黒い騎士と黒の剣




  【21】





『わかりました、あなた方にはもう何も致しません。あの場所の事を他言しないと、それだけを約束して頂ければ結構です。……ですが、貴方には、少し話があります。その剣に関する事です、貴方にとっても有益な情報の筈』

 そう言って、魔法使いの一人が作った隔離幕のようなものの中へセイネリアと魔法使い代表の男が入ってから、かなりの時間が経って、やっと両者はそこから出てきた。入る前はまだ太陽は真上にまできていなかったのに、もう真上を過ぎて少し落ちてきている辺り、彼らの話には相当に時間が掛かったと言えた。
 ただし、出てきた二人の表情はどちらも不機嫌そうというか、少なくとも欠片も笑みはなくて、両者共におもしろくない話だった事は確かそうだとラスハルカは思った。

「おいセイネリア、腹減ったんじゃねーか。食うかー?」

 出てきた黒い騎士に、真っ先にそう言いながら向かっていったエルは、その彼とは対照的にやけに笑顔だった。

「そうだな、確かに腹は減ったな。食えるものがあるならくれるか」
「おー、待ってな、今準備してやっからよ。あ、とりあえずこれ食っとけ」

 たき火の前に刺しておいた肉の串をセイネリアに渡し、エルは急いで他の材料を切り分け出す。そのあまりに調子のいい様子に、不機嫌そうであったセイネリアが僅かに口元を歪めた。

「随分、いたれりつくせりだな。気味が悪い程に」
「いやー、そらもうな、お前にゃ今回随分と借りが出来ちまったからなぁ」
「借りとは、記憶を消されなくて済んだ件か」
「まー、一番はそれだな。後は他にも、結界から出してもらった件とか、クリムゾンの暴走を止めてもらった事とか……今回ばっかは、お前がいて助かったというより、お前がいなきゃ助からなかったレベルだからな。感謝してる、本気でな」
「成る程、なら素直に受けておこう」

 少しだけ機嫌が直ったのか、その場で彼は座り込むと、グローブを外し、エルから渡された肉串を持ち直してそれを食べ出す。外見通りの、その豪快な食べっぷりを見ながらくすりと笑って、ラスハルカは彼の近くに行くとその場に座った。

「あまり楽しくない話だったようですね」

 租借しながらこちらをちらと見た彼は、口の中のものを飲み込むと、指についた脂を舐める。

「まぁ、魔法使いとの話など、そんなものだとは分かっているがな」
「へぇ、で、何話したんだ?」

 丁度、両手に椀を持ってやってきたエルが、そこですかさず聞いてくる。
 セイネリアはそれに最初視線だけ向けて、黙って彼に圧力を掛ける。普通の者ならそれで震え上がるところだろうが、さすがにつき合いが長いだけあって、エルは自分が聞かない方がいいことを理解したのか、そこでため息をついた。

「わーったよ、聞かねぇって」

 言いながらエルが渡した椀を受け取って、セイネリアは彼から視線を外す。ちなみに椀の中身は、先程皆で食事をした時に作ったイモのスープだ。

「聞いたら、今度こそ本当に記憶を消される事になるぞ。その時は放っておくからな」
「……わかった」

 エルは盛大に肩を落として、その場にどっかりと座り込んだ。

「それなら私は聞いてもいいでしょうか」

 にこりと笑ってラスハルカが言えば、椀に口を付けようとしていたセイネリアがこちらを見る。事情を知っているエルはそれに顔を顰めて、抗議の視線を投げつけてくる。なにも今言わなくてもいいじゃないか、という事だろう。
 ラスハルカは、殊更顔に笑みを浮かべて言葉を続けた。

「私は、記憶の消去を受ける事にしました」

 セイネリアは何も言わず、ただ瞳に威圧を込めてこちらを睨んでくる。それに体は反射的に強張るものの、彼が怒る事も予想済みであるから、心の準備は出来ていた。

「折角貴方が交渉してくれたのに申し訳ないとは思うんですけど、私は立場上『秘密を守る事』は不可能なので。貴方なら分かるでしょう?」

 ラスハルカが何の為にここにいるのか、それを知っているセイネリアであれば、それ以上を言う必要はない筈だった。ラスハルカがアルワナ神殿の者である以上、今回の事を黙る事は出来なかったし、そもそも黙ろうとしても、神殿に戻って他の神官から術を掛けられれば隠す事は不可能だった。

「律儀な事だな」

 セイネリアもすぐにそれを理解して、椀の中のスープを啜る。面白くなさそうな表情はそのままだが、既に興味は失せた、というのは彼の態度で見て取れる。

――所詮私はその程度でしょうね。

 一瞬、ラスハルカの笑みに自嘲が混じる。けれどもそれは分かっていた事だと、彼は自分自身に言い聞かせて笑みを取り繕う。

「仕方ないでしょう、それに、ここでの事は全部……貴方の事も、忘れてしまった方がいいと思いましたしね」

 それでも未練がましくそんな事を言ってしまったのは、我ながら馬鹿だとはラスハルカも思う。
 他人に情を感じない男は、それでもこの手の事には慣れの分、察して食事の手を止める。ただ今の台詞は相当彼にとっては気に入らないものだったらしく、ラスハルカを睨んできた目は更に険悪だったが。

 はやまったかな、とも思う。
 
 たとえばこのままラスハルカがシラを切り通して、彼に余分な事も言わず、皆と一緒にただ解放され、別れたとする。それならまた、何かの折りにセイネリアに会えたなら、おそらく彼は、前からの続きのような関係を許してくれたろう。情報交換のついでのような気楽な体だけの関係を、会う度に重ねていけただろうと思う。それはそれで割り切れるなら心地良いのかもしれない。
 けれど、痛む心は抑えられない。
 心に残る未練と欲求は無視できなくなる。
 それで苦しむのはごめんだ、というのがラスハルカが出した答えであった。どうせ求めても何も得られない相手なら、忘れて今までの自分でいた方がいい。

「商売柄、これからの仕事に支障があるような要素はない方が良いですからね。ここはさっぱりリセットしておくべきでしょう。どちらに対して嘘をつかなくてもよくなりますし」

 それでセイネリアは幾分か瞳の険を抑えて、また何事もなかったように食事を続ける。ぎりぎり嫌われなくては済んだかなと思いつつ、暫くこちらを見ずに食べる彼を見てから、思い切ったようにラスハルカは席を立つ。

「では、行きますね。私はここでお別れです」

 あらかた食べ終わったセイネリアが、それでやっとこちらを向いてくれた。

「ここから一人で帰るのか?」
「いえ、記憶操作を受けるならクストノームまで連れて行かれるらしくてですね。終わったら好きな場所に送って行ってくれるそうです」
「成程、言う事を聞いた者へのサービスか」
「ったく、ついでに俺らもせめて樹海の外まで連れて行ってくれりゃいいのによ」

 エルが魔法使い達に聞こえるように大声で言えば、いつの間にか火の傍に来ていたサーフェスが話の中に入ってくる。

「うん、だから皆も樹海を出るとこまでは連れていってもらえるようにしたよ。なにせ、僕とアリエラもクストノーム行きだからね。僕らがいないと、残った皆が樹海を無事に出れるか怪しいでしょ。どーせ、彼らがあれだけ人数連れてきたのは、ハッタリもあるんだろうけど、こっちの全員をクストノームに連れて行く為の転送役てのもあるだろうし、その程度させちゃっていいんじゃない、って事で交渉しといたよ」
「おー、そりゃ有難いね」

 上機嫌で抱き付こうとしたエルを、だがサーフェスはひょいと避けて、座っているセイネリアの前にまでやってくる。よく見れば彼の後ろにはアリエラもいて、どうやら魔法使い見習の二人も最後の挨拶に来たらしいと思われた。アリエラは、回りの者と目が合うと軽くお辞儀をしていたが、避けられたエルが体制を崩して地面に座りこむのを見て笑っていた。

「ねぇ、別れる前に聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「なんだ」

 セイネリアの返事を聞いてにこりと笑顔を浮かべたサーフェスは、けれど口を開けた途端、顔からその笑みを消した。

「アリエラが空間を作る時に、あんた力を貸したよね。彼女に聞いたんだけど、術は完璧じゃなかったのに、余剰の力があったせいで成功したって。その力さ、今度僕にも貸して貰う事って可能かな?」

 セイネリアはすぐには返事を返さず、じっと魔法使い見習いの青年の顔を見つめる。

「出来ればあまりやりたくない……が、お前がやろうとしている事が俺にとっても面白いと思えるか、お前がそれなりの代価を出すなら、だな」

 その言葉はサーフェスとしては満足できるものだったらしく、彼は満面の笑みを顔に浮かべた。

「それじゃ、その内、準備が出来たら頼みにいこうかな。……代価は別途考えておく事にしとくよ」

 それでさっさと魔法使い達の方に行ってしまったサーフェスに気付いて、急いでアリエラも彼を追おうとする。だが、そんな彼女をエルが呼び止め、彼女の足は止まる事となる。

「あっと、その、アリエラ、一言だけ」
「え? 何?」

 エルからの用件にまったく心当たりがないためか、魔法使い見習の少女は、歳相応に見えるキョトンとした表情で首を傾げた。
 エルは一瞬だけ口元をいいにくそうにもごもごと動かして、それから思い切るように彼女に言った。

「ウラハッドがさ、最後……あんたに、『代わりに死ぬんじゃなくてごめん』って伝えてくれってさ」

 一度、大きく目を開いて呆然とした表情をした彼女は、その次の瞬間には、不機嫌そうにぎゅっと顔を顰める。それから、一言。

「馬っ鹿みたい」

 唇を尖らせて、吐き捨てるようにそう言い放つ。それは声だけなら、怒っているように聞こえるものだった。
 けれども、言葉の語尾は僅かに震えていて、更に彼女は、すぐにエルに背を向けると、そのまますぐにサーフェスが行った方向へと走り去っていってしまった。
 残されたエルは何も言わず、ただ苦笑を顔に張り付かせて彼女を見送っているだけだったが、後ろを向いた彼女の肩が震えていた事には、彼も気付いたのだろうとラスハルカは思う。
 けれど、そんなエルを見ていれば、気付いた彼がこちらを向いたことで、ラスハルカは思わず彼と目が合ってしまった。

「あんたも行くんだろ。じゃぁまたな……って、いう言葉は意味ないか」
「そうですね」

 わざと茶化すように頭を掻いてみせたエルに、ラスハルカは笑ってお辞儀をすると、サーフェスやアリエラの後を追うように、彼らが行ったのと同じ方向へ足を向けた。……だが、一度はそちらに向きはしたもののまた振り返って、ラスハルカは最後に、座っている黒い騎士に向き直った。

「いつか、こうして、貴方から離れていこうとする者を、貴方が『行かないでくれ』と言う事はあるのでしょうか。貴方が離したくないと思う者が貴方に現れるのでしょうか」

 本気でまだ未練があるんだなと、自分の言葉に笑いたくなりながら、ラスハルカは最後に最強と呼ばれた男――おそらく、剣の所為でそれが誰にも覆せない程確定されてしまった男の顔を見つめた。
 セイネリアの顔に、らしくなく自嘲の笑みが浮かぶ。

「さぁな。俺もそれは興味があるところだ」

 ラスハルカは笑う。くすりと、声を漏らして。それから最後に、思い切りの笑顔を嫌味のように彼に向けて言った。

「現れるとしたどんな人物でしょうか。そんな人物が現れたなら、是非、教えてほしいものです。……もっとも、次に貴方に会ったとしても、貴方の事を覚えていない私は、貴方にとってはただの他人でしょうけど」

 セイネリアという男なら、彼自身を知らない人間に対しては知人だと認識さえしてくれずに無視するに違いない。自分は彼にとってその程度の人間でしかないだろう。
 笑みを一瞬だけ曇らせたラスハルカは、それを彼に見せる前に背を向けた。残した未練はこれですべて終わりだと自分に言い聞かせて。
 ただ、自分の方は、たとえ記憶を失ってあの黒い騎士の事を忘れたとしても、この心に残る甘い疼きは消えないのだろうとも思っている。けれども、それはそれでいいだろうともラスハルカは思う。
 全く、感情というものは厄介だ。
 ラスハルカは、アルワナの神官としてたくさんの相手と寝ていたし、これからも寝る事になるだろう。そんな中で、特定の男の影を見る事は許されないし、自分としてもそれでやりきれない思いをしたくはなかった。
 それでも本当は、彼が少しでも自分に執着を見せてくれれば。せめて口だけでも『俺の事を忘れていいのか』と言ってくれたなら、ラスハルカはそのやりきれない思いをずっと胸に抱いていこうと思っていたのだ。
 とはいえ、そんな事、殆ど望みはないと思っていたから、わざわざ嘆きはしなかった。自分程度では彼の心を縛れないという事くらい、最初から分かっていたのだから。
 ただだからこそ、あの心になんの熱もない男が人を愛するような事があるなら……それを見てみたいとラスハルカは思う。あの男がどんな風に、そしてどんな人物を愛するのかと、それにはとても興味があった。

 ――もし、そんな事があれば、ではあるが。

 けれど、そうして立ち去ろうとしたラスハルカの背後に、予想外の声が掛けられた。

「別に、お前が俺を覚えていなくても、お前自身が変わるわけでもない、俺がお前に認めた価値は変わらない」

 それでラスハルカは振り返る。目を大きく見開いて。

「案外、俺はお前を気に入ってる、次に会っても敵側でなければ、お前が役立つ分くらいは助けてやってもいいくらいにはな」

 凄みのある金茶色の瞳をこちらに向けて、けれども口元だけに笑みを浮かべる男を見て、ラスハルカはすぐに顔を前に戻すと、思わず口を手で覆った。

 まいったなぁ、という言葉しか出てこない。

 笑みなのか泣きたいのか、歪む口元をどうにも出来なくてラスハルカは困る。目頭まで熱くなってくるに至って、逃げるようにその場を離れた。
 彼は、他人に影響されない。自分の感覚だけを信じている。あくまで自分の認識と価値観にだけ拘るからこそ、相手がどうであろうと気にしないのだろうか。かろうじてその程度の予想は出来たものの、これは計算違いだ。
 まだ自分は彼をよく分かっていなかったのだと、ラスハルカは思う。本当に、こちらの持つ尺ではこの男を測れはしないのだと。

 彼の本心は分からなくとも、彼の言葉に嬉しいと思ってしまうのだから自分も大概おかしいと、口元をはっきり笑みに歪めたラスハルカは、喉をひきつらせるように静かに笑った。

「本当に、まいったなぁ。どこまでも勝手過ぎて……これじゃぁ忘れる意味がないじゃないですか」

 そして呟く言葉と同時に、彼の頬には、一筋だけ、涙が伝い落ちた。




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次は、後日談的なお話。そしてやっとこさ終了です。


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