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2001/11/30

 今日はマンガじゃないっす。新書で面白いのを読んだので紹介。KKベストセラーズから出てるベスト新書ってのから「映画で読み解く「世界の戦争」/佐藤忠男」。戦争を主題に扱ったり戦争を背景にした映画に表れている、現実の戦争へのスタンスなどを論評してます。取り上げてるのはコッポラの「地獄の黙示録」とかスピルバーグの「プライベート・ライアン」とかのハリウッド映画もあれば、ルイ・マルの「さよなら子供たち」もあったりと、かなりの範囲。目次に名前が挙がっているのだけで四十作ほどになります。
 著者は戦争映画を大まかに四つに分けられるとしています。これがこの本のキモでしょう。以下がその四分類。

 といっても、複数に該当する作品もあるとしてますんで、分類というよりは要素というべきでしょうか。でもって、これらの要素を段階的なものであるともいってます。つまり(1)プロパガンダ→(2)娯楽→(3)反戦→(4)和解。戦争からの時間の経過、意識の成熟につれてこのステップを進んでいくと。七九年のコッポラの「地獄の黙示録」で描かれた狂気は大仕掛けにすぎていて、ブラックユーモア的な娯楽要素が強い、八六年のオリバー・ストーンの「プラトーン」での狂気の描写は軍隊への疑義に直結している、同じストーンが九三年に撮った「天と地」だと“敵”であったベトナム人の視点になっていて和解へ踏み出そうとしている、という具合です。ちなみにスピルバーグの「プライベート・ライアン」は(1)〜(4)のいずれの要素もアリとしています。
 んで、プロパガンダ的要素を含むと著者は否定的な評価を下してるんですが、ワタシ的にはちょっとここで異論が。そりゃまあ、どこをどうとっても国威発揚でしかないシロモノなら薄っぺらい駄作としか評価できませんけれど、プロパガンダとして有効かどうかって、けっきょく見る側の問題なんですよね。だから作品自体の評価をしようとするときには、どないなもんだろうかなと思います。
 ところで、この本では全体の三分の一くらいが日本の戦争映画にあてられてます。そこにいくつか面白い指摘があったので、以下紹介。
 まず、(4)の和解の段階に達しているのはあるかというと、新撰組とか白虎隊を扱った作品が相当するというんですね。対して太平洋戦争を取り上げた映画には、それは少なく、悲劇性(主に日本側の)を強調するのに力点が置かれていたり、あるいは弁明的であったりする。でもって、日中戦争を扱った作品は、戦中はプロパガンダ映画としてけっこう作られていたものの、戦後は逆にほとんど作られていない、と。
 戦後の日本映画で日中戦争と太平洋戦争が区別されている、これはなかなかに示唆的です。映画なんで絵的に映える方(陸戦主体で地味な大陸戦線よりも派手な海戦&空中戦の対米戦線)がよろしいという面だけでなく、映画人のメンタリティの中に、さらには国民意識にも二つを分けたがる傾向があるともいえます。んで、こっからはワタシの想像ですが、たしかに八路軍相手の日本兵では原爆映画と同じような悲劇性を謳いあげることは難しい。ならば別のアプローチが必要になる。そしてそれが作られていないということは、八路軍や国民党軍との戦いを描くのに必要な視点を、日本人はいまだに持ち得ていないってことになるんじゃないでしょーか。
 戦中の国民意識でも、日中戦争と太平洋戦争は距離があったようです。真珠湾攻撃を聞いた当時、映画監督の山本嘉次郎がどういう感慨を持ったのかが載っているのですが、「重苦しい毎日が続いたあと、開戦のニュースをきいて、なにかスーっとしたのが、ぼくの偽らない気持ちだった」 と語ってます。つまり、気分が晴れるような何かしらの違いを、真珠湾以前と以後で感じたということなんですが、これを著者は、精神錯乱に近いとしています。ちと長いですが引用します。

 日本が太平洋戦争をはじめた理由は、利害や勝敗の計算にもとづくものであるよりは、イデオロギーの崩壊に耐えられなかったからである。アジアの盟主という誇りを捨てるくらいなら戦争を一気に拡大して自滅したほうがまだマシだ、というふうに筋道だてて考えたわけではないが、それに近い精神的な錯乱状態におちいった、と言うことが出来るだろう。それはまさに自殺行為だった。
 山本嘉次郎の続く「加藤隼戦闘隊」や「雷撃隊出動」はそういう当時の民族的な心理状態をよく反映している。「ハワイ・マレー沖海戦」でもそうだったように、これらの作品ではアメリカやイギリスが、いかなる理由で攻撃されるべき悪であるかということは殆ど描かれていない。登場する日本軍の航空隊のパイロットたちは敵を殆ど憎んでもいないし軽蔑してもいない。彼らはただ、見事に美しく戦死することだけを考えているように描けている。とくに「雷撃隊出動」では、南太平洋の飛行場にいる日本軍の航空隊は、絶えず襲ってくるアメリカ軍に次々と飛行機を破壊され、隊員も死に、わずかに残った飛行機の部品を集めて飛べる飛行機を組み立てて体当たり攻撃に出撃する。前線では飛行機が足りなくて困っているのだから国内の工場はもっと生産に努力しなければならないという政策的なメッセージがそこにあるにしても、これでは敗北を認めているようなものであり、努力すれば勝てるというプロパガンダ映画に必要な楽天性がどこにもない。この映画は観客に勝利の幻想を与えることには失敗している。しかし戦争の目的が勝利であるよりも民族の自殺であったとしたら、これは正直な作品だったと言えよう。

 ここらへん、ワタシには目からウロコな指摘でした。対米開戦時すでに国民的な意識の中に自滅指向がひそんでいたというのなら、それが敗戦までの日本がとった行動パターンの一因になるんじゃないかと考えられるからです。具体的には日本軍の戦略戦術なんですが、サイパン戦以降、特攻に限らず、作戦全般に自滅的な傾向が目立っていきます。その理由として、追い詰められて自滅的なもの以外に方策がなくなったという以上に、あんがいこういった民族的心理が表出したからなのかもしれません。一部の軍人がある時期を境にどーしょもなくバカになったというよりも、こっちの方が説得力ありませんか。

2001/11/26

 職場で発生した論争。
「あすたりすくってどう書くん?」
「バッテン書いてヨコ」
「え、ヨコ書いてナナメナナメじゃなく?」
「それ、変」
「えー、だって横に連続して書くとき便利でしょ。横棒びーっと引いてその上にバツバツって書いてけばいいし」
「おお」
「……いや、タテのあとナナメナナメじゃないかと」
「ワタシもタテ」
「なんでタテ」
「だってキーボードに書いてある」
「うおおっ」
 っていうか“*”って、日本語では“アステリスク”なんだそうですが、とりあえず現状はタテかいてバツが三人、ヨコ書いてバツが二人、バツの後にヨコが二人です。
 平和だな。

2001/11/25

 連休中に読んだもの、二つ、というか三つ。一つ目、「フェティッシュ/田中ユキ」。セカンド短編集ってことで、つまり「ストレンジラブ」につづく短編集になります。収録六編の掲載誌はUppersおよびその周辺。
 テーマは、若いもんの恋愛。
 と言い切れればカンタンなのですが、なかなか。六編どれもカップルの話には違いないんですが、人を好きになるという気持ちを単純に肯定的に描いているのはひとつもなくて。むしろ、その気持ちを持て余してというか、自分でもそれに振り回されてしまって、ついでに相手も、という、そんな顛末の話が多いです。つーと、魔性のオンナ、とか言い尽くされたフレーズが浮かんでしまうんですが、そこまで物語が(主人公に対して)冷淡であるわけでもない。なんとも微妙なところにあります。そのバランス、というか、アンバランスというのが、けっきょく田中ユキの魅力なんでしょう。というわけで前作がツボだった人にはオススメです。六編中、個人的にいちばんよかったのは「複雑な彼女」。教師と生徒の破滅的な接近。ラストの余韻がとてもいいです。

 二つ目、「BLAME!/弐瓶勉」第七巻。イキナリ登場の臨時セーフガード、ドモチェフスキー。あいかわらず訳わかんないままのオハナシの進みっぷりですが、そこからくる疾走感みたいなのがこのマンガのウリの一つであることもたしか。第一種臨界不測兵器ですぜ、もォ。んでまた珪素生物のかっちょええやつがまた新しく出てきてくれたのもうれしかったり。
 その外伝というか前史という位置付けになるのが「NOiSE/弐瓶勉」。本編「BLAME!」では説明されないままだった世界の、なんというか、壮大なネタばらし。どれくらい壮大かというと、最後のモノローグが「あれから 三十世紀が 経つ」ってな具合でして。でもって、ここでの主人公は誰かというと、本編で凄絶なヴァイオレンスやらかしてくれたあのヒトなんですな。少なくともこの時代はヒト。ヒトのときも人外のときも萌え萌えでございます。

2001/11/23

 日付は連休初日ですが、連休のずっと前に読んだものの感想を書いときます。「EDEN/遠藤浩輝」第六巻。エリヤがいろんなことを経験していきます。それは成長するというのと必ずしもイコールではないのだけれど、成長する上での糧になるには違いないことです。怒りに駆られてではあっても、冷静に「殺してやる」と言い切るまでに変わったエリヤ。自称も“僕”から“俺”になります。今の彼のいる場所は、AIだけを連れて旅していた時とは違って、他人という存在がいる以上、無垢のままにいられるエデンではないということです。

2001/11/13

 いったいこの半年ナニやってたんだっていわれそうですが、まあヤってしまったものはしょうがないということで取り上げます。実際にヤったのは先月になりますが。
 というわけで「Crescendo 〜永遠だと思っていたあの頃〜D.O.」。十八歳未満お断りなゲームです。なんでまたコレなんかといいますと、要するに絵です。原画 紫川弓夜、これで降参したわけであります。ええ。降参しなけりゃこういうイラストのパッケージをレジに持っては行けませんです。で、行ってしまったと。ていうか逝ったというか。
 で、実際ヤってみてですが、紫川弓夜とか嶋尾和とかそっち系統の絵に反応してしまうような人間なら四の五のいわずヤってみれ、ってな感想でありますです。エロゲと成人漫画じゃ違うぜよという向きもあるかもしれませんが、絵だけでなくオハナシもどこか紫川漫画から読み取れるびみょーな少女漫画風味があるのも確か。
 以下、かいつまんで内容の紹介。舞台は卒業まであと五日という高校。視点である主人公は、授業はサボってばかりでも補講を受ければぎりぎり卒業可能という程度には計算の働く文芸部所属の佐々木涼。こいつが校内そぞろ歩いているうちに三年間いろいろあったよなあ、と思い出したり、あるいは過去の清算を迫られたりしまして、んで、女の子相手に十八歳未満お断りな展開に(うまくいけば)なります。その展開のさせ方で、なんというか、いささか古風な少女漫画的泥臭さが。相手の女の子(という年齢じゃないヒトもいるけど)が、マニュアルに明記されている範囲で五人、実際には六人いるんですが、この人たちの過去には何かしら陰になるものが設定されてます。生い立ちであったり、過ちであったり。でもってその設定が作用する方向はというと、許されない恋、って具合なんですな。どことなく少女漫画的禁断の悲恋風味。
 だからして、濃い設定されてるキャラほど印象も強いです。そういう点で飛びぬけてるのが、サブキャラですが佐々木あやめ。義姉だし。彼女の過去というのは、当然ながら弟である主人公と共有しているんで、ますます濃ゆい。そしてヤバい。オハナシ的にもいちばん起伏に富んでいるのが、この義姉との展開でありましょう。
 あと、絵で買ったといいましたが、文章についてもいっときます。水無神知宏氏によるこのゲームのテキストは、紙芝居のト書きだの台本のカケラもどきでなく、ひとつの小説として、“読めます”。くどいといえばくどい言い回しではあるんですが、それでも、書き散らしではない、文体や単語の選び方に気を配った文章になっているのは好感が持てます。濃ゆい設定というのは、一面アリガチな設定ということでもありますが、それをおして読み込んでしまえたのは、絵のせいばかりではなくて、このテキストによるところも大きいです。そういう点でいえば、あやめ姉さんもいいんですが、香織センセのパートがとってもいいです。作者も書いてて楽しかったんじゃないかな(実際は頭ひねりつつ書いたのかも知れないですがそんなことは重要じゃない)と、読んでて思ってしまう文章。もちろん読んでる側は楽しいわけです。テキストについては期待しないで買っただけに、うれしい誤算。
 最後に苦言。誤字がほとんど見当たらない(少なくとも記憶に残るようなのは無いです)ので推敲に工数割いているのは認めますが、だからって禁則処理しないってのはいかがなものかと。素材のテキストにいいもの使ってるんだから、なおさらもったいない。そこんとこが気になってしまいましたです。

2001/11/12

 すご〜く間を空けてしまいましたですが、また、ぼちぼちと。


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