真夏の夜の夢





  【後編】




 予想通り、彼は驚きに顔を引き攣らせたまま、黙ってしまって言葉を返せない。
 セイネリアは唇に笑みを刻んで、体さえ強張ったまま動けないシーグルに手を伸ばして、その髪をそっと撫でる。

「愛している、シーグル」

 シーグルはほぼ反射的に体を引いて、セイネリアの手から逃れる。
 それから、苦しそうに笑うセイネリアの表情に気付いて、彼の顔には罪悪感が浮かぶ。けれどもそれはすぐに戸惑いに代わって、考え込んだまま彼は下を向いてしまった。

「冗談、ではない、のか」
「あぁ」
「本当に……?」
「あぁ、お前を愛してる、何よりも」

 シーグルは自分の口を手で押さえる。それから恐る恐るといった表情で、ゆっくりと顔を上げてセイネリアの顔を見返してくる。
 それをセイネリアはじっと見つめていた。

「その……だめだ俺は……」
「分かっている。お前に俺を愛せとは言わない。勿論そうなれば嬉しいが……そこまでを望んでいる訳じゃない」

 そう、あの時のままのシーグルであったとしても、受け入れてくれない事などセイネリアには最初から分かっている。彼には為すべき役目がある、だから何を選ぶかは、現実のシーグルでもあの時のシーグルでも変わる事がない事くらいは分かっている。

 けれども、このシーグルなら。

 セイネリアは再び彼に手を伸ばす。
 びくりと反応したシーグルは、だが今度は逃げようとしなかった。愛おしいのだと瞳で伝えてセイネリアが見つめれば、内に入れてしまった人間に弱い彼は、苦しそうに見つめ返してくるだけで拒絶を出来ない。
 セイネリアの手が、シーグルの頬を撫ぜる。
 静かに、ゆっくりと、顔の輪郭をなぞるように2、3度撫ぜて、それから離して、指で彼の前髪を払う。

「キスを、してもいいか?」

 彼は再びびくりと肩を揺らす。
 けれども、じっとこちらを見つめると、やはり許してしまう。

「それだけで、いいなら」

 真っ直ぐ見返してくるクリアな青い瞳に、セイネリアの唇は自嘲の笑みしか浮かべられない。
 再び頬に触れれば肌には彼の緊張があって、セイネリアが顔を近づけていくにつれて彼の瞳は瞼に閉ざされていく。
 頬に触れたままの手の親指で彼の唇に触れれば、きゅっとそれが閉ざされてごくりと彼の喉が動く。その様子をじっと見つめていたセイネリアは、自分の唇を彼の唇に触れる直前まで近づけてから止めて、触れていない方の彼の頬に軽く唇を押し付けた。
 顔を離せば、彼の驚いて見開かれた青い瞳と目が合う。
 それに笑ってやれば、触れている彼から緊張が取れたのが分かった。
 だからセイネリアは、また顔を近づけていって、今度はその額に唇を押し付けると、そのまま力の抜けている彼の体を抱きしめた。

「無理をするな」

 緩く抱きしめて、目の前の銀の髪を少し乱暴に撫ぜてやる。大人しくそのままでいるシーグルは、そこで大きく息を吐いて、こちらに体を任せてくる。

「唇にすると思っただろ?」

 少し意地の悪い声で、笑いながらセイネリアは聞いてみる。

「それはっ……お前が、あんまりにもらくしない顔で俺を見ているから……それにわざわざ許可をとってくるなら、絶対、口だと……」

 不貞腐れた声で返してくる彼は、それでも大人しく抱かれたままでいる。

「お前があんまりにも緊張しているからな、口にしたら驚いて噛まれそうだった」
「なんだそれはっ」
「お前みたいな経験の浅いのに、俺が本気でキスしたら刺激が強すぎるだろ」
「それは……確かにお前とは違うが……というかどういうキスをするつもりだったんだっ」
「それはもう、たっぷりとお前の中を味わってだな……」
「……やめろ、想像したくない」

 喉を震わせて声を上げて、セイネリアはシーグルの頭に顔を埋めて笑う。
 シーグルは文句を言ってくるもののやはり腕から逃げようとする事はなくて、セイネリアは彼のその感触と体温と、匂いを存分に愉しむ事が出来る。

――本当にこいつは、内にいれてしまった人間には甘い。

 だからこうして、彼の許せる範囲で留めていれば彼は拒めない。内に入れた人間は、彼にとっては大切な存在になるから。

「俺はお前に多くは望まん。お前は嫌なら拒絶すればいい」

 笑い声を収めて静かに言えば、返す彼の声からも険が取れる。

「……なら、お前の望みはなんだ?」

 どこか不安そうにも聞こえるその声に、セイネリアは一瞬だけ自嘲の笑みをうかべて、それから彼の頭に額を付けて呟くように言った。

「そうだな、俺の望みはたくさんあるが……お前に望むことは一つだけだ」
「なんだ?」

 聞いてくる彼のあまりにも邪気のない子供のような口調に、セイネリアは思わず彼の体を抱いている方の腕に力が入ってしまう。

「ちゃんと自分を守って無事でいてくれ。お前がお前らしく無事で生きていてくれればいい」

 この温もりを、この感触を、手放す事はいくらでも耐えられる。けれど、失う事は耐えられない――鼻を軽くこすりつけて、彼の匂いを感じて、セイネリアは目を閉じた。

「……どういう意味だ?」
「お前は自分の身を軽く見過ぎて無茶をするからな。お前に何かあったらと考えるだけで、俺は生きた心地がしない」
「……それは……すまない」

 少しだけ間をあけて返された彼の声はどこか自信なさげで、叱られて俯く子供の声のようだとセイネリアは思う。

「だから、ちゃんと自分を守れ。俺にとってはお前以上に大切なものはないんだ」

 言えばシーグルが僅かに腕の中で身じろぎして、そうして顔を上げる。
 真っ直ぐ見上げてくる子供のような瞳を見つめて、セイネリアは微笑んだ。

「お前にとっては、俺が一番大切……なのか?」
「あぁ……俺にとっての愛しているとはそういう意味だ」

 その時、彼に浮かんだ表情は本当にあどけない少年のようで。
 瞳を大きく開いて、驚いたように、けれども縋るように切実で、期待と不安と喜びを抑えたその表情は、やけに印象的にセイネリアの胸に焼き付いた。

 だからセイネリアは思う。

 あの時、自分の気持ちに気付いていれば。せめて、彼に執着する自分の感情が他とは違うものだと分かっていれば――彼を、壊してしまおうなんて思わなければ。
 そうすれば、彼は素直に、こうして自分の言葉を素直に受け入れてくれただろう。自分の気持ちを伝える事で、彼が傷つく事はなかったろうとそう思う。

 シーグルが下を向いて、頭をこちらの胸に寄りかからせてくる。

「分かった、お前の言葉はよく、覚えておく」
「そうしてくれ」

 そうして、暫く、この幸せ過ぎる夢を感じてから、セイネリアは、黙って腕の中にいるシーグルに向けて呟いた。

「ラスト、レスト。もういい、十分だ」

 これ以上、彼といればこちらこそが現実ではないかと錯覚しそうで。
 これ以上、彼を抱いていたら手放せなくなりそうで。
 まだ、理性が判断出来る内に、彼を手放さなくてはならない。だから、もう終わりにしなくてはならない。
 腕の中のシーグルから、体の力が抜ける。
 彼の全体重を受け止めてやって、それから抱き上げてやって、相変わらずあどけない彼の寝顔を見つめて、セイネリアは眠る彼に告げる。

「覚えておけシーグル、俺にとってお前が一番大切なのではなく、お前だけしかいないんだ。お前だけが大切なんだ」

 そうして、夢の名残を噛みしめてから、セイネリアはそっとシーグルの唇に口づけた。







 双子の少年達がセイネリアの部屋へと入れば、そこには椅子に座ったまま、銀髪の青年を抱いている黒い騎士の姿があって、彼らは急いで頭を下げた。

「その、ごめんなさい、マスター」

 ぴったりと声を揃えて謝った白い髪の少年達に、だが怒りの言葉は返ってくる事はなく、いつも通りの落ち着いた声が掛けられた。

「そうだな、悪いと分かっているなら、勝手にこいつに何かをするのはもうやめろ」
「ごめんなさい」

 怒ってはいないが、諌める言葉で始まった事で、少年二人は不安そうに彼らの主を見上げる。そうすれば彼は軽く笑って、今度は柔らかい声で言ってくる。

「怒ってはいないさ……いい夢は見させて貰った。その分では礼を言っておく」

 それは本心なのだろう、腕の中で眠る最愛の青年を見下ろす彼の瞳は驚く程優しく細められていて、その存在が愛しくてたまらないのだというのが一目で分かる。
 だからこそ、そんな彼の表情が曇る事自体が耐えられなくて、双子の兄、ラストは言った。

「マスター、マスターが望むなら、まだずっとその人に夢の続きを見させていられるよ。ずっとマスターの傍に……」

 一番どうにもならない時にセイネリアに助けられて、それからずっと保護されていて、彼の役に立ちたくて彼を喜ばせたいと願うこのアルワナ神官の少年は、ただ、見ていたかったのだ。
 愛する人を抱きしめて、幸せな笑みを浮かべるセイネリアを。最初に会った時は、人間ではないのではないかと思う程見せかけだけの感情しかなかった空虚な男が、満たされた笑みをうかべるところを。ずっと、ずっと、見ていたかった。

「だめだ。言っただろ、もうこいつに何かするのはやめろと」
「でもっ」

 けれども、返ってきた言葉はそれを否定する。それは予想出来ていた事であっても、やはりラストは簡単に諦めきれなかった。

「眠っているこいつを眠らせたまま連れてきたんだろ。なら、朝までに返さないと大騒ぎになる」
「でも、でもマスターならどうにか……」

 黒い騎士の唇に自嘲の笑みが浮かび、その金茶色の瞳が静かに腕の中の青年を見つめる。眠っている青年の髪を撫ぜながら、最強と呼ばれたこの団の長である男は告げる。

「そうだな、暫くなら誤魔化す事は可能ではある、もしくは勝手に騒がせておいて後がどうなろうが無視するという手もあるが……それはあくまでも、こいつが本当に俺の元へ来てくれるならという前提だ」

 けれど、その言葉の意味がラストにはよくわからなかった。

「本当に、来てくれるって?」

 だから尋ねれば、セイネリアは顔を上げて、いつも双子達を諌める時に浮かべる彼らしい笑みをうかべる。

「どちらにしろ、ずっと眠らせておく訳にはいかない。夢はやはり嘘だ。嘘の中のこいつを手に入れても仕方ない。お前達が心配しなくても、俺は、俺の手でシーグルを手に入れるさ」

 その顔をじっと見ていれば、後ろから服を引っ張られるのを感じて、ラストは振り向いた。遠慮がちに、それでも止めるように見つめてくる双子の弟の顔を見て、ラストは大きくため息をついた。

「分かったら、アリエラを呼んでこい。地下にある部屋にいるらしいからな、あいつに言えば、シーグルを部屋まで直に連れていけるだろう。……どうせ夢なら、最後まで楽しませて貰うさ」

 言って笑った言葉の意味はその時の双子には分からなかったものの、シーグルを送りにいくのに付き合ったアリエラの愚痴を、のちに彼ら二人は聞いた。



「あーもうまったく、こっちの方が恥ずかしかったわ。もうあの男、どんだけキスしてる気なのよってくらいずーーーっとねちっこくベッドに寝かせたあの子にキスしまくってたのよ。こっちがいるのもお構いなしっ、あーもー、本っ当に恥ずかしいったらなかったわよ」








 寝苦しさに唸って目を覚ませば、勿論そこは自分のベッドの上で、シーグルは窓から差す光に少しだけ顔を顰めた。
 起き上がるには少し体が怠くてベッドの中に暫くいれば、外からリパ大神殿の鐘の音が聞こえてきて、その鐘の音を数えた途端、シーグルはベッドから飛び起きた。

「……う……」

 けれど、起き上がってすぐ、やけに怠い体に思い切り顔を顰めて、らしくなくあくびなどしてしまって、シーグルは考える。

「ただでさえ寝坊なのに、なんでこんな眠いんだ……」

 それでも無理矢理起きようとベッドから下りたシーグルは、未だはっきりとしない頭を手でぐしゃぐしゃと掻いてから、顔を洗う為に水がめの方へと歩いていった。
 そうして、鏡の前を通った時、シーグルはふと自分の姿を見て足を止める。

「なんだ?」

 昨夜は少し暑かったせいか、寝間着の首元のボタンが全部外されていて、しかも首元には僅かに赤い跡がある。まるでキスマークのようでもあるそれに最初は驚いたものの、じっとみればほんのりと赤い程度で、まさかと思いなおしてシーグルはそこを手で撫でた。おそらく、暑くて首元のボタンを外した時にでも、軽く引っ掻いてしまったのだろうとは思うのだが……。

「まさかな……それにあいつがつけた時はもっとこうはっきりと……」

 と、呟いてしまってから、唐突にシーグルの頭に、おそらく昨夜見ていただろう夢の一場面が浮かびあがった。
 今口に出した黒い騎士の姿が浮かんで、ついでに唇にまるで本当にキスされたかのような感触がよみがえる。そうすれば次々と、彼の匂いやら気配やらまで思い出してしまって、シーグルはその場で口を押えたまま固まってしまった。

「何で、俺は……」

 こんな事を思い出してしまったのだろう、と。
 呟いて、シーグルは唇をぎゅっと噛みしめた。




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そんな感じでとある夏の夜のお話でした。シーグルさん、実は知らない内にセイネリアと会っていたという……。

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