記憶の遁走曲




  【4】



 目の前に、ほわりと白い靄が現れる。
 だから、荒くなる息を整えて、体の動きに合わせて、腕を伸ばし剣を前に。口から現れる白い靄は元から白い視界を更に白く濁らせるが、もう何度もやっている動作は見ることに頼ってはいない。
 さすがに冬場は早朝の訓練に森へ行くという訳にもいかず、シーグルはその分騎士団へ早く来て、一人、剣を振っていた。リシェにいた頃は、冬は屋敷の庭でやっていたのだが、今の首都の館では、朝早くから庭で剣を振り始めると、兄が気を使ってちょこちょこ顔を出しにくるのだ。ただでさえ、自分の早起きに合わせて起こしてしまっている兄を、これ以上余計な気を使わせたくないので、結果、冬の朝の訓練はここでやることにしていた。

『ンな、くそっ寒い時くらい、もうちょっと手抜いとけばいいじゃねーか』

 ウィア等はそう言っていたが、シーグルが剣を振るのはただ鍛える以外にも実はいろいろ意味があった。
 新しい部下達に接して、未だに各個人を把握出来ていない状況に、どうやら自分は相当参っているらしい、という自覚がシーグルにはあった。というのも、なんとなく苛立つような、落ち着かないような気分が常時抜けず、だからこうして剣を振ることでどうにか落ち着けようとしていたのだった。いわゆるストレス発散といえばそれまでなのだが、困ったことに、一般的な『息抜き』らしい事をした事がないシーグルにとっては、とりあえず精神的に何かあれば剣を振る事くらいしか思いつかなかったというのがある。
 考えている事を全部飛ばして、ただ単に集中する。心と体を、ただ剣を振るという動作の為に最大限に使う。それでかなり気分が落ち着くのだから、自分も割合単純だとは思っているのだが。
 シーグルは一心不乱にただ剣を振る。
 やがて、完全に朝日が昇り、団内に人の気配がし出した頃、やっと訓練場にも人が影が現れて、シーグルは一度剣を下ろした。

「全く、相変わらず早いですな」

 今のところ、後期組でここへ顔を出す朝一番はグスだった。後期組は規定の朝の始まり時間も、前期に比べると少し遅い。だからグスも前期より遅く来ているという事だそうだが、ほかの連中は時間ぎりぎりだからもっと遅いのは当然だった。単純に、シェルサやマニク達のように、時間外の自主的な朝訓練をする者がいないだけの話ではあるのだが。

「まー、後期の連中にとっちゃ、俺が来るこの時間でも相当早いんでしょうがね」
「おかげで、こちらは集中してやっていられる」

 シーグルのらしくない嫌味のある言い方に、グスが苦笑を返した。

「前期で貴方が来た時は、シェルサあたりは2日目からは早起きしてましたっけね。せめてもうちょっと貴方がこっちに顔出せればいいんですがね」

 後期では実践戦闘がまず起こらない、という前提だからか、騎士団では事務的な手続きやら決定事項やら会議が全部この時期に設定してある。おかげで隊長以上の役職持ちは、後期が始まった途端、書類の山と会議と報告に追い回される事になっていた。

「……おかげで、まだ彼らの事を全然把握出来ていない」

 グスでさえ愚痴るのだから、シーグル本人が不満に思っていない筈はない。なにせ、後期が始まってもう一週間が経つというのに、シーグルはここまで、隊のほうには朝の挨拶程度しか顔を出せていなかった。
 ちなみに、普段からサボるのが仕事のようなほかの隊長連中は、もちろん事務は文官に押しつけ、よく体調を崩し(た事にして)会議は半分程しか出ない。勿論、シーグルがそんな彼らに倣う事はあり得ない。

「まぁ、あれです。覚悟してた程困った連中じゃなさそうですから大丈夫ですよ。ちぃっとばっか若い連中が面倒そうですが、あれくらいは金持ちのぼっちゃんとして考えりゃ、全然マシですしね」
「そうか……」

 隊の面々に関してとなると、どうにも気分が沈む返事しか返せないシーグルを見て、どうやらグスは励まそうとしたのか、急に明るい声を出す。

「……あぁ、そういや、そのお坊っちゃん連中ですがね、これが思ったよりもいい腕で、軽く手合わせ中の動き見たんですが、なかなかに強い」

 聞いたシーグルの顔が、目に見えて生気を取り戻す。

「そうなのか」

 そこで隊長もまだ若い、とグスが思ったのはいいとして、少し嬉しそうなシーグルを見ていると、グスの顔も自然と笑顔になる。

「髪長くて顔いいのと、そいつといつもつるんでる背の高い奴の二人がですね。確か、リーメリとウルダだったかな。そいつらが軽くやってるの見てたんですが、どっちも見た目によらずなかなかの腕でしたよ。少なくとも、マニクあたりとはいい勝負ってとこでしょうね」

 シーグルは熱心にグスの顔をみて軽く頷く。隊の連中と話す機会どころか顔をあわす機会さえ滅多にない現状では、本気で、この年長騎士の話だけが頼りだった。

「後、ラナって女性ですが、彼女もなかなかにおもしろい。剣だけの腕ならそうでもないんですが器用でしてね、短剣やら、なんか変わった武器も使いますね。後、父親が狩人だって事で弓の腕はテスタ以上だ」
「テスタよりというなら、かなり凄いんじゃないか」

 テスタは元狩人で、だから目がいいという事に関しては隊一番と言われている。実際の弓の腕の方も前期組の中では一番いいのは確かで、その彼以上というなら相当だと思われた。

「遠距離となりゃ、歳くっても男の腕力でテスタのが上でしょうがね。中距離までなら、速さと正確さはあいつ以上は確かですよ。なにせ若い分、カンと体のキレが違う」
「それはすごいな」

 子供の頃から正式に訓練を受けていただけあって、勿論シーグルも弓を使う事は出来る。ただやはり、そこまで重点を置いて訓練をしていない為、正確さはいいとしても、狙って当てるまでにそこそこに時間がかかる。正確さと連射を両方持ち合わせているのは、やはり専門に訓練をしている者ならではだろう。

「後はまぁ、ジジィ組は……あぁ、前期だと若いのは俺らの事を気ィ使って年長組とか古参組とかいってましたがね、後期の連中は年上連中の事をジジィ組って呼んでるんですよ。どうにもぼっちゃん連中は口が悪いですから」

 歯を見せて人の悪い笑顔でいうグスに、シーグルは少しだけ眉を寄せる。

「それで、呼ばれている者達は怒らないのか?」

 真面目なシーグルがそう返してくるのは予想できた事なのだろう、グスはそこで豪快に笑い声を上げた。

「いやぁ、そんくらいで怒るような青さはもうとっくの昔に卒業した連中ばっかですからね、自ら自分達の事をジジィ組っていってネタにしてるくらいです。頼りになるかは疑問つく時もありますが、気のいい奴らですよ」

 ウインク付きでそう言われれば、シーグルも破願してクスリと息を漏らす。

「後は、おもしろいのがアウドってやつですかね。足を怪我したとかで走れないって話ですが、見たとこ相当鍛えててデキル感じですよ。性格的にはちとつき合い悪くてぶっきらぼうですが、悪い奴ではないでしょう」

 シーグルが笑った事で、グスも嬉しそうに目を細めてこちらを見てくる。その様子に、気を遣わせてしまったかとの思いもあり、シーグルは素直に彼に頭を下げた。

「皆の事、教えてくれてありがとう。すまなかったな、わざわざ彼ら全員と話をしてみてくれたんだろ? それに、気も遣わせてしまった」

 礼はまだしも頭まで下げられた事に驚いて、グスは焦って首を振る。

「とんでもないっってかいいんですよ、それこそ自主的にやってる事なんですからっ。……あのですねぇ、貴方は真面目過ぎるのはいいんですが、部下にそうそう簡単に頭下げてはいけませんよ」
「そうか……」
「そうです」

 きっぱりと言い切られて、シーグルは考え込む。

「ならもう少し、堂々としている方がいいんだろうか」
「そーです。貴方ご自身では少々やりすぎたかと思うくらいに、偉そうにして構わないと思いますね」
「偉そう、というのは……難しいな」

 正直、そう言われると実は本気で困る。
 シーグルが益々考え込んでしまったのを見て、グスはまた豪快に笑って、背中を叩いてくる。

「そんなに謙虚だと、将来領主様なんかやってられないですよ」
「そうだな……善処、するように、しよう……」

 考えれば考える程、シーグルは返事がぎこちなくなる。それをまたグスが笑って、そうしてまた、今度は隊の連中とやった仕事の内容の話などをシーグルにしてくれる。だから結局、その日は皆がくる時間までひたすら話をするだけで終わってしまって、シーグルの朝の訓練もそこで終わりになってしまった。







 それから更に3日後、やっとどうにか一日事務仕事の空き日が出来て、シーグルは朝から自分でも自覚があるくらいに浮かれていた。なにせ、やっと皆をちゃんと見れるという思いがあったし、いくら真面目とはいえ、ここ数日の座り仕事の山はシーグルとしては結構なストレスではあったので、いい加減体を動かしたかったのだ。容姿的には、貴族らしく気品がある、などとよくもてはやされるシーグルだったが、中身は考えるよりも体を動かした方がいいという肉体労働系タイプな自覚はあった。

 ひたすら訓練に明け暮れる前期組とは違って、後期組は訓練時間は実はそこまで長くはない。というのも、後期のこの時期は、首都の騎士団には単純に人が少なく、訓練ばかりしていられる程暇ではないからだ。更にいえば、後期組はあまり戦力と見られていないという背景もある。だから、彼らが団にいる時間の半分は、団の掃除と必要な場合は雪かき、そしてメインはセニエティの周辺の見回りとなる。

 そういう事情は事前に聞いていた為、だから、シーグルも気合を入れて掃除を手伝おうとしたのだが。

「いや、流石に隊長にそんなマネはさせられませんから。大人しくそこで見ていて指示だけ出していてください」

 と、グスに言われたので、シーグルはその間ただ突っ立ているだけという、実はその方が困るという事態に陥っていたのだった。






「しっかし、時期シルバスピナ卿様が、掃除するつもりたぁ思わなかったな」
「……いやぁ、単に、あの人は真面目過ぎるんですよ。それに素直過ぎましてね」
「そりゃま、人は見かけによらねーってぇ奴だわな」

 老人特有の――といっても本人はまだ一応50代だが――のリキレ・サネ・ローンが、皺がれた笑い声を豪快に響かせれば、その声のすり切れたような高い音に、グスは僅かに顔をひきつらせた。

「リキレ、その笑いはよせ、年寄りくせぇ」
「はん、どうせ年寄りだからいいんだよ」

 下品ともいえる笑い声を止めたのはバグデン・ルモーで、彼ももうすぐ50になる。年長者が多い後期組にあって、騎士団全体で見ても30人以内に入る古参だ。ちなみに、上位14人は全員役職持ちである。

「ローンじぃさん、年寄りぶんのはいいけどよ、大笑いしてぎっくりはしないでくれよ」
「おう、やったらまたよろしくな、ボレス」

 一応3人中では一番若いボレスはグスより一つ下で、どうやらその所為で年上連中の使い走り……ではなく、面倒見役になっているらしい。

「まったくよぉ、じぃさんはこれだからよ。……まぁ、今期からはグスがいっからな、いざとなったらそっちのが現役の分任せるぜ」
「まだ後期組には慣れなくてな、任せられても困んだが」

 そんな感じで、現在彼らは倉庫整理の荷物運び中なのだが、会話通りというべきか、グスは他3人に比べて一番重い荷物を持たされていたりする。勿論、一番年上の通称ローンじぃさんは、ちゃっかり一番軽い荷物を楽そうに持っていた。
 ちなみに、クリュース国内でも地方出身者や、周辺の小国からやってきた者達等は、名前に姓というものがなかったり、つい最近出来たばかりだったりが多いので、一般人同士は姓で人を呼ぶ事は少ない。ただし、貴族の当主や、貴族で何かの役職を持つ場合は姓、というか家の名で呼ぶ事になっていて、それもあってある程度の偉い人間は姓で呼ぶ事になっている。ローンじぃさんがリキレじぃさんと呼ばれずそう呼ばれているのは、そういう理由もあって一応敬称なのだそうだ。
 更に付け足せば、実はシーグルに向かって、シーグル様、と呼ぶのは少々砕けた呼び方になるので、キールは本来なら立場的に相当失礼に当たる。……当のシーグルが許しているので問題にはならないが。というかそもそも、キールは態度からして、普通の貴族騎士なら既にクビにしているレベルだろう。

「ったく年寄りに荷物運びはよくねぇやな……」
「文句言うならとっとと引退したらどうですかい」
「うるせぇ、年寄りはなぁ、こう長い経験からくる知識やカンがいざという時に役に立つんだぜ」
「いざっていうのは、仕事をサボりたい時とかですかね」

 一番声の響くローンじぃさんを見ながら、年寄りはよくしゃべる、などとグスは思ってしまうが、だが、そう思ってから、そのじぃさんの位置が後期だと自分な訳かと思って少々複雑な気持ちになる。ジジィ組の若手扱い、とはどうにもへんな気分だと思いつつ、体力的にこっちだと若いのに押し付けられないという立場に今更気づいたりする。
 若くてイキいい奴を一人くらい一緒に残しときゃよかったか、とそこで初めてグスは後悔した。
 ともあれ、その日は雪が積もっている訳ではなかった為、掃除の手伝いはそこまで長くならず、午前中だけでそちらはもういい事になった。だから午後は最初から訓練という事になった訳で、シーグル回りの騒ぎはその訓練を始めてすぐに起こる事になった。




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なんというか、グスさん回ですね。
若い隊長の為にいろいろがんばる親父騎士、中々に苦労症です。



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