憎しみの剣が鈍る時





  【6】




 開けようとしたドアの向こう側から中で人の動く気配がして、カリンは思わず眉を顰めた。
 現在、この部屋には無許可で誰かが入る事は出来ない。
 そして、この部屋の持ち主本人も来る筈がないから、中で動いているだろう人物は医者であるサーフェス以外にはたった一人、サーフェスは今セイネリアと話をしている筈であるから、そうなれば本来動いていい筈のない人物が動いている事になる。
 そして。
 鍵を開いてドアを開けた途端、見えた銀色の鎧姿に、カリンは頭が痛くなる。

「まだ、本調子にまで戻ってはいない筈ですね?」

 カリンが入ってきた事は既に分かっているのだろう、彼は注意深く手を腰の剣に置いて振り向いた。

「真っ直ぐ、歩けるようにはなった」

 カリンは肩を竦める。
 あの医者は、もう少し先まで考えて発言して欲しいものだと思いながら。

「それでも、そんな格好でうろつける程には回復していないでしょう。私としては、さっさとベッドに戻って頂きたいのですが」
「動けるようになったのなら、ここにいる必要はない」
「貴方が、帰っても大人しく家で寝ていて下さるのなら引き止めなくてもいいのですけど、そんな方ではないのは分かっていますので」

 言いながら、カリンは両手に短剣を構える。力ずくでも引き止めるというこちらの意志を見せる為に。
 シーグルはそれを読み取って、彼もまた剣を抜く。

「通して欲しい。出来れば女性に剣を向けたくはない」

 不本意だと顔に出して構える動作は、今はまだ本気ではないというのが分かる。

「でも貴方は、私がその辺りにいる守られるべきか弱い女ではない事は分かっている筈です」

 だから、剣を向けても其方の恥にはならないのだと暗に言えば、シーグルは目を細めて、今度は本気だという気配を纏って剣を構える。

「申し訳ない、だが、戦士としての貴方を侮辱したつもりはない」
「えぇ、そうでしょうね」

 まったく生真面目な青年だと、一瞬カリンは笑いそうになって、けれどもすぐに口元を引き締めた。
 トン、と鎧を着ているにしては軽い音と共に、素晴らしい速さで踏み込んできたシーグルを、カリンはその彼以上に軽い動作でふわりと避ける。柄で殴ろうとしたらしく、彼の体より遅れて来た剣を更に躱し、それで体勢を崩したシーグルの足を蹴り払えば、彼は簡単に立っていられなくなる。

 さすがに転びはしなかったものの、傍の壁に倒れ込んだ彼は体を支えるのに精一杯で、剣を持つ手の方が疎かになっていた。それをカリンが見逃す筈もなく、彼女はすぐさま剣を持つ彼の右手を蹴り上げる。
 彼の手から離れて、部屋の隅にまで床を滑っていく剣。
 壁に手をついたまま、乱れた呼吸を繰り返すシーグル。

 最初の一撃だけに全ての体力を注いだ彼は、それを避けられた時点でもう剣を振るう余力がない。この程度の事でさえ、既に息を切らしている状態で彼を外に出すなど、彼の置かれた状況と、その性格を考えれば出来る筈がない。
 カリンとしては、彼が自分を退ける程まで体力を戻しているなら、彼を開放する事も本気で考えてはいたのだ。だが、これでは話にならないと言わざるを得なかった。

「貴方が私より劣るとは言いませんが、今の貴方では私に勝てる事はありません」

 シーグルは悔しそうに歯を噛み締めたものの、さすがに負けを認めたらしく、抵抗を諦めたように体の力を抜いて壁に体重を預けた。まるで鎧の重さに潰されるように、彼の体がゆっくりと床へと沈んでいく。
 カリンは両手の短剣を鞘に納めた。
 それから彼に近づいて、彼の腕を持ち上げると自分の肩に担いだ。
 負けを認めた所為か、呆れる程素直にシーグルはカリンに体重を預け、彼女に連れられるままベッドに来るとその上に座る。すぐにカリンが彼の鎧を外し出しても、文句を言う事なくそれに従い、従者に脱がさせるように腕を上げてされるがままにしていた。

「主は貴方を監禁するのが目的ではありませんので、体調さえ戻れば開放致します。焦る必要はありません、貴方の屋敷の方にも此処にいると連絡もしてありますので」

 それを聞いて、俯いていたシーグルが顔を上げ、カリンを見る。

「祖父が……シルバスピナ卿が、それで納得したというのか?」
「えぇ、主が交渉しました」
「何を言ったんだ、セイネリアは……」

 信じられないと呟いて、シーグルは驚くというよりも呆然としていた。

「そこまでは私にはわかりません」

 カリンは彼から視線を逸らして答えた。
 何故だか、そんな顔をしているシーグルの顔が痛々しく見えて、あまり見たくはないと思った。
 ここで更に、セイネリアが以前シルバスピナ卿と手紙のやりとりをした事を、彼に言う事はすべきではないとカリンは判断する。

「兎に角、諦めて体を元に戻す事に専念してください。主が貴方を此処に置いているのはその為だけです」

 カリンが言えば、震える声で彼は呟いた。

「な……ぜ、何故だ。何故セイネリアが、そんな事をする必要がある」

 カリンは溜め息をつくしかなかった。
 その理由をはっきりと言う事は、彼女としてもやりたく無かった。言って言葉にしてしまえば、それが確定してしまう気がするからだ。
 けれども、シーグル本人はそれを知るべきだ、とも彼女は思う。
 だから。

「……貴方は、何故だと思います?」

 問われた事で、シーグルが瞳を大きく開いてカリンの顔を見る。

「あの方が、何も見返りも求めず、ただ貴方の体を回復させる事だけを望んでここに連れてきたのだとしたら、それは何故だと貴方は思いますか?」

 シーグルの顔が強張る。
 こんな簡単な事、誰でも思いつかない筈はない――但し、その相手がセイネリアではなく、普通の人間であったなら、だが。
 カリンの闇色の瞳が、シーグルの白い顔を映す。
 シーグルの顔は体調の為だけでなく青ざめて見えて、やがて彼は静かに目を閉じる。

「セイネリアにとって俺は、ただのきまぐれで構っているだけの玩具に過ぎない」

 カリンは瞳を伏せた。
 彼が本気でそう思っているか、そこまではカリンが詮索する事ではない。ただ今は『そういう事』として彼はセイネリアを見ている……見る事にしているのだろう。
 それでその場を去ろうとしたカリンは、だが、彼に背を向けた途端、引き止めるように聞こえた声に足を止めた。

「貴方は……」

 顔を上げたシーグルは、苦し気にカリンの背を見つめる。

「貴方は、セイネリアを……愛して、いるのか」

 カリンは眉を寄せた。
 それを聞いてくるという事は、彼も分かっていない訳ではないのだ。
 彼女は静かに振り向くと、何処か怯えるような瞳で見上げている彼の青い瞳をじっと見つめる。

「私は、あの方を愛しています」

 シーグルの眉が苦しげに歪む。
 その震えた唇が何かを言おうとする前に、カリンは更に彼に言う。

「一人の女としても、部下としても、あの方だけを愛しています」
「ならば……俺の事を疎ましく思っている筈だ」

 ――それは、私が女としてか、それとも部下としてか、どちらの感情でそう思っていると思うのか。
 カリンは心の中で呟いて、だがすぐに、自分も意地が悪いと自嘲した。

「別に。私はただあの方に従うだけです。主が貴方を助けろといえば助けます。何の不満もありません」

 だから表情を消してそう告げれば、シーグルはぎゅっと眉間に皺を寄せて声を絞り出す。

「しかしっ、貴方個人はっ……」
「個人の感情としても、別に貴方を疎ましいなどとは思っていません。……例え、主が貴方を愛していたとしても」

 シーグルは黙る。
 彼の顔の青ざめ方は可愛そうになるくらいだった。

「私はあの方を愛していますが、あの方に私を愛して欲しいなどとは思っていません、そんな必要はありません。……私はあの方のものであり、部下としてあの方に一生仕え、命を捧げると誓約しています。死ぬまで傍にいる事を認められ、自分の全てを捧げられる事が決まっているのに、それ以上に何を望むというのでしょう」

 真っ直ぐに、青い瞳を見つめて言い切ったカリンに、シーグルは何も言葉を返せなかった。
 それでも、瞳を逸らさずに、まるで羨むように瞳を細めてこちらを見返した彼は、苦しそうではあっても、先程までの怯えるような空気を纏ってはいなかった。

 否、彼は本当にカリンを羨んでいた。

 カリンがにこりと笑うと、シーグルは顔から負の感情を消して、普段通りの騎士然とした表情になる。迷い、怯えていたその瞳が定まる。

「俺の今の発言は貴方を侮辱していた、申し訳ない」

 カリンは、彼の、そんな子供じみたまでの生真面目さがほほえましかった。
 主からの命でなくとも、彼を出来れば救ってやりたいと思うくらいに、彼の高潔な態度は好ましく思えた。
 シーグルは、今度ははっきりと視線を真っ直ぐカリンに合わせ、そして言う。

「俺は、貴方が羨ましい。一生を捧げるに足る主を得た者がどれ程誇らしく満たされているのか、貴方を見て分かった。俺は騎士として、貴方のようになりたいと願う」

 カリンは、若者らしい、理想を見るその真摯な態度に、彼を助けてやりたいと思いながら、自分の最愛の男が、この澄んだ宝石のような青年の心を蝕むだろう事を思って気が重くなる。
 静かに目礼をしてカリンに感謝を表す彼に、彼女は呟いた。

「私は、とある貴族の屋敷で、暗殺者として育てられた一人でした」

 シーグルがすこしだけ驚いたように表情を崩す。
 カリンはその彼に笑顔を浮かべて語った。

「その貴族が、ある日、まだ駆け出しだったけれど、その実力だけは既に有名になっていたあの方に仕事を依頼した。私は、仕事が終わった後のあの方に報酬の一つとして宛がわれ、そして殺す事を命じられていた」

 だが勿論、カリン程度の腕では、いくら寝屋を共にしてもセイネリアを殺す事など出来なかった。
 セイネリアは最初から分かっていて尚カリンを抱き、そして押さえつけたカリンを見て言ったのだ。

 ――良いな、お前はなかなか面白い目をしている。嫌いな奴等の命令で、見知らぬ男に抱かれるのは悔しかったか。
 ――ならば、選べ。お前に命じた奴等か、俺か。俺を選べば、お前は今後一切奴等に従わなくていい。だが代わりに俺に一生従わなくてならない。……どうせ従うだけの人生なら、主くらいは自分で選んでみろ。

 自信に溢れた強い男、そして、こういう仕事の為に奪われなかった彼女の純潔を渡したその男と、あの、命令だけする薄汚い現在の主のどちらかを選ぶ等、彼女には考える必要も無かった。

「貴方は、それで良かったのか? 従うだけの生き方で――」

 他人の事なのに苦しそうに呟く彼に、カリンは穏やかな声で答える。

「愚問です」

 そして彼女は鮮やかに笑う、紅い唇を艶やかにつりあげて、誇らし気に、自信を持って。

「過程や境遇などどうでもいい、今に満足しているから……私は、私を幸せだと思っています」

 シーグルは、その深い青の瞳を細めた。
 まるで、眩しいものを見るかのように。
 彼の瞳が浮かべるのは羨望だった、尊敬だった、そして――希望だった。
 自分に課された運命に従う事しか出来ず生きて来た彼は、カリンのその姿に、自分の中の僅かな希望を重ねて胸を熱くする。

「此処にいる者達は、私と同じく、あの方に何かの望みを叶えて貰う代わりに、あの方に従う――そう契約している者が多い。けれども、従っているのはそれだけじゃない、そして誰も、その契約を後悔していない」

 だからカリンは、もう少しで言いそうになった。
 ――貴方も、主と契約すればいいのだと。
 自分を縛るしがらみと引き換えに、あの男のものになればいいのだと。

 けれどそれではセイネリア自身が救われない事を、カリンは知っていた。
 だから、言えなかった。
 
 けれど後々まで、彼女は、その言葉を言うべきかどうか、何度か迷う事になる――。





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はい、カリンさんの見せ場(?)回でした。こういう強い姐さんキャラが好きです。


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