神官が運ぶは優しき願い





  【6】




 ウィアが目を覚ますと、隣にいた筈のフェゼントの姿は既に無かった。
 思わず不満そうに口を尖らせて枕を抱き締めてみるものの、鼻に微かにいい匂いが届けば、彼が起きて急いで居なくなった理由がわかって笑顔になる。

「そっか、朝飯、シーグルの分も気合入れて作ってるんだろうなぁ、フェズ」

 さすがにウィア達と一緒に食べるのはまだ無理だろうから、彼の分は別に用意しなくてはならないのだろうと思う。
 外はまだ早朝といえる範囲の時間ではあるが、いつもウィアが起きる時間よりは遅そうだった。快晴の空は気持ちよさそうで、窓を開ければ鳥の声がかしましく響いて朝の少し冷たい風が頬を過ぎていく。今日はサボリと決めているウィアは、そのままのんびりと外を眺めていたが、向かいの屋敷の馬車が走っていくのが目に入ると少しだけ焦った。
 どうも、思った以上に今日は遅く起きたらしい。
 ヘタをすれば、もう、テレイズは出かけているかもしれない。
 朝の礼拝サボリまでは事情を察してくれるだろうが、兄に朝の挨拶さえもしなかったとなれば、後々嫌味を言われるのは必至だ。

 ウィアは大きく背伸びをすると、急いで服を着替えはじめる。本当は軽く体を拭きたいところだが、とりあえず今はいいことにする。どうも寝ている間にフェゼントが拭いてくれたらしいので、あまりにも酷かったろう下肢のあたりはどうにかなっていた。
 服を着て、きっちりと靴を履いて、外に出ようとしたウィアはしかし、ドアの前に立ち止まると考え込む。

 この時間なら、シーグルはまず起きている。
 どうせなら、彼の様子見に一声掛けてから、厨房へいってもいいかもしれない。

 だが、そう思った後にふと思いついた事があって、ウィアはドアの前で一時動きを止めた。

「あ、このまま寝たフリしてたら、諦めてフェズが自分で食事もってくんじゃないかな?」

 フェゼントは昨日の事で大分自信がついたようだから、ウィアがいなければ、思い切って自分で食事を持って彼の様子を見にいくかもしれない。シーグルはきっとフェゼントに礼を言う筈だから、そこで一気に仲直りもあるかもしれない。
 そう考えれば、わざと起きないのもアリな気がする。

 ――ちょっとこの空腹を我慢するのが辛いけど。
 ウィアは鳴る腹を押さえてそう考える。

 だが、そんなウィアの思惑は、別の理由によって全て意味が無くなる事となった。

 最初に馬車の音が再び近くで聞こえて、向かいの屋敷の主が、忘れ物でも取りに帰ってきたのかとウィアは思った。
 だが、馬車の音は更に近くなって、どう考えてもこの家の前で止まったのだと分かる。
 外の呼び鐘が鳴る。
 ウィアはとりあえず、急いで部屋を出た。










 ウィアが一階へと降りていくと、外に出る大扉の方から、テレイズと知らない男の会話が聞こえてきた。

「ですから、まだ彼の体調を考えるとせめてもう2,3日はこちらで様子を見た方がいいと思うのです」
「いえ、屋敷に帰れば、掛かりつけの医者も治療師もいますので、これ以上はそちらに余計な世話を掛けないようにと、我が主からの言葉です」

 様子を伺う為に廊下から隠れて話を聞いていると、彼も隠れて話を聞いていたのか、傍にフェゼントがやってくる。

「あいつ、何だ?」

 それに答えを返す、フェゼントの声は暗い。

「シルバスピナ家からきた、シーグルの迎えです。テレイズさんが交渉してますが……」

 かなり良くはなっているとはいえ、シーグルの体調はまだ回復したというには程遠い。傷は塞がっているものの体力の低下が酷く、ゆっくりと寝ている方がいいという状態だ。だからまだ、無理にリシェへ帰るよりも、暫くゆっくりとここにいる方がいいに決まっている。
 けれども迎えの男は連れて帰るの一点張りで、あのテレイズがどういっても引き下がろうとはしない。
 こういう時ばかりは、交渉事の得意な兄を応援するウィアだったが、今回の相手はどうやら分が悪そうだった。ウィアがちらりと隠れながらも交渉している相手を見てみれば、テレイズとは親子程歳上の騎士のようで、あの兄相手にも眉一つ動く事もなく話をしている。主の命なので、の一点張りでやんわりと兄の言葉を躱すあたり、相当出来るおっさんだとウィアは思う。

 ――こりゃ、あの騎士の主ってのに交渉しない限りは諦めてくれないって事だろうな。

 ならば。

「シーグルはどうしてる?」

 フェゼントに聞けば、彼はただ困ったように表情を曇らせた。

「あー、分かった、俺ちょっと様子見てくるわ」

 料理を持って軽く言葉を交わすくらいなら、今のフェゼントもどうにか出来るかもしれないが、流石にこの状況で、シーグル相手に何を言えばいいのか彼には分からないだろうなとは思う。
 それにしても。
 シルバスピナの家に、シーグルの状況を知らせたのはテレイズだが、それはリパの大神官として治療を受け持つから心配するなという内容だった筈だ。なのにたった2,3日、どうしてほっといてくれないのかとウィアは思う。
 そうすれば、あの二人は和解出来るし、シーグルもちゃんと食べて元気になれるのに。折角のチャンスなのだから、出来ればウィアはシーグルを帰さずに済ませたかった。
 だから、あの騎士がシルバスピナ家の使いというなら、シーグルならばどうにかあの騎士に命令する権限があるのではないかと思ったのだ。

 けれども、シーグルの部屋に入れば、そこには既にいつも通りの甲冑を着込んだ彼がいて、綺麗に直されたベッドや部屋の様子を見れば、彼がどういうつもりなのかはすぐに分かった。

「シーグル、まだ寝てた方がいいって」
「迎えが来ている、これ以上迷惑を掛ける訳にはいかない」

 すっと背を伸ばして立つ彼は、まだ屋敷の中を歩き回るだけでもつらいだろうに、そんな様子は見せない。どう考えても無理をしているだけだというのが分かるのに、それでも精神力だけで彼はどうにか平静を保っている。

「今兄貴が交渉してる、お前の体調的にも後2,3日は大人しく寝てた方がいいんだ。無理してそんな格好しないで、いかにも病人ですって感じの姿見せればさ、向こうだって連れてくのはお前の体にはよくないってのは分かって帰ってくれるんじゃないか?」

 だが、シーグルの表情は変わらない。

「無駄だな。俺を連れ帰るまでレガーは帰らないだろう。それこそ少しでも動かしたら死ぬという状態でもなければ、病人だろうと寝間着姿のまま連れて行かれるだけだ」
「でもさ……」

 折角のチャンスなのに。
 ウィアは食い下がりたかったが、既に決めたシーグルの意志を変える事は出来そうになかった。そして、シーグルのいう事が本当ならば、彼が大人しく帰るのが一番問題が起こらない事も理解出来た。
 シーグルは全ての身支度を整えると、荷物を持ってウィアに向き直る。

「いろいろ迷惑を掛けて申し訳なかった。それと、世話になった、ありがとう。テレイズ殿と……フェゼントにも礼を言っておいて欲しい」

 ウィアは彼を引き止められない事が悔しくて仕方なくて、それでも引き止められる言葉を見つけられなくて、泣きそうに顔を顰めてシーグルを睨むしかない。
 シーグルは恐らくウィアのその気持ちをわかっていて、あえて表情を変えずにウィアに礼だけをして歩きだす。

「フェズが……今日も、お前に食わせる為にって、がんばって飯作ってたんだぞ」

 部屋を出ようとしていた、シーグルの足が止まる。

「すごーく気合入れてさ、絶対に食わないと後悔するくらい美味いんだからなっ」

 暫くの無言が返った後、彼は静かに振り返った。
 辛うじて表情を消している彼の顔、けれども青い瞳は辛そうに伏せられている。

「それは、とても残念だ、確かに絶対後悔するだろうな。……申し訳なかったと、いっておいてくれ」

 声が震えている。
 ずっと感情を押し留めていた彼の表情が、途端、哀しそうに歪む。
 唇をきつく引き結んで、眉を寄せて、一瞬泣きそうな表情を浮かべた後に、彼はまた顔から表情を消す。
 そしてすぐに前を向き、シーグルは部屋を出て行く。
 ウィアはその背中を見送る事しか出来なかった。









 快晴の空、楽しげに鳴く鳥の声。
 本来なら気持ちの良い風を肌に感じて、ウィアは陰鬱とした気分で外を眺めていた。
 屋敷の大扉が閉まる音がする。
 ガラガラと、馬車が動き出し、そして遠ざかる音がする。
 ウィアは悔しくて、窓枠に置いた手をきつく握り締めた。

「くっそぉ……」

 ウィアは未だに諦め切れなかった。
 折角、フェゼントが彼と向き合う気になれたのに。後数日あれば、全てがうまくいったかもしれないのに。そう思うとくやしくてくやしくて、彼を行かせてしまった事を後悔するしかなかった。
 それでも、今回は諦めるしかなかった事もウィアは分かっていた。
 だから、外までシーグルを見送りについて行きはしなかった。もし、その場にいたら、とにかく迎えの男に喧嘩ごしで大騒ぎをするだろう自分を分かっていたから。シーグルにとっては、ただの迷惑にしかならない事はわかっていたから。

「ウィア、ここにいたんですか?」

 ドアが開けられて、フェゼントが入ってくる。
 寂しそうに、それでも笑顔を浮かべる彼の顔を見て、ウィアはこみ上げる気持ちを抑えきれなくて、顔を思い切り顰めて唇をわななかせた。

「ごめんなぁ、フェズ」

 言葉と同時に、とうとう耐え切れずに涙まで溢れ出してくる。
 フェゼントはウィアの前までやってくると、その体を抱き締めた。
 彼に抱き締められるのは嬉しい、彼の体温を感じるのは嬉しい。けれども今は、それこそが余計にウィアの涙を止まらなくした。
 ひっくとしゃくりあげて、ウィアはフェゼントの肩に顔を押し付ける。

「何故、ウィアが謝る必要があるんです。 貴方が悪い事なんて何もないでしょう?」

 フェゼントの声は静かで優しい。
 けれどもウィアには、それさえもが悔し涙に繋がる。

「止められなかった。あいつが行ったのが、俺達の迷惑にならないようにだって分かってたのに」

 フェゼントの手が、宥めるようにウィアの背中を撫ぜる。

「仕方ないです。彼の判断は正しかったでしょうし、でも……」

 呟いたフェゼントの声が感情に震える。
 それに気付いたウィアが、顔を上げてフェゼントの顔を見る。

「フェズ?」
「いえ……なんでもないです」

 フェゼントは普段通りの声でウィアに寂し気な笑顔を返した。

『私は、また彼が連れて行かれるのを、何も出来ず見ているだけだった』

 飲み込んだ言葉に、フェゼントは自嘲する。
 子供の頃、突然家にやってきて幼いシーグルを連れて行ったのは、祖父の部下である騎士の男だった。その騎士と、今日彼を連れて行った男が同一人物であったというのは、なんという皮肉だろうとフェゼントは思った。

「さ、ウィアはお腹空いたんじゃないですか? 朝食は出来てますから、早く食べにいきましょう」

 ぐしぐしと、未だに止まらない涙を腕でこするように拭って、ウィアは頷く。
 言われれば急激に空腹を感じて、更にタイミングよく腹が鳴った。
 誤魔化すようにウィアが笑って、そうしてフェゼントも笑う。

「兄貴は、もう食ったんだよな?」
「えぇ、テレイズさんは先に食べてもう出かけました。というか、シーグルの体調を確認したいといって、シルバスピナの馬車に乗って神殿に行きましたよ」

 結局、プライドの高い兄は、自分が折れるのが気に入らなくて、腹いせに馬車で神殿まで送らせたのだろう。その考えがすぐに分かって、ウィアは思わず吹き出した。
 今回ばかりは、そんな兄のちょっとした仕返しが嬉しくて、ウィアは満面の笑顔でフェゼントの手を引いて走り出した。

「もう俺腹空いちゃってさー、はやくいこう、フェズ」
「ウ、ウィア?」

 焦ったフェゼントも急いで走りだそうとした。
 けれどもウィアは、すぐに足を止めて、フェゼントを振り返る。

「シーグルな、フェズ作った朝飯食えなかった事すごーーく残念がっていったからな。後であいつがもーーっと後悔するように、俺があいつの分も食ってやる。それで、思いっきり後悔して、次の時はあいつが意地でもフェズの料理食いたいって、柱にしがみついてでも居残るくらいにさせてやるからな」

 フェゼントは目を丸くして、そして笑う。

「そうですね、そうしましょう」

 そして、声に出さずに呟いた。

『次があれば、今度こそ黙ってみていません』









 すっきりとクリアに広がる晴れ空の午前中。
 朝というには少し遅く、昼にはまだ時間がある。
 仕事がある者は既に出かけ、残った者達がやっと起きてくる頃、庭では体を動かしている団員達の声が聞こえる。
 この辺りの特別地区ではこの時間、あちこちの傭兵団の敷地内でそんな風景を見ることが出来た。

 黒の剣傭兵団もまた他の傭兵団と同じく、平日のこの時間はそんな風景がいつものことであった。
 窓からそれを眺めていたカリンは、平和なものだと自嘲気味に思う。とはいえ、彼女の立場の場合、こうして訓練中の者達の動きを見て、彼らの能力を把握しておくのも仕事の一つであるのだが。ぼんやりと眺めているように見えても、彼らの動きを細かく分析し、それを彼女は頭の中に記憶していっていた。
 だが、そんな彼女も、近づいてくる気配を感じてすぐに視線を部屋の中へ戻す。

「待たせて悪かったな、これをシルバスピナ卿に届けてくれ」

 黒い服に黒い髪の彼女の主であるセイネリアが、椅子に座りながらも、机の上に書簡を置いた。

「シルバスピナ?」

 勿論その名が、現在主のお気に入りである騎士の青年の家の事であるのは分かっている。だが彼女には、その手紙の意図がわからなかった。シルバスピナ卿というなら、シーグルではなく、現当主のシーグルの祖父に宛てたものだ。まさかシーグルを手に入れる為にシルバスピナ卿に手紙を出すなどという事がある筈もなく、カリンは疑問に思う事しか出来なかった。
 そんな彼女の混乱が分かったのか、セイネリアが口元に軽く笑みを作る。

「何、わざわざ向こうから面白い手紙を寄越してきたんでな、返事を書いてやっただけだ」
「返事、ですか……?」

 向こうからくる手紙の内容など、跡取であるシーグルに手を出すなという抗議以外にありえない。けれどもそんなものならば、セイネリアは無視をして捨てるだけだという事はわかっている。ましてやそんなものに、彼が返事を書く気になる筈はないとカリンは思う。

「……胸糞が悪くなるような、面白い手紙だったぞ」

 セイネリアの笑みは、機嫌がいいものでは決してない。
 まったく笑みなど浮かべていない琥珀の瞳は、ぞっとするような冷たい光を湛えている。

「貴族というのは、本当にロクでもない連中ばかりだ」

 セイネリアが貴族を嫌うのは今に始まった事ではないが、一体どんな手紙を主が受け取ったのだろうとカリンは思う。
 勿論、思うだけで、手紙の内容を聞くなどという浅慮な事を、彼女がする事はない。
 カリンは、受け取った書簡を持って、部屋を出て行こうとする。
 だが、部屋を出る直前、主の呟きを彼女は聞いてしまった。

「あいつは、何の為にあんなに必死に足掻いてるんだ……」

 その時のセイネリアの顔には、確かに怒りが浮かんでいた。









 クリュース王国首都セニエティ。
 王城に近く、明らかに金持ちそうな屋敷が並ぶその一角に、一人の少年が地図を見ながら歩いていた。
 金髪に近い茶の髪に、水色の瞳、子供らしいそばかすのあるその顔は、美形とか可愛いとかいう表現が当てはまるとはお世辞にも言い難かった。顔の造形はどちらかといえば可愛いのだが、いつでも不機嫌そうにへの字に曲がった唇と、やはり不機嫌そうに顰めた瞳の顔は、愛嬌というものをどこかに置いてきた所為か、見た目で褒められる事はまず無かった。

 しかも、比較対照となる人間が、良くも悪くも目立って見目のいい人物であるから尚更。

 そんな少年が、地図を睨みながらもぶつぶつと独り言を言いながら歩く様は、少なくとも、高級住宅街を歩く人々が、親切に声を掛けようという気になるものではなかった。
 お陰で、初めての場所を自力で見つけなければならず、少年はここへくるだけでも何度も迷う事になった。けれども、やっとの事で目的の場所を見つけると、少年は喜び勇んでその敷地へと走って行く。

「にーさんがいる家ってここでいいんだよね」

 茶色の髪の毛をくしゃくしゃと掻きながら地図と照らし合わせて、少年は何度も確認すると、にっと笑みを浮かべてドアの呼び鐘を鳴らした。
 程なくして開かれるのは、ドアについた小窓のような扉。

「どちら様でしょうか?」

 少年は、その声を聞くと途端に顔一杯の笑顔を浮かべた。

「にーさん、無事だったー?」
「ラーク?」

 急いで開けられる鍵の音、そして大扉がゆっくりと開かれる。
 そこに現れた少年と同じ色の長い髪の青年に、少年は飛びつくように抱きついた。

「良かったー、にーさん無事だったーー」

 余りにも勢い良く抱きつかれた所為で、フェゼントが盛大に音を立てて大扉の前で倒れる。
 そうすれば、その音に驚いたウィアが慌てて走ってくる。
 そうして、少年に抱きつかれたまま床に座り込んでいるフェゼントは、困った顔をしてウィアを見上げるしかなかった。




END
 >>>> 次のエピソードへ。


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 次回は、3番目の弟のラークVSウィアのドタバタ話。本当は今回がその話の予定だったんですが、前の話で予定外にシーグルがウィアの家にくる事にしちゃったんで、その為にこの話をでっち上げました。繋ぎのような話だったので、あまり盛り上がるところが無かったところが哀しいところ。Hシーンが久しぶりに甘々モード、で、次回も話の流れ的にこの二人になりそうなんですけど……連続甘々はきつい、どうしよう。……逆に次回の終盤以降は当分シーグル回りの話が続くんですけどね……。


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