正確には出来ない。

となると、我々の持つ意志には、俗に言う因果律が不可欠であることが分かる。A があって B があるから C になる、というつながりのことである。たまたま時間軸上に間隔をおいて起きた三つの事象を、あたかも一連の出来事のように判断すると、そこに意志を見いだすことができるのである。たとえばネコが、地面に穴を掘って、排泄して、またそのあとで穴を埋め直したとする。この三つの行動は連続して行われるので、それをもって意志と見るのである。

■意志と意識

ここまで考えても、意識の問題を解決することはできない。

いまあなたの目の前には多分画面が見える。画面の中のこのページを見ている。あなたがこの光景を見るというのは一体どういうことなのだろうか。脳の学者は、目で見たらそれが脳に電気的な信号が生まれると言うだろう。でも、脳の電気信号がなぜ「見える」ということになるのかを説明することはできない。

意識と意志は別物であると言えるだろうか。あなたの意識は、あなた自身の意志を感じることができる。時にはぼんやりと、時にはハッキリと、自分が何をやりたいのかを感じる。そのとき、感じている意識そのものには、何も目的がないかのように思える。ただ感じているだけである。感じたことが意志を生み出すことはあるが、意志から意識が生み出されることはない…のだろうか。

人は、強烈に嫌なことがあったときには、意識そのものが影響を受ける。例えば、腹が極限まで減ると、見えるものすべてが食べ物に見えることがあるかもしれない。嫌な人の存在は意識的にかき消される。嫌な事は思い出さないのではなく思い出せない。ということは、意志が意識を作り出すのではないか。

もし意志が意識を作り出すのであるならば、人間の意志の成り立ちを調べることで、意識の構造を探ることが出来るかもしれない。

■終章・現象と意志と意識

まず、人間が存在するためには、食べ物を食べなければならない。睡眠をとらなければならない。そして、人類として存続していくためには、生殖活動をしなければならない。ここでもう一度振り返って欲しい。人間が食べ物を欲しがり、睡眠を取り、生殖活動をするから、人類が存続しているのではない。人類が存続しているという現象から、それを「食べ物を欲しがっている」だとか「睡眠を取りたがっている」だとか「生殖活動をしたがっている」と考えただけのことなのである。これらは意志であるがその前に現象である。

精神分析学の開祖フロイトは、人間の意識の源が生殖活動であると考えた。また別の学者は、支配欲であると考えた。この世に存在しつづけるものは、他をおしのけなければならないので、結果的に生き残った物体は「支配欲がある」と考える事が出来る。生殖もまた同じである。不死ではない個体が新しい個体を作り続けることで存続する人類は、生殖なしでは存在しえない。つまり、これが原始の意志である。この原始の意志は、現象と一体になっているので、これ以上の説明は不要である。フロイトなどの精神分析学者に疑問を持つ人々は、生殖活動が人間のすべての精神活動の源だということには一応の納得はすることができても、なぜ生殖活動なのかという根拠について疑問を持つ。しかし、生殖活動は現象と一体であり、人類やその個体の存在自体が根拠なのである。

現象が意志を作り、意志が意識を作る。

現象は単純だが、単純なことでも沢山集まって相互に影響しあえば、複雑な現象となる。複雑な現象はそのまま複雑な意志である。複雑な意志は、複雑な意識を作る。つまりカオスである。

私は以上をもって、精神分析学の土台は埋まったとすることができると思う。あとは、オカルトと分類されることがいまだに多いのだが、精神分析学によって意識の秘密を解きあかすことが出来るように思う。

■おわりに

ただ、精神分析学はあくまでも観察や実験を基に行われるので、もう少しハードウェアに目を向ける必要があるのではないか。私がいま考えているのは、人間は目や耳などの感覚器官と中枢である脳が、人間の個体同士のマネが出来るように作られているのではないかということである。たとえば、誰かが何かをするのを見ると、自分もそれをしたくなることがある。

フロイトの精神分析学では、子供が親のマネをするのは、子供が自分の不安をまぎらわすために安定した親のマネをして安心したいからだと説明する。ところが、ではなぜ不安になるのか、と言われるとこれ以上の説明ができなくなる。人間の脳はもともと誰かと同じことをしたくなるようにできているのだ、と思い切って考えてしまえば、これ以上説明する必要がなくなる。誰かが何かをやっているのを目で見たら、その視覚による刺激が脳に何か影響を与えるのだ、とするのである。動物を見ればいい。群れで行動する動物は、本能的に群れで行動しているのである。

意識を理論構築によって説明しようとするのならば、その意識が乗るハードウェアの性質についても理論構築によって説明しようとすればいい。こちらのほうは、うまくすれば脳生理学(?)によって実証可能かもしれないので、精神分析学を根元から支えてくれるだろう。

催眠術を研究してみるのも面白いだろう。催眠術が本当にあるとすれば、催眠術なんていう大げさなことではなくても、普通の人の普通の一挙手一投足が他の誰かの意識に対してささやかな影響を及ぼしているかもしれないわけであり、それらが積み重なって人間の行動が生まれているのだと言い切れるかもしれない。


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