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2002/01/27

 えー、結局一月の更新は二回だけになりそうです。二月もあんまり更新できそうにないです。あらかじめ断っときます。すいません。
 で、最終巻(七巻)が出たのが去年の暮なんで、ちと遅いですが、「最終兵器彼女/高橋しん」の五巻〜七巻の感想書きます。読んでない人、ネタばれ御容赦。

 物語全体の終着点は、これはもう冒頭から何度も繰り返されてた「ぼくたちは、恋していく」ってフレーズのとおり、シュウジとちせ、高校生のカップルに落ち着きました。たしかに予想された結末ではあります。だけど、なんだか消化不良な読後感を持ったのもたしか。どうしてかなーと考え考え考え考え考えましたが、それはやっぱり「この星」ってナニっていう、そこらへんではないのかと。作中での「この星」っていう言葉は、要するに地球なんですが、まあ人類全体という意味で使われているといっていいでしょう。で、その言葉が、最終兵器であるところのちせちゃんの口から何度か放たれるんですが、なんとゆーか、物語が進むほど、ちせちゃんが「この星」とかいうたび神サマみたくなっていっちゃった印象があります。「最終」兵器なんだからそれだけえらいのかもしれませんが(“ちせの火”のシーンは旧約聖書にある神の業火を思わせます)、でも一方でちせちゃんは、(しょせん)兵器だからと、卑下するようなニュアンスで自分のことを語りもします。んで、最終兵器(ちせちゃん)は最後にとうとうこの星(人類)を終わらせてしまうんですが、なんだか釈然としないものが。ちせちゃんがそれだけ強い「最終」兵器なら他に方法はなかったんだろーかとも思うし、逆にしょせん最終「兵器」(ただの道具)なら、そんなすごいことできるんかいなと。で、ワタシは中盤までの物語で、ちせちゃんの力は核兵器のメタファーなんかいなと思ってたもんで、しょせん最終「兵器」だと考えてましたから、ラストの人類滅亡ってのはちょっとやりすぎじゃろうと。まあ、ちせちゃんの秘められた実力っていうのが、核兵器に比べて四桁か五桁くらいすごかったってことなのかもしれませんが、だったらそういう力があるっていうのをどっかで触れてほしかったなあと。でないと、なんというか、「この星」(人類)ってこの程度で死んじゃうの? って感じちゃったりするわけです。ここんところが消化不良。
 とはいえ、作者の後書きにもあるように、これはあくまでシュウジとちせの話なわけで、その観点からすると、充分描き切っていると思います。というか、やりすぎです。よかったのは、とくにちせちゃんが脱走(とんでもねー兵器だ)してからの六巻から七巻の前半あたり、シュウジとちせの二人の世界がじわりじわり小さくなっていく状況。お互い、こんな平穏が長続きしないとわかっていて、それを少しでも引き伸ばそうとして、なのに確実に終わりのときは近づいてくる。閉塞した日常とでもいうんでしょうか。もちろん“日常”ってやつに不可欠な“未来”を決定的に欠いてるんで、ぜんぜん日常じゃないわけですが、そこがいいと。
 そしてやりすぎだっていうのは、繰り返しになりますが、「この星」が死んでしまったことです。終末っていうとんでもない状況下でのラブストーリーであるなら、そりゃもォ、ワタクシのツボどんぴしゃりですから歓迎しますが、この作品の場合そうもいきません。ちせちゃん自身が終末に大きく関わらざるを得ないから、終末も単なる“状況”じゃなくなるんです。ちせちゃんの話である以上、終末そのもの、戦争そのものにもうちょっと物語の比重を置いてほしかった。しかしあくまでシュウジとちせのラブストーリーであるという作者の言葉どおり、そこらへんはあまり触れられずに終わりました。であるならば、「この星」が終末を迎えるというのはやりすぎじゃなかろーかと感じるわけです。実際、アケミとかアツシとか、終末に対して無力な人たちの死に様は読んでて切なかったですが、最も切なくなるべき主人公二人の迎えるラストについては、そこまで迫ってこなかったですし。
 全体通読した感想としては、ツボつきまくりな設定で始まって盛り上げまくったあげく最後の着地で失敗したってところでしょうか。一巻読んだ時点では泣ける物語になるという期待があったんですけれど、ぶっちゃけた話、ムリヤリ「エヴァっぽく」あるいは「富野っぽく」したよーなラストだなーという印象がどうしても消えないんです。泣くに泣けませんでした。残念。

2002/01/14

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。遅いですが。

 ひさーしぶりに映画館で映画鑑賞しましたんでその感想を。観たのはイスラエルの映画、アモス・ギタイ監督作品「キプールの記憶」。監督自身の第四次中東戦争(イスラエル側呼称、ヨム・キプール戦争)従軍体験をベースにしたドキュメンタリー的な映画です。
 これ、主人公はもちろん戦場に行くんですが、普通の戦争映画とちと違うのは、救難部隊の一員としてっていうところです。だから彼らの戦いというのは最前線から負傷兵をヘリで拾い上げて病院まで往復する、この繰り返しです。つまり負傷兵を救えたり救えなかったりの繰り返し。だからして、普通の戦争映画のようにぶっ壊したり撃ちまくったりして盛り上げるっていう要素はありません。全体のトーンも反戦とまではいかなくとも厭戦的。
 ただ、ひたすらリアルな作品だってことはいえます。冒頭のヨム・キプール(ユダヤ教の贖罪日)当日の街の様子。人っ子一人いないし、店もゼンブしまってる。そこにエジプト・シリアの奇襲攻撃の知らせ。混乱する街、人、アラブ側に突破される国境、そこらへんがなんとも生々しいです。実は主人公と友人が所属する救難チームも、本来出頭するべき部隊が見つからなくて、じゃあこっちに行こうってな具合だったりして。
 映画のメインはゴラン高原近辺での救難活動ですが、これも非常にリアル。煙幕吹き出しながら走り回ってる戦車のヨコで、泥まみれになりながら担架をかついでヘリまで這うようにして進む。こんな場面が何度も出てくるんですが、どれもかなり長いカットなんですね。この監督の映画ってコレが初めてだったんですが、冷淡なくらいに長いカットというのがとてもいいです。感情移入するとかそういうのをすっとばして、否応なく追体験させられてしまうというか。他にも長いカットとしては、戦車とか装甲車のわだちでぐちゃぐちゃになった農地をヘリから俯瞰するっていうのがあって、ここも抑制された画面ですが、かえって強い訴求力をもって迫ってきてとてもいいです。SFXでどかーんというのじゃありませんでしたが、118分最後まで見ごたえある作品でした。


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