折れた剣と心の欠片





  【8】





 ――壊れていく――。

 心の中に落ちていくその言葉に、セイネリアは心底恐怖する。
 どれだけ抱き締めても、想いをぶつけても、シーグルはそれを全て拒絶して、ただ、壊れていく。
 目の前で、何よりも大切な存在が壊れていくのを、ただ、何も出来ずに見ている事しかセイネリアには出来ない。どうにかしたくて手を伸ばせば、更に彼は壊れていく。

 欲しくて、欲しくて、心が飢えにのたうち回る程求めて。
 大切で、大切で、大切で、何よりも守りたいと願うのに、セイネリアに今、出来る事は、途方に暮れて、ただ最悪の事態を恐れながら見ている事だけだった。
 強くなる事だけを求めてたどり着いた、人が望み得る最高の強さを手に入れた筈の男は、唯一心から求めた相手を助ける術を持たない。

「お前が守って来た誇りを……捨てるのか?」

 シーグルの表情は変わらない。
 人形のように意思の抜けた笑みのまま、彼は答える。

「誇りか……この体には、もう、残っていないな」

 だが答えた後、一瞬だけ、シーグルの笑みが苦しげに歪む。
 セイネリアは彼の顔を引き寄せて、その唇に唇を重ねた。

 まだ、手遅れでないのなら。
 まだ、彼の心を手繰り寄せる術があるのなら。

 まるで祈るように、感情の全てを篭めて、彼の唇を貪る。
 抵抗のない口腔内に進入して、反応のない彼の舌に舌を絡める。ただされるがままに、逃げさえしない彼の舌に何度も触れて、舐めて、ぬめる唾液を注ぎ込む。
 それでも、まるで人形を抱いているかのように、彼は反応を返さない。
 溢れた唾液は舌の動きに合わせて水音を鳴らし、シーグルの唇端から溢れ落ちていく。
 それを拭い取りながらも唇を合わせ直し、より深く彼と触れていたいとセイネリアは願う。
 だがやはり、それに返されるものはなく、息苦しさからか、時折彼が苦しげに喉を鳴らす事だけがセイネリアにとっては唯一の救いだった。
 セイネリアが諦めたように、静かに唇を離す。
 そのまま、抱き寄せていた腕さえ離せば、シーグルが唇を拭いながら、空虚な瞳でセイネリアを見る。

「抱かないのか?」
「今は、代価を払って貰う理由がない」

 セイネリアは、ただ、その心を殺して空虚を纏うシーグルの顔を見つめる。
 顔に笑みを張り付かせたまま、彼の抑揚のない声が言う。

「今回の仕事で、あの二人を寄越したのはお前だろ。実際、彼らがいてくれたお陰で助かった」

 それにセイネリアも皮肉めいた笑みを返す。

「その程度で足を開くのかお前は。随分と安くなったもんじゃないか」

 喉を震わせてまで笑ってやれば、シーグルの唇の笑みも深くなる。

「そうだ。その程度の、安い身体だ。どんなに嫌でも、男につっこまれて腰を振るような、男娼と言われたって否定出来ない……」
「やめろ」

 平静を装っていたセイネリアの声が震える。
 これ以上、彼が自分で自分を傷付けていく様が見ていられなかった。
 だから抱き締めて、強く彼の頭を胸に押し付けて、彼の言葉を遮る事しか出来なかった。

 ――あの時、彼を抱き締めたのは間違いだったのだろうか。

 初めて、自分に縋った彼を抱き締めて眠った時、それはセイネリアにとっては信じられない程幸福を感じた瞬間だった。
 この腕で抱き締めて、そのまま守ってやれると錯覚を起こす程に、セイネリアにとっては満たされた時だった。
 けれども、目覚めた彼は既に壊れ始めていて、セイネリアにはどうする事も出来なくなっていた。
 あの時、もし、彼を抱き締めずに突き放していたら。
 いっそ、前のように、犯して、踏みにじって、嘲笑ってやっていたら、彼は悔し涙を流しながら、自分を憎み、呪い、自我を保っていられたのかもしれない。
 何度も自問した、何度も後悔した。
 どうしていれば、彼の心を救えたのかと。

 けれどもその度に、心は叫ぶのだ。
 愛しい者が目の前で打ちひしがれて泣いているのに、それを抱き締めずにいられるものかと。ましてや、追い討ちをかけるように彼を踏みにじる事など出来る筈がない――そう、人ならば、誰もが当然に思う事の筈だった。

 なんと人間臭く、弱くなったものだと。セイネリアはシーグルの事を考えるたびに自嘲するしかなかった。

 シーグルが、セイネリアの腕の中で身じろぎする。
 少し力を入れ過ぎた事に気付いたセイネリアがその腕を緩めれば、シーグルが、呟くような小さな声で問う。

「クリムゾンは……どうしたんだ?」

 シーグルは未だ顔をセイネリアの胸に埋めたままで、その表情は見えない。
 セイネリアは銀色のその髪を撫ぜながら、彼の顔を無理に見る事もせずに視線をあたりに向けて答えた。

「あいつは今後、お前に関する仕事からは外す事にした」
「特に罰は与えてないのか?」
「お前がそれで気が済むというなら、奴に罰を与える」
「……やめてくれ、そんな必要はない」

 淡々とした声でも、彼らしいその言葉のやりとりにセイネリアは安堵する。

「元々、奴との契約は少し特殊だった。正確には契約をしていない、奴は俺に何も望んでいない。奴の条件は、俺が俺である限り部下でいる、というだけだからな、奴自身が俺に仕えたくないと思ったらその時点で出ていく約束だ。……だから、奴がお前に手を出したのは俺の所為だ。俺が奴の望む強さを失ったのではないかと、そう、奴に思わせたのがそもそもの原因だ」

 クリムゾンが最近のセイネリアの変化を快く思っていないことは気付いていた。それでも、彼が自分の命令に背くことはないとも思っていた。結果としては、背きはしなくても、クリムゾンはセイネリアを試す為にシーグルを利用した。

 確かに、情けない姿だ、とセイネリアは我ながら思う。クリムゾンが感じた通り、セイネリアが弱くなったのは事実だった。今、こうしてシーグルを抱きしめていても、壊れていく彼の心に、不安を抱えて怯える事しか出来ない。これ以上彼を壊したくなくて、愛しているのだと、その言葉を告げる事さえ出来ない。
 自分は強い、と思いこんでいたのが滑稽にさえ見えた。それほどに、自分の今の臆病さは無様だった。

「セイネリア。……お前は、強い」

 自嘲の笑みを浮かべていたセイネリアに、突然、抑揚も感情も一切抜け落ちたシーグルの声が呟く。

「お前は強い、誰よりも、完璧なまでに」

 セイネリアは思わずシーグルの肩を掴んでその体を離し、彼の顔を見た。見つめて来るシーグルの感情のない瞳に、怒りで眩暈さえして来る。
 それは、まるで、全てを諦めた人間が最後に神に祈るような、切実で、そして無条件の信頼を込めた瞳だった。
 憧れと崇拝の混じった、まるで子供が英雄にでも向ける瞳。

「よりにもよって、今、それを言うのか」

 セイネリアの声が震える。
 だが、目の前が赤く染まりそうな怒りが頭の中を支配した直後、その怒りは急激に引いていく。
 
 ――これが、自業自得という奴か。

 セイネリアはずっと前から知っていた。
 シーグルがセイネリアを憎みながら、あれだけの裏切りをした後でも尚、まだ何処かで信用していた理由。
 それは単純な憧れと羨望だった。
 友人の振りをしていた時から、シーグルはずっとセイネリアの中に理想の戦士としての姿を見て、憧れの眼差しを向けていた。強くなりたいと願い、その理想を自分に見ていたからこそ、シーグルは友としてのセイネリアの信用を無くしても、戦士としてのセイネリアを信用していた。
 それを分かっていたからこそ、セイネリアは彼を裏切りはしても、戦士としては彼の理想のままの姿を見せつづけてきた。
 そうする事で、セイネリアはシーグルを逃げられないようにした。シーグルがただ、セイネリアの事を厭忌するだけの存在として見ていたなら、遊びで仕掛けていた馬鹿馬鹿しい勝負を彼は無視して逃げる事が出来た。だが彼にとってセイネリアは、戦士としては畏敬さえすべき存在であったが故に、仕掛けられた勝負を受けない訳にはいかなかった。
 彼のその感情を分かっていたからこそ、セイネリアはそれを利用していた。

 だが。

 まさか今になって、それを後悔する事があるとは、セイネリアは夢にも思わなかった。
 憎むべき男。
 だが、戦士としては理想とする完璧に強い男。
 シーグルの中で出来上がったその像は、彼が縋る程になくてはならないものになっていた。セイネリアはどこまで行っても彼にとっては憎むべき対象で、何者にも心を揺らさない程強い存在だと、彼の中ではそうでならなければならなくなっていた。

「シーグル」

 セイネリアの腕から力が抜ける。
 抱きしめていた、誰よりも強い筈の男の手が、シーグルの体を離れて落ちる。

「お前は俺に、これからもずっと惨めな道化を演じろというのか」
「セイネリア?」

 顔を俯かせたまま、らしくなく、シーグルの顔を見る事もせずに、感情を押し殺した低い声がそう呟く。喉が自嘲の笑みに揺れる。

「……そうだな、それでも……お前がお前である為に必要なら、俺は道化でいなければならないのだろう……だが、覚えておけ、俺も所詮人間だ。お前が思うよりもずっと……弱い」

 セイネリアの腕が、再びシーグルを抱きしめる。ただし、今度は先程のような力強さはなく、あくまで優しく柔らかく、抱きしめるというよりも、ただ抱き寄せただけの腕は、静かにシーグルの顎を持ち上げる。苦しみを隠そうともしない金茶色の瞳の顔がシーグルの顔へと降りて来る。
 触れた唇は、ただ触れるだけで開く事はなく、けれども離れる事もなく、その暖かさと柔らかさだけを伝える。
 どれ程の間そうして唇同士を合わせていたのか、ただ、感触だけを感じるように、静かな時間が流れる。

 やがて、ゆっくりと唇を離したセイネリアは、殊更音を立てて漆黒のマントを翻すと、シーグルに背を向けた。

 シーグルはその後ろ姿をただ見る事しか出来なかった。
 誰よりも強く、自信に溢れていた筈の男の背中が、いつもよりも小さく見えた。

「……なぁ、セイネリア」

 黒い姿が、声が届かない程小さくなってから、シーグルが呟く。

「シェン・オリバーが言っていたんだ。本当に絶望をすると、涙さえ出ないと」

 ずっと表情を殺して笑みを浮かべていたシーグルの顔が、苦しみに歪んで目を閉じる。まるで、泣いているかのような顔をしながらも、その瞳から涙が落ちる事はなかった。

「それは本当だな、もう、俺は涙さえ出ないんだ」




END
 >>>> 次のエピソードへ。



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そんな訳でエピソード終了です。
シーグルは表面上はどうにか普段を保ってますが、結構中身がヤバくなってきてます。
こっからラスト近くまではセイネリアサイドは只管痛いです……。



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