導師の塔に住む者達
<成長編・2>





  【7】




 夜も更けたこの時間はどこまでも静かで、暖炉で爆ぜる火の音や、人の小さな動作の音さえもが部屋によく響く。
 食後からはもう大分経ったこの時間、目の前の空になってしまった茶の入っていたコップを眺めて、ティーダはふぅ、と息をついた。

「はい、もういいですよ」

 やっとそう言われて、今度は大きく背伸びをする。

「やーーっとかよ。どんだけ念入りにやってるんだ」

 そうしてティーダが後ろの弟子をじとりと睨めば、彼はやけに上機嫌でこちらを見ていたその顔を少しだけ顰めた。

「それは貴方も悪いんですよ。俺がいない時に扱いが酷い分、手を掛ける時はきっちりやっておかなくてはならないんですから」
「俺の所為かよ?」
「はい、そうです」

 ったくよ、と、そこでいつも通りに頭を掻こうとして、今髪を整えたばかりなのにティーダは気づく。だから行き場のなくなった手で仕方なく、目の上を軽く押さえた。

「あのなー、いいんだよ別に髪くらい、俺自身が気にならないんだからっ」

 言えばメイヤはため息をつく。いつもの事だ。

 宣言通り、メイヤは夕飯後にティーダの髪を洗うと言い出し、抵抗も虚しくそれは強制的に決行された。
 なにせ長い髪であるから、洗うとなれば手間が掛かる。だが一番の問題は洗った後の方で、メイヤは念入りに髪を拭いた後、念入りに油を刷り込んで、更に念入りにまた拭いてくれるのだ。その為髪を洗うとなると、いつも終わるのは月が一番高い位置を過ぎて下り出した頃で、夜の作業は全くできずに寝る事になる。
 ティーダとしてはその間座ってしゃべっているだけなのだが、終わった後は本当に疲れる。何もしていないのに、体は軋むわ気力はなくなるわ、本気で勘弁してもらいたいところだった。
 それでもその間、メイヤがやたらと機嫌よく、嬉しそうにしているのだから、文句は言いつつも結局は最後まで付き合ってしまう。
 なにせ、ティーダは自分が彼に甘いという自覚がある。いや、甘いというよりも、彼が喜ぶ姿を見るのが単純に自分も嬉しいのだ。

 ――今日、使い魔のサック・リーアが返事の手紙を貰ってきた。

 相手は旧知の魔法使いで、あまりギルドと関わらないようにしている者な為、中枢の話は分からないが、そのかわりに横のつながりからの噂話はいろいろ聞く事が出来た。
 ちなみに、最初に連絡を取ったのがなぜそんな人物だったかといえば、なにせ数十年ぶりに外の連中と連絡を取るのだから、いきなりでも騒ぎにならないようにギルドと関わりが薄い人物で、口が固いという条件を足した結果である。口が固いというよりは、地位や力などという世俗的な事は勿論、他人にあまり関心がないので騒いだり言いふらしたりしないという人物なのだが。

 ともかく、彼との返事で分かった事で、一番ティーダにとって驚きだったのは、賢者派、なんてものが今でもギルドに存在しているという事だった。しかも、現状そのトップがクノームだという事まで分かれば、そりゃ情報をある程度抜かないとならないだろうよ、としか言いようがなかった。
 ここで、クノームに直接、何やってるのだと問いただすのは簡単だ。彼にだけは直接連絡をとる手段があるから、すぐにでも呼び出して聞けばいいだけの話である。けれども、隠しているからにはそれなりに不味い事をがあるという事でもあるし、そもそもクノームが正直に話すかが一番の問題だろう。
 だから結局、知り合いを頼って少しづつこちらから調べていくしかないか、というのが現状のティーダが出せる結論だった。
 ただ、誰に連絡をとるかという問題は、今回の話を踏まえると更に難しくなってしまった。賢者派なんてものが今でも残っているのだとしたら、その派閥……つまり、かつて自分についていた連中に声を掛けるのは止めた方がいい事となる。そうなると殆ど選択肢がなくなってしまうのだが……もしくは、かつての自分と共にいた者達でも、現在確実に隠居生活に入っていると分かっている者とか。
 思いついた人物に、ティーダは自然と顔を顰める。
 彼にはあまり頼りたくない、というよりも、頼る資格がない。

「師匠?」

 呼ばれて急いで振り向けば、あまりにも近い位置のメイヤと目があって、ティーダは飛び上がるばかりに驚いた。体が跳ねた所為でクッションが滑って、そのまま床に背をつけて倒れると、今度は上から見下ろしてくる、どこか呆れたような弟子の瞳があった。

「考え事ですか? それだけ驚くって事は、何かよからぬ悪巧みですか?」
「ば、ばっかやろう、お前があんま傍にいたんで驚いたんだよ。しかも、師匠に向かって悪巧みってのは何だ、悪戯するガキにいう母親かよ」
「似たようなモノです。師匠に関しては、人間というのは長年誰にも怒られずにだらだら過ごすと子供のような行動と生活になる、といういい例だと思います」

 魔法に関してはどこまでも真面目で低姿勢なこの弟子は、通常生活の事になると態度を逆転させる。話し方は変わってないのに、こういう時の丁寧語の嫌味ぶりは本当に小憎らしい。
 だがそれで、ティーダがむっとして相手を睨めば、睨まれたメイヤの方はにこりと笑う。
 それからティーダの体を起き上がらせて、クッションの位置を整えて座らせて……気づけばいつもの姿勢でいつもの場所に座っているのだから、その手際のよさには、感心を通り越して自分のされるがままぶりにティーダは落ち込みたくなる。

「さて師匠、約束通り、髪の手入れを最後まで我慢してくださいましたから、お酒をお出ししましょうか?」

 『我慢していたらご褒美』なんて扱いをしてくる段階で完全に子供相手のやり方なのだが、悔しい事に、それで折れる自分にもティーダは呆れる。そしてやはり、『ご褒美』の話となれば、嬉しくなるのも我ながら腹立たしい。

「……おう、さっさと用意してこいよ」
「はい、承知しました」

 お辞儀をして去っていく弟子の青年を見上げながら、ティーダはため息をついた。
 こんな事で嬉しくなるとは、自分も随分安くなったものだと。

 メイヤが来る前は、ティーダはほぼ毎晩酒を飲んでいた。と、いうよりも、酒を夕食代わりにしていた日が多かった。
 言っておくが、いくら怠惰な生活をしていたといっても、朝から晩まで飲みだくれるダメ人間をしていたという訳ではない。酒を飲むのは決まって夜で、昼の時間に手を出すことは滅多になかった。

 深い森の中は、昼でさえあまり明るくなる事はない。
 けれども、昼はまだ、森の動物達の僅かな気配や、元気な鳥の鳴き声に心を落ち着かせることが出来た。風の音に耳を傾け、遠い鳥の声を聴きながら静寂を愉しむのは、ティーダにとっては昔から至福の時であった。

 それが、夜になると、その静寂に耐えられなくなる。

 別に、暗闇や夜の動物たちが怖いなどという事はない。夜に鳴く虫や鳥だっている。風の音だって別段昼と変わるわけではない。だけれど、夜の静寂はあまりにも静かで、まるで世界から切り離された別の場所にいるような気になる。森の外には実は誰もいなくて、自分はこの世界に一人だけ取り残されたのだと、そんな馬鹿な気持ちにさえなってくる。
 だから、ティーダはよくそれを酒で誤魔化していたのだ。

 遠い昔、酒で頭の思考力を無くして感情を誤魔化そうとする行為を、自分は笑っていた筈だったのに。気づけばいつの間にか、自分自身、逃げる先が酒しかなくなっていたというのは酷く滑稽な話だった。
 それでも、今、こうして酒がなければないで過ごせる自分は、多分……。

「師匠、お待たせしました」

 姿を現した弟子の姿に自然と笑ってしまったティーダは、それに気づいて少しだけ照れて鼻を掻いた。

「つまみは、夜遅いですからね。木の実系だけにしました」
「そりゃいいが、もうちっと出せよ、んっとにケチだなぁお前は」
「ケチというより、健康上の調整ですよ。こんな遅い時間にたくさん食べるのはよくありません」

 義務のようにこちらの健康管理に拘る彼には、ティーダとしては苦笑しか出ない。

「俺が健康気にしても仕方ないのにさ……」

 その言葉の意味だってちゃんとわかっている筈なのに、メイヤはティーダの健康管理にしつこく拘る。
 それで、結局律儀に付き合ってしまうのだから、実は自分はこんなやりとりが楽しいのかもしれない、とティーダは薄々気づいていた。
 晩酌の準備も手慣れた様子で、真面目な弟子はてきぱきとティーダの目の前に布を敷き、その上につまみの皿と酒とコップを置いていく。手拭き布と水の入ったコップまで置いてから、さぁどうぞと笑って下がろうとしたメイヤに、だがふと悪戯心が湧き上がって、ティーダは彼を引き留めた。

「おいメイヤ、コップをもう一つ持って来い」

 一瞬、彼は体の動きを止めて驚いて、けれども言葉の意味に思い至れば、少しだけ緊張した面持ちになる。

「お前ももう大人だろ? だったら、たまの晩酌くらい付き合え、それが大人の付き合いってもんだ」

 満面の笑みでそういえば、メイヤは暫く考えた後、ごくりと喉を鳴らした。

「はい、分かりました」

 そうしてすぐに奥へと彼が行った途端、ティーダは耐えきれずにぷっと吹きだした。最近では魔法の事以外では適わない、あの小憎らしい坊主を少し思い知らせてやるか、とそう考えれば、笑い声さえ上げたくなる。

 グラスを持ってきたメイヤが、ティーダの前に座る。
 ティーダが酒壺から酒を汲んで彼に向ければ、彼はコップを前に差し出す。

「では師匠、頂きます」

 癪な事に図体は自分よりも大きな弟子が、そういって神妙な顔をしてコップに口を付けるのを、ティーダはにやける顔を無理矢理微笑みに変えて見つめた、のだが。――それから暫く後、ティーダの顔は思い切り不機嫌そうに顰められていた。

「おっまえ、酒初めてだろ、なのになんだよ、その可愛くない飲み方は」

 師の前で、きっちり正座をして座っている行儀のいい青年は、それに少しだけ困ったように首を傾げて、それからさらりと返してくれた。

「とはいいましても、元々うちの家系は酒飲みなんですよ。父親も兄達も全員強いですからね。年末に兄達が実家に帰ってくると、父と一晩中飲んでますし。それで俺が弱い方がおかしいでしょう」
「うるせー、モノにはお約束ってのがあるんだよっ」
「なんですかそれは……」

 酒が初めてのお子様が、酔っぱらってふらふらする……というシチュエーションを想像していたティーダとしては、まったくもって面白くない。笑ってやるつもりが完全にアテがはずれて、ティーダとしてはつまらないどころの話ではなかった。

「ほんっとーにお前は可愛くないな。ガキらしくねぇっ」
「ですから師匠、俺はもう大人ですって」
「うるせー、俺からすればなぁ……」
「はいはい、たとえじーさんになってもガキだって言いたいんでしょう。でも、一般的には俺はもうそろそろ成人ですし、労働力的にはもう大人扱いになってる歳ですから」

 何を言っても、すまして行儀よく酒を飲むメイヤを見ていれば、ティーダとしては自分の方が酔って言いがかりをつけているような気になる。というか、実際ハタから見ればそれ以外の何でもない。
 だから悔し紛れに出てくる言葉も、お約束のいつもの言葉になる。

「……ほんとに口の減らないガキだな」

 そうすればメイヤは、やっぱりすまして答える。

「と、いうよりも、あなたの扱いは慣れました。言う事の予想がつきますので、返すのも楽です」

 そうなればティーダは、ぐっと唇を引き結んで黙る。本気で魔法の事に関して以外は、最近この弟子に勝てる気がしないのだから癪にさわる事この上ない。
 だからグラスの中身を豪快に煽って、見せつけるように床に置いた。

「もう今日はお開きだ、俺は寝るっ」

 だがそう言って、勢い良く立ち上がったティーダは、立った途端、下半身がかくりと力を失ってその場に座り込むという事態になった。

「え?」

 なにが起こったのか、その時すぐにはティーダは理解出来なかった。
 けれども、また立とうとして、その場に座りこんで、それでやっと自覚する事が出来た。
 どうやら、飲み過ぎて足にきたらしい、と。
 そういえば、メイヤを酔わせようとして自分もがんがん今日は飲んでしまったし、飲むの自体も久しぶりだったし……自分のペースをすっかり忘れていたというのは否めない。
 このところこんな状態になるまで飲む事がなかったから忘れていたが、ティーダは酒は基本的に強いので、酒で我を失う事はあり得ないのだが、本気でやばいラインを越えると足に来るのだ。昔はそれで、何度か部屋まで抱き上げて運んでもらった覚えもある。

「師匠、どうしました?」

 心配そうに立ち上がったメイヤを見上げるのは悔しくて、ティーダはその場に座ったまま声だけで返す。

「足に来た」
「足? 足がどうかしたんですか?」

 このやろう、分かってて聞いてるんじゃないだろなと、今度は顔を上げて目だけでティーダは訴える。メイヤはそれでも首を傾げ、表情だけなら本気で心配そうにこちらを見下ろしてくる。
 そこで、ついに堪え性のないティーダが切れた。

「だっから、酔いが足に来て立てねーんだよっ」

 メイヤはそれを聞いて、ワンテンポ遅れてからやっと事情を察したのか、それはそれは嬉しそうな満面の笑みをその顔に浮かべた。

「そうですか。では、ベッドまで運んで差し上げますね」

 語尾を跳ね上げて、文字だったら音符やハートが最後につくくらい嬉しそうにメイヤは言うと、早速ティーダの体に手を回して抱き上げようとする。

「待て、そこまですんじゃねー、肩貸してくれりゃいいんだよ。支えて貰えりゃ歩けっからっ」

 しかしながら、ティーダのそのセリフが終わる頃には、既に彼はメイヤの腕の中でお姫様だっこ状態で逃げ様がなくなっていた。

「はっずかしいだろ、この抱き方はなんだ、おろせっ、おーろーせー」

 この状態で暴れてみても、それこそ無駄な抵抗というやつだろう。

「いえいえ、大事な師匠を運ぶのですから、それはもう丁重に扱わなくてはならないでしょう。遠慮なさらないでください」
「遠慮なんかしてねぇっ」

 ただでさえもう腕力で勝てない相手に、この状態から逃れる術があるはずがない。腕やら胸やら叩いてみても、男らしく頼もしいそれらはまったく動じる気配がない。しかも酔っているせいでどうやら腕にもあまり力が入らないらしく、なんだかあまりの無駄ぶりにティーダは自分が情けなくなってくる始末だった。

 そして勿論、この状態でベッドまでくれば当然の事に、それだけで済む筈もないのだ。

「ティーダ」

 彼が名で呼んでくるのは、そこから先は師弟の関係ではないという合図。
 暗闇に映る彼の瞳はどこまでも優しく自分を見つめ、ふわりとにベッド下ろしてくれる腕は、細心の注意を払って慎重になされている事が分かる。
 それが、彼は自分を大事にしてくれている、という事を、口で言う以上に知らせてくれるから困るのだ。

「俺ァ、今体に力入んねぇんだが」

 無駄なあがきと分かっていてもそう言えば、メイヤはにこりと笑う。

「俺は気にしませんよ」

 それどころか、かえって都合がいいですと続きそうな嬉しそうすぎる顔に、思わず口元がひきつって、ティーダはぎろりと弟子を睨んだ。

「ったくよぉ、嬉しそうにしやがって」
「えぇそれはもう、嬉しいですから」




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いつも通り師匠と弟子のいちゃいちゃでした。
次回がこの流れでエロになります。



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