これまでずっと日本の会社で働いてきてわかったことをまとめてみる。
よく自分で考えて動けと言われる。指示されないと動けない人間は「指示待ち人間」と言われ、無能扱いされる。
これはあるあるなんだけど、現場に入るとリーダーやマネージャーが忙しそうにしている。彼らと話すと、仕事の全体的な輪郭とおおまかに何をしてほしいのかは説明してくれるんだけど、どうやってチームで仕事を進めていきたいのかまでは示されないことが多い。だから新参メンバーは、あれやりましょうか?これどうなってますか?といろいろ聞きながら上司から仕事をはがしていかなければならない。
自分は海外の会社で働いたことがないんだけど、セールスフォースというアメリカのIT企業が作ったオンライン学習プログラムの中で向こうでの仕事の進め方の描写があって、それ読んでああやっぱりなあと思った。向こうではチームのメンバーそれぞれにちゃんと役割があって責任を負っている。だから、彼らは自分の負っている責任を全うするために行動するし、そのための権限も与えられている。だからチームはちゃんと回るし、構造的に「指示待ち人間」が存在しない。
日本の会社では責任も権限もあいまいなので、上司から言質をとってなんとなく役割を引き受け、最初のうちはなにかやろうとするたびに許可を求めてから行動するけれど、慣れてくると事後承諾だったりあとで報告するだけになったりする。だから、なにか問題が起きたときの責任があいまいになる。
日本で指示待ち人間は要らないなどと言っている上司は、チームを管理できていない無能な人間なんだけど、なぜか日本の会社ではそれがまかり通っている。いわば本来上司がコントロールしなければならない部分を部下が肩代わりさせられている。
なぜこんなことになるのかというと、日本では下の人間の能力が高くて上の人間の能力が低いから。なぜそんなとんちんかんなことになるのかというと、無能な人間が上に上がってしまうから。そもそも能力の高い人間が上に上がるんだったらこんなことにはならない。
上司の認めた人間が出世するのはどこの国でもそうだし、その判断が利己的なものに結びついてしまうのもそうなんだけど、日本の場合はとにかく上司の能力が低いので歪みがひどくなりがちになる。
上司は自分だけでは自分の職責を果たせないので、自分自身がやるべき仕事を代わりにやってくれる部下を重用する。本来、上司には上司の仕事が、部下には部下の仕事があり、その内容で判断されるべきなのだけど、いくら部下が部下としての仕事で成果を上げようと、上司の仕事を肩代わりした部下の方が評価されて上に上がっていく。
そりゃ部下だっていずれは上司と同じ役割で動くことを求められるのだから、部下であるうちから一部教育も兼ねて上司の仕事をやらせることは当然あるのだけど、いくつかの理由によりそのしくみがうまく働いていない。
まず、ちゃんとした教育ということにしてしまうと、その責任はすべて上司が負わなければならなくなるから。まあわかると思うけれどそれだったら上司が自分でやったほうがいいまである。それに、それを正規の仕事ということにしてしまうと時間を割り当てなければならず、その分部下本来の仕事を減らさなければならなくなる。
だから部下には部下本来の仕事をさせた上で、あくまで部下が自分の意志で上司の仕事を肩代わりするという体をとる。当然部下には本来そんな時間はないので残業することになる。上司のために自分の時間を捧げられる人間が評価されることにつながる。
普通だったらそんなバカなことをすすんでやる人間はいないはずなんだけど、部下は部下で上司に媚びを売りたいし、上司は上司で冒頭に出した「指示待ち人間」のような言葉で巧みに部下を煽って自分の仕事をさせようとする。
部下が上司の仕事を肩代わりして仮に失敗した場合、その責任は部下が負わされる。だってそれは正規で頼んだ仕事ではなくて、あくまで部下がすすんで行ったことなのだから。もちろん部下はその仕事を行うための権限も本来与えられていないので、勝手にやったことにされる。
そうやって巧みに部下を利用して成果を上げた上司がさらに出世する。労働力を媒介としたネズミ講みたいなものである。
とにかく若い人を欲しがる。年を食った特におじさんは避けられる。どう考えても仕事の経験が長い方が使える可能性が高いにも関わらず、経験の短い若い人間の方がありがたがられる。なぜなら、言うことを聞かせやすいから。相手の方が若いというだけで上位に立てるし、ろくに知らないから騙しやすい。
いままで長いこと仕事をしてきて上に上がれなかったおじさんは無能な証拠じゃないかと言う論理がある。しかしそれは有能な人間が上に上がるという前提のもとで成り立っており、そもそもその前提からして成り立っていない。
たとえ部下の方が年齢が高くて経験が豊富であっても、感情ではなく理屈でもって正しい指示をすれば言うことをきく。もしここで部下が上司の言うことに対して抗弁しても、部下の言っていることのほうが正しければ取り入れればいいだけだし、間違っていると思えばその間違っている点を理屈で説明すればいい。部下が屁理屈をこねてくる、と言うのであれば、じゃあ部下のその理屈を屁理屈だと断じた理由はなんだと聞きたい。
上司と部下とが仕事をめぐって意見が対立して話し合いになったとき、本来であれば上司の方が有利なのだからその話し合いをそこまで忌避する理由は乏しいように思う。本当に上司が部下より有能であれば説得できるはずだし、どっちの言い分にもそれぞれ正しいところがあって平行線になりそうであれば上司の言い分を優先すればいいだけだし、話し合う時間が足りなければとりあえず言うことを聞いてくれと言えば済むし、職務上部下の知らない秘密なことを上司が判断材料にしていると主張すれば部下は納得せざるをえないし、最悪部下の言い分を認めた上で上司の言うとおりにさせることもできる。
これらを嫌がるのは、もう暗にその上司が部下よりも無能であることを自分が分からされるのが嫌なのであり、周りにそのように思われることも嫌で、それを認めたくないから嫌なのである。この無能な上司にとっての上司も同様の立場なのでこの共同幻想は維持される。
いまは多くの会社が人事考課に目標管理を取り入れている。人を評価するにあたって、たとえば営業マンだったら売上や利益といった数字がはっきりしているけれど、それだって商品や客や景気に左右されるので公平な基準とは言えない。そこで、あらかじめ目標を立てさせてそれをどれだけ満たせたかどうかを申告させて評価するようにしている。
じゃあ簡単な目標を立てればいいじゃんとなるかもしれないけれど、さすがに明らかに簡単な目標だったら立てさせないかあまり評価しない。でも、会社の売上や利益といった数字に直接結びつかない目標を立てることはできる。そのためにどれだけ努力できたのかを評価する。
たとえば、営業マンだったらたとえ仕事に結びつかなくても、新規顧客と何件商談するといった目標が成立する。とにかく会って話を聞いてください!と強引に頼み込んで本当に話を聞かせるだけでなんの見込みもなくてもそれを一件とカウントする。客観的事実に基づいているし、ある意味とても公平ではあると思う。
このしくみは下の人間だったらまだいいんだけど、上の人間に適用すると目も当てられないことになりがちである。平たく言うと「やった感」のある目標が乱立し、それが部下にまで波及する。部下は上司の掲げた「やった感」への貢献を求められた上で、その「やった感」を数字で裏付ける使命まで負わされる。
上司は部下を評価するときに、自分の「やった感」に貢献した部下を評価する。もしそれにそぐわない部下を評価してしまうと、自分の掲げたものが間違っていたことになってしまう。もし部下が自分の掲げたものに関係なく成果を上げたとしても、なるべくそれを覆い隠して成果だけかすめとるか、なんとかして自分の掲げたものとつじつまをあわせようとする。
もし上司が有能だったら、ちゃんと優れた目標を立てるので、部下がそれに沿って自分の目標を立てて行動することにより組織が全体として高いパフォーマンスを発揮することにつながる。しかし上司が無能だったら、大して効力のない目標に向かって組織がひきずられて疲弊するどころか、その目標が有効であることを裏付けるために部下は成果を奪われる。本当はその目標のせいで時間を無駄にしたにも関わらず、その目標のおかげで自分が成果を上げたかのようにされる。
たとえば弊社(笑)には「受注審査会」なるものがある。仕事を受注する前にチェックする場で、上司だけでなく有識者も関わって多角的に審査する。これ自体はきわめて真っ当で良いことのように思えるけど、実運用上は大して機能していない。これは私自身の思い込みだけではなくて、「儀式化している」と言ったら上司も同意していた。
なぜなら、この場で「受注不適格」になることはまずないし、せいぜいちょっと変えるよう言われる程度だった。誰も責任を取りたがらないからだろう。他の人の話を聞いて笑ったのは、オンラインで開催されたときに資料を提示したら字が細かすぎて上司が読めなかったのにそのまま続けてオッケーだったことがあったらしい。
こういう場では、まったく見当違いの指摘や意見が通りがちになる。審査する側はなにも言わなかったら仕事をしていないことになってしまうのでなにかしらケチをつける必要がある。審査を受ける側も、まったく言うことを聞かないとスムーズに事が進まないので、ちゃんと説明して回避できるところは回避しつつ、大して影響のなさそうなことについては要求を飲むことにする。
もしこのとき上司が無能で部下が有能だったら、上司の見当違いな指摘をいちいち論破してしまうことがありうるのだけど、普段そんなことを言われない上司は部下に対してなぜこいつは自分の言うことに逆らうのかと思い評価を下げる。無能な人間は理屈がわからないことが多いので、こいつだけ言うことを聞かないのはこいつだけ間違っているからだと思う。
たぶんこのしくみを考えた人は出世していると思う。でも会社にはなんの貢献もしていないどころか、関係者の時間を浪費させている。もし仕事が失敗しても、受けていない報告があったとか、計画は良かったけど実施がよくなかった、お前が悪い、ということにされる。審査する側が問題とされることはまったくない。
東日本大震災で東京電力の原子力発電所がメルトダウンした事故に関して、事前に役員の前で計画を説明するいわゆる「御前会議」という場があったらしいのだけど、計画を説明した側が役員の許可を取ったと思っていたのに対して、役員たちはただ報告を聞いただけのつもりだったという話を週刊文春で読んだ。
ある程度大きくなった会社にありがちなのは、突然会社の理念を作ること。従業員にとって大して共感の得られないことを、さもいままでこの考え方で会社が大きくなったんだと思わせてくる。誠実であれって、いままで客にも従業員にも誠実であったことなんてどれだけあったんだ?みたいな。
これがワンマン社長や一部の上層部の思いつきであればまだいいのだけど、ひどいのは外部のコンサルタントに頼んでわざわざ金を払って作らせることもある。従業員がコツコツと稼いできたお金で、従業員の思いとはまったく縁のない理念をでっちあげることが平気で行われている。
さらに悪いのは、そのコンサルタントが経営者のお友達であることも考えられること。そうやって会社のお金を自分たちの仲間に回している可能性もある。大学の同窓会のつながりとかもあると思う。ポリコレの件でも明らかなように、コンサルタントはあの手この手で自分たちの仕事を売り込んでくる。
いったん理念が作られると、それを社員にも強制する。前述の目標管理にも当然使われる。理念が会社を良い方向に導くのではなく、会社が良い方向に進んでいるのを理念のおかげということにさせられる。
従業員が理念にすり寄るようになる。要領のいい社員は、自分の行動に対していちいち理念と関連づけてそれをアピールする。そういう調子のいい社員同士が互いにそれをたたえ合い、それを見た経営幹部が彼らを登用し、ますます増長する。
もうこうなってくると宗教である。まあ人間が集まってなにかするところに必ず宗教的なダイナミズムが生まれるのは必然である。
世界中どこの組織にもある程度あてはまることなのだけど、結局のところ組織というのは「猿山」になる。ボス猿がいて、それに従うオスたちが集まっている。組織の中で上にいる猿は下にいる猿よりも強くて正しいことになる。契約や役割といった概念はあとづけに過ぎない。
じゃあどうしたらいいのか。高度成長期の日本の会社にいったん立ち戻った上で改善していくのがいいと思う。
年功序列こそが優れたシステムだったと思う。なぜなら、能力主義なんて掲げたところで無能な人間ががんばって上に登ってしまうから。
組織なんてものは本来上に行けば行くほど能力が求められ大変になっていくのだから、報酬が大して変わらないのであれば無能な人間ほどやりたがらなくなる。年功序列だったら有能な人間がやる気をなくしてしまうと言うけれど、それは有能きどりの無能な人間が言っているにすぎない。有能な人間は不満に思いつつも余裕があるので上の仕事を渋々引き受けることになる。
現実を見ると、能力主義になったことで逆に有能な人間の報酬が削られることになった。なぜなら、無能な人間ほどがんばって出世しようとするから。そしてそうやって出世した無能な人間が同じように無能な人間を上に引き上げてしまうから。上に上がらない有能な人間は能力主義の名のもとに報酬を低いままにされてやる気を失っていく。
公正な人事評価なんていうできもしないことに労力を使う必要もなくなる。
日本が戦後高度成長したのは、日本の無能な上層部が組織から追放されたからとも言われている。第二次世界大戦中、ソビエトがポーランドの軍人を中心とした有能な人間たちを集めて虐殺した「カティンの森事件」が起きたけれど、たぶんこれ日本でやったら逆効果だと思う。
組織の幹部以上は理屈が分かる人間で固めなければならないため、学歴で採用し登用するのは理にかなっていた。そして兵隊としては上の言うことを素直に聞いて動く体育会系を集めた方がよかった。これが逆になると目も当てられないことになる。
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たぶんちょっとやそっとでは変わらないので日本はこのまま没落していくことになるだろうけど、もしかしたらやりかたを変えて業績を上げていく企業が出てきて生き残っていくかもしれない。ただ、日本全体にこの空気があるうちは無理で、また第2第3の敗戦を経る必要があると思う。