神官は剣に触れられず




  【8】




「お前を、愛してる」

 間違いなくセイネリア自身の声が、シーグルが一番恐れていた言葉を紡いでいた。

「シーグル、俺は、お前を愛してるんだ」

 もう、聞き間違いだと思い込む事が出来ない言葉に、シーグルは何も返せない。今、彼の顔を見れば取り返しがつかなくなりそうで、それ以上に彼の表情を見る事が怖くて、シーグルは体を小刻みに震わせたまま頑なに顔を背けていた。

「シーグル、俺を見ろ。俺の本心を聞け」

 それでもシーグルは、まだその現実を受け止めきれない。
 彼の言葉をを現実にしたくなかった。

「い、やだ……」

 相手を見れずに瞳を見開いたまま、呟くのは拒絶の言葉だけ。
 セイネリアが苦しげに目を閉じたその顔も、シーグルが見る事はなかった。

「……嫌だ……嫌だ、聞きたくない、お前の話なんか聞かないっ」

 だが、その直後、シーグルの口はセイネリアの手によって塞がれる。

「……静かにしろ。壁一枚隔てているとは言え、大声を出せば向うに聞こえる」

 口毎頭を壁に押し付けられた所為で、シーグルは無理矢理セイネリアの方を向かされる。金茶色の瞳が痛みを浮かべてじっと見つめて来るのを直視しなくてはならなかった。

『どうした? 急に黙って』
『……いや、気の所為か、声が聞こえた気がしてな』

 理解したシーグルがセイネリアの手の中で口を閉じれば、その手はすぐに離される。
 けれども琥珀の瞳は、すぐ傍でじっとシーグルを見つめたままだった。
 シーグルは僅かに瞼を伏せる。

「違う……だろ。違う……筈だ、セイネリア……」

 出した声は掠れ切っていて、まるで自分のものではないようだった。

「何が、違う?」

 セイネリアが瞳を細めて、更に顔を近付けて来る。
 暗闇の中、殆ど閉ざされた金茶色の輝きは、けれども怒りに震えているのがはっきりとシーグルには分かった。

「違う……セイネリア」
「だからお前は、何が違うと言うんだ」

 シーグルはもはや逃げられない代わりに瞳を真っ直ぐ彼に向け、その中一杯にセイネリアの顔を映す。けれども、睨んだつもりの深い青の瞳はどこか虚ろで、心が何処かへ浮いている事をセイネリアに知らせていた。

「違うんだ……お前は俺を愛してなんかいない。ただ、手に入らないから他より少し執着しているだけだ。お前が俺を愛する理由がない、意味がない、メリットが何もない」
「お前は……」

 セイネリアが歯を噛み締める。
 シーグルの顎を掴んで顔を固定し、怒りに燃える琥珀の瞳でシーグルの濃い青色の瞳を真正面から見据える。

「何の権利があって俺の心まで否定する。お前が俺を拒絶するのは勝手だが、俺の心を否定する権利は他人のお前にはない。理詰めで考えれば逃げられるとでも思っているのか? 人の心を、意味や理由がなければ否定出来ると本気で思っているのか?」

 セイネリアは、まるで酷い恐怖や寒さに耐えるように全身を震わせているシーグルの体を抱き締める。
 鎧で誤魔化す事が出来ない彼の体温を感じて、シーグルは目をきつく瞑った。
 こうして抱き締められて彼のぬくもりと匂いに包まれれば、彼の胸で泣いたあの時を思い出してしまう。体から力を抜いて、彼に縋りつきたくなる。
 だからシーグルは、歯を噛み締め、両手を握り締めてはっきりと目を開け、セイネリアの顔を見上げた。

「……違う、お前は、そんなものに心を乱したりしない、俺に何があっても、お前は動じない……」

 呟くようなシーグルの声には感情がなく、どこまでも空虚だった。
 まるで呪文のように自らに言い聞かせている言葉は、セイネリアに向けたものであって、そうではない。
 怒りに燃えていた金茶の瞳が、らくしなく伏せられる。
 それと同時に、セイネリアは、シーグルに向けて唇だけに力ない笑みを浮かべた。

「そんなに――」

 俺を憎みたいのか、と。
 語尾は殆ど音にならずにセイネリアが呟く。
 呟いた後、彼はシーグルの肩口に顔を埋めて何も言わなくなる。
 セイネリアの顔を見なくて済んだ事にほっとはしたものの、その沈黙が怖くて、かといって、彼が何かを言うのも怖くて、シーグルは視線の先の暗闇を見つめる事しか出来ない。動く事も、何かを言う事も、今の状況から更に何かが起こる事が怖くて何も出来なかった。

 けれどもまるで、彼がそうしている姿は泣いているようで。
 あり得ない筈だ、嗚咽は聞こえていないと自分に言い聞かせても、彼の『痛み』を空気で感じ取ってしまう。

「セイネリア、お前は、強い」

 だから、そんな彼を否定したくて、シーグルが自分に言い聞かせるように呟いてしまった言葉は、予想以上に鋭い刃となってセイネリアの心を抉った。
 セイネリアが顔を上げる。
 その大きな手が、再びシーグルの顎を掴み、無理矢理にその顔を逃げられないように固定する。吐息が分かる程間近で、シーグルはセイネリアの顔を見なくてはならなくなる。

「……言った筈だ、俺も人間だ。お前が思うよりもずっと弱いと」

 暗闇の中、細められた金茶色の輝きが、じっとシーグルの顔を見つめて来る。その瞳に見える『痛み』と『哀しみ』は、彼にはあり得ないものの筈だった。
 顎を離し、頬を撫ぜて来る手は優しく、まるで、愛しいのだとその動作で言うようにも見えた。

「お前の中の俺は、心のない化け物なのか? 何を言っても俺が傷つかないと思っているのか?」

 そうして、今度はまた、セイネリアはシーグルに口付けてくる。
 彼はシーグルにとって裏切り者だった、征服者だった、憎むべき男だった。
 けれども、今、彼のキスは、あまりにも優しい。
 なだめるようなキスは、触れて、唇の感触を確かめるだけで離れて行く。
 愛しいのだと、言葉の代わりにそう訴えるように。触れる唇は、暖かくて、柔らかくて、心地良かった。

 ――本当は、とうに分かっていた。

 触れて来る唇の切実さも。
 見つめる瞳の痛みも。
 抱き締めて来る腕の優しさも。

 けれど、それが理解出来ても、シーグルはそれを認める訳にはいかなかった。
 認めてしまえば、自分の中にある、セイネリアという人物像を否定しなくてはならなくなる。彼を憎めなくなる――誰も、憎める人がいなくなる。

 シェン・オリバーは、父を、そして同じ顔のシーグルを憎む事で自我を保った。
 それと同じ事だ。シーグルは、セイネリアを憎む事によって――自らに降りかかる理不尽な火の粉を彼の所為にする事によって、自分を保とうとしていた。

 シーグルに辛く当たった者、利用した者、裏切った者。幼い頃から憎しみを少しでも抱いた人々は、皆が皆事情があった、そうせざる得ない理由があった。だからいつも――結局はシーグルは彼らの『痛み』を思うと最終的には憎む事が出来なかった。
 けれどその中で、セイネリアの裏切りだけは、何の事情も『痛み』も伴う物ではなかった。
 誰よりも強く、弱味の一つもない、ただ純粋に自分勝手な理由だけで、シーグルを裏切り、踏み躙った男。――それは、生まれて初めて、心が踏みとどまらずに、無条件で憎んでもいいと認めた相手だった。
 けれども、憎むべき、憎んでもいい筈だった男は今になって言うのだ。

「愛してる……」

 彼の言葉は、何故こんなにも心の中の弱い部分をこじ開けようとするのだろう。
 その言葉の響きは、本当は、ずっと欲しかったものではなかったのか。
 抱き締めてくれる腕を、自分はずっと欲していたのではなかったのか。
 彼の言葉を受け入れて、ただこの腕に抱かれていれば、自分は欲しいものを本当は全部手に入れる事が出来るのではないのか?

 けれど。

 それを分かっていても、尚、シーグルはその言葉を受け入れる訳にはいかなかった。
 誰よりも強い男に全てを委ねて、心の平穏をその腕の中に見出す訳にはいかなかった。
 それだけが、自分の中にたった一つ残されたもの。
 なけなしのプライド、自分が自分の意志でここまで生きてきたという証。
 それを守る為には、掴み取ろうと足掻いて来たその時間全てを投げ捨て、彼に全てを委ねる訳にはいかなかった。
 惨めな体に落胆しながら、足掻いて足掻いて、今日まで生きて来て掴み取ったちっぽけな騎士としての矜持。どれだけ体を穢されようと、家の為の操り人形になろうとも、自分の心だけはそれに引きずられまいと、意志だけは屈しまいと足掻いて来たたった一つの拠り所。それさえも棄ててしまったら、もう、自分には何も無くなってしまう。心の中に残された小さな誇りの欠片、それだけがまだシーグルを騎士として動かしていると言っても良かった。
 掴み取ろうとしたモノが全て無駄で、意味のない努力だったと分かった今は、尚更、もう、シーグルに残されたものはそれだけしかなかった。

 シーグルは声を出さず、唇だけで言葉を紡ぐ。
 ――どうして、憎ませてくれないのだ、と。

 暗闇の中、セイネリアがそれを読み取れたかは分からない。
 分からないが、言った途端、シーグルの唇は笑みに歪む。
 そして、今度は真っ直ぐにセイネリアの顔を見て、声を出して告げた。

「言った筈だ……体は好きにすればいい……それだけだ、それ以上はお前にはやらない。お前の心なんて知らない、お前の真実など要らない」

 セイネリアの唇が、それ以上の言葉を止めるように口付けて来る。今度は、先程までの優しいキスではなく、深く口腔内をまさぐるような激しいキスで。
 シーグルは大人しくそれを受け入れ、求められるままに口を開き、求められるままに舌を絡めた。
 僅かな月明かり以外は闇が支配する空間で、ただ、唇をあわせる水音が響く。

『シルバスピナの若造はどうする?』

 すっかり意識が逸れていた外からの声に、自分の名を聞いて、シーグルは耳を澄ます。

『まだ……ヘタに手を出すのは不味い。こちらの所為だとバレたら、あのセイネリアが黙ってないだろ』
『確かにな……』

 あぁ、結局こんなところでも、自分は彼の名だけで守られているのかと、思った途端、シーグルは体の力を抜いて全てをセイネリアに明け渡した。
 力の入らなくなった体を支え、セイネリアは尚も唇を求めて来る。
 体を棄ててこの場から逃げていこうとする、シーグルの心を追うように。
 それでも、余りにも力の入っていないシーグルの体を不審に思ったのか、セイネリアが顔を離して、シーグルの前髪を掻き上げながら顔を覗き込んで来る。
 シーグルは笑った。

「抱かないのか? 今回の情報料だろ、その支払いだ、好きにすればいい。……体だけならお前にやる、そういう約束だった筈だ」

 セイネリアは何かを諦めるように顔から全ての表情を消し去ると、その金茶色の瞳を伏せた。

「……そうだな」

 声からも感情のゆらぎを消し、ただ平坦なだけの声で答えた後、彼は再び肌に唇を這わせて行く。
 そんなセイネリアに何処か安堵して、シーグルは暗闇を見つめる。
 その、暗闇だと沈む程濃い青の瞳は、悲しそうに歪みはしても、涙を流しはしなかった。




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この流れで、次回は二人のHシーンです。


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