折れた剣と心の欠片





  【7】




「……馬鹿な事をしたもんだ」

 シーグルが意識を取り戻した時。
 直後に耳に聞こえた第三者の声の所為で、シーグルは最初、現在の自分の状況が分からなくなった。
 ただし、それもほんの一瞬の事で、すぐに夜空に輝く月を見て、完全に頭が覚醒した。

「そうか? こいつに関して知りたい事も分かったしな、別に後悔はしてない」
「俺は擁護せんぞ」
「そんなもの必要ない」

 倒れている自分の上で、話す二人。
 月明かりの中、シルエットにしか見えないもう一人が誰なのかは声で分かる。もう一人の、傭兵団の戦士ラタだ。
 シーグルが起きあがろうとすれば、二人の視線が一斉にこちらへ向く。

「気がついたか」

 最初にシーグルに声をかけて来たのはラタの方だった。

「ったく、あんたも思ったよりどんくさいな。いやそれとも、人が良過ぎるのかね。ちゃんと忠告しといただろ」
「……そうだな、すまない」
「何故そこで謝る」

 起き上がりながら体の状態を確認すれば、あちこちが痛むのは当然として、腰は動けない程酷い状況でもないらしい。これなら見た目さえ誤魔化せれば、どうにか戻って仕事を続けられそうではあった。
 衣服を直しながら立ち上がろうとするシーグルに、ラタの溜め息がかけられる。

「止めとけ、そのままじゃ何があったかバレちまう。向こうに川があったからな、せめて体洗ってこい。俺も付き合ってやるから」
「そんなに、長く帰らない訳にはいかない」
「大丈夫だ、ベーガルが帰ってきてる。何かの幻術でどっかで迷ってたらしいが無事だ。これでクリムゾンが帰れば戦力的には問題ない。返り血で汚れたから洗い流してるってこいつに言わせとけば不審に思われる事もないだろう」

 そう言ってシーグルの腕を掴んだラタは、キャンプを張った場所とは別の方に向かってその腕を引っ張る。それで立ち上がったシーグルは、その様子をじっと見ていたクリムゾンの赤い瞳と目があった。

「お前を壊すのなんて、簡単だ」

 狂気を瞳に宿したまま、赤い瞳と髪の男は呟く。

「その腕でも足でも切り落とせばいい。戦う力がないと自覚すれば、お前はもう全てを諦めて、あの人のものになるしかなくなる」

 その言葉に、シーグルは戦慄する。
 固まったように立ち止まってしまったシーグルを見て溜め息を付き、ラタはクリムゾンに視線を移す。

「そこまでやったら、お前、確実にマスターに殺される以上の目にあわされるぞ」

 クリムゾンは肩を震わせ、声を上げて笑うと、くるりとシーグルに背を向けた。

「冗談だ。今はそこまでやる気はない。結果が分かっている事をするのは試すとは言わないしな。まぁ、奴らへの言付けの件は了承した、せいぜい見た目だけは綺麗にして来るんだな」
「ったく、ヘタしたら俺も共同責任なんだからな、勝手に暴走すんな」

 それにクリムゾンが返事を返す事はない。ラタは去っていく彼の後ろ姿に悪態をつくと、改めてシーグルの腕を取って歩きだす。

「ほら、さっさといくぞ」

 シーグルも返事を返さない。
 ただ、黙ってクリムゾンの残して行った言葉を頭の中で反芻する。

 そして、彼の言った言葉が間違ってはいないだろう事を思って口元を自嘲に歪めた。

 あの男は、恐らく、かなりこの自分を分かっている、と。








 仕事は、表面上は無事終了した。

 それはあくまで、事情を知らない他のメンバーや雇い主側からみればの事だが。
 結局、エルマが内通者だった事、襲撃者達は彼女に操られていたらしい事は皆に告げ、今回の仕事に関しては特に隠し事をせずには済んだ。
 体を洗ってから帰った所為か、ほかのメンバーにヘンに勘ぐられる事もなく、どうにかその後は特にトラブルがなかった所為もあって、体の不調を見せずに平静を装いきる事も出来た。
 ただその反動で、家に帰った途端、またシーグルは熱を出して倒れたのだが。
 それでも、今回はそこまで悪化する前だった為、1日寝ているだけで熱はひいた。ただの疲労だろうと医者や治療師はいい、二日後には外に出る事も許可された。
 





 朝の静かな森の中、いつものように剣を振っていたシーグルは、覚えのある気配を感じて振り返る。

 歩いて来るのは、朝日には似つかわしくない、全身を黒で覆った男。ただ、黒い髪に縁取られた顔の中、唯一映える金茶色の瞳だけが、真っ直ぐこちらに向けられている。
 その姿を認めたシーグルは、剣を下ろして鞘に納め、彼が近づいて来るのを黙って立ったまま眺めていた。

「熱を出して倒れたと聞いたが」

 普通の会話が出来る程度まで近づいたセイネリアは、足を止めるとまず最初にそう言った。

「大した事はない、ただの疲労程度だ。この程度は昔はよくあった」
「そうか……」

 見つめて来るセイネリアの瞳が、どこか辛そうに見えるのは気の所為だろうか、とシーグルは思う。
 それだけでなく、何処となく疲労を匂わせる顔色は、シーグルの知る彼のものではなかった。何故か、その顔を見ていられなくなったシーグルは、彼の琥珀の瞳から視線を外した。

「何の用だ」
「謝罪に来た」

 シーグルはそれを鼻で笑う。

「何処に、お前が謝る理由が? ……いや、逆にあり過ぎて今更とも言えるが」

 流石に、その程度でセイネリアが気配を乱す事はない。
 けれど、何故か、シーグルは今セイネリアの顔を見たくなかった。恐らく、その程度で彼が表情を変えている筈はないと思うものの、今の彼の顔を見るのが怖かった。

「俺の部下がお前に危害を与えたんだ。俺の立場として謝罪をしに来ただけだ」
「成る程な。だが理論としてそれはおかしい。クリムゾンがした事など、お前自身が俺にした事に比べたら大した事じゃない」
「俺は、俺自身の事はお前に謝る気はない」
「だろうな、俺はお前のものだそうだからな」

 セイネリアは何も返さない。
 だが、動揺を見せる事もない。
 シーグルは口元に笑みを浮かべた。

「気にするな、ただいつも通り男に犯されただけだ。この程度でお前が謝るような価値は俺にない」

 セイネリアの気配が初めて揺れる。

「……本気で言っているのか?」

 何を言っても動揺を見せる筈のない男の声に、明らかな感情の色が読み取れた。

「勿論本気だ。お前だって知っているだろう、俺の体がどれだけ男に嬲られて来たかなど。今更一人二人に犯されてもだからどうだというんだ、既に汚れきってる玩具が更に汚れたところで、お前が気にする必要などない」
「シーグル」

 セイネリアの声は、低く、抑揚がない。
 けれども、その中に怒りがはっきりと感じ取れた。
 自然、シーグルの声が自覚せず僅かに震える。

「そうだな、確かにお前は気に入らないのかもしれない。部下が予定外の行動をしたのは、お前の失態ではあるんだろう。自分がミスした事を許せなくて、その戒めを俺への謝罪に置き換えたんじゃないのか?」

 セイネリアが近づいて来る。
 一歩、一歩、無言で、ただ気配は確実に怒っている。
 シーグルは逃げなかった。けれども、やはり、彼の顔を見る事は出来なかった。
 セイネリアの足が、目の前で止まる。
 黒い男の影が、シーグルの騎士としては貧弱な体を覆う。

「シーグル、本当にそう思っているなら、俺を見て言え」

 シーグルは唇を噛み締め、そうして顔を上げて、誰よりも強い黒い騎士を見上げる。
 そしてまだ、彼の顔が殆ど表情を浮かべていない事に安堵し、その顔を精一杯の虚勢を張って睨んだ。

「いい加減、潮時というやつだろう、セイネリア。もう俺は、お前にとって玩具としての価値もなくなった頃だ。そろそろ俺の事など捨て置いて、新しい玩具を見付けるなりすればいい」

 セイネリアが動く。
 シーグルは逃げ出しそうになる心を抑えて、その場に留まった。
 彼は怒りのまま自分を殺すかもしれない。だが、そう思った直後に、ここで殺されるならそれもいいかとシーグルは思っていた。
 けれど、セイネリアは剣を抜く事も首にその手を掛ける事もなく、ただ、誰よりも強いその腕を伸ばしてシーグルを引き寄せ、自分の胸へと抱きしめた。

「お前は、何故、俺の真実を見ない」

 耳元で囁かれた声は、シーグルが聞いた事のない、最強の男が発する筈などない苦しい響きを纏っていた。まるで泣きそうにさえ聞こえるその声を、シーグルは心の中で必死に否定する事しか出来なかった。
 抱き締める腕が、強くなる。
 抱いていた片方の手が、胸にシーグルの顔を押し付けて丁寧にその髪を撫ぜて来る。
 甲冑に覆われたその胸は、体温を感じる事はなく冷たい。
 けれどもシーグルは、その胸の温かさを知っている。
 抱き締められて泣いて縋った、彼の体温を知っている。
 この胸に全てを預けてしまえば、どれだけ楽になれるかを知っている。

 それでも、まだ、彼に全てを渡す訳にはいかなかった。

 この腕に縋れば楽になれる。それを分かっているからこそ、シーグルは自分の心を叱咤して拒絶を体に纏う。腕の中で力の抜けていきそうな体を引き留める。
 例え偽りだと分かっている自分の中の幻想でも、今のシーグルはそれを現実にして、まだ自分の足で立っていなくてはならなかった。
 見開いた瞳は瞬きも出来ず、何かを言おうとして開いた口は震えてなかなか言葉の形を結べない。
 だから、唇を無理矢理笑みに歪めて、心を殺して、シーグルは言う。

「何の話だ? セイネリア」

 乾ききった喉から、やっと搾り出した声。
 それを聞いた途端、セイネリアの腕はシーグルの体を離し、真正面から顔をじっと睨み付けて来る。その琥珀の瞳には、殺気さえ纏った怒りがあった。

「本当は、お前はもう分かっている筈だ、シーグル」

 怒りに震える声も、睨むだけで人を殺せそうな瞳も、シーグルが見た事もない彼だった。今のセイネリアは、シーグル以外の誰かであったなら、恐怖で体が動けなくなる程、恐ろしいといえる怒気を発していた。
 だけれどシーグルには、見えていた。
 彼の怒りよりも、苦しみが。
 そして、それが何よりも見たくなかった。

 彼の怒りは当然だった。自分に向けられて然るべきものだ。
 だから彼の怒りは受け入れられる、怒りのまま殺されても文句の付けようがないと思えた。
 けれども、シーグルには、彼が苦しむ姿こそが見たくないものだった。
 そんな姿を誰よりも強い、この最強の男が曝す事が恐ろしかった。
 だから、ただ、否定だけを口に乗せる。

「知らない、お前の事など、知りたくない」
「お前は……ッ」

 犬歯をむき出して歯を噛み締めるセイネリアの形相を、だがシーグルは笑って見つめる。今この顔から笑みを消したら、何も出来なくなるとシーグルには分かっていたから。

 歯を噛み締め、激情を露わにして。それでもセイネリアがそうしてシーグルを見つめている時間は長くはなかった。彼は一度瞳を閉じると、顔から表情を消し、少なくとも表面上はいつも通りの平静さを取り戻してから瞳を開いた。ただ、その琥珀の瞳だけにはまだ、彼の苦しみが色濃く残ってはいたが。

「シーグル……」

 溜め息のように弱く名を呼ばれて、そうして再びセイネリアはシーグルを抱き締める。力強い腕はだが優しく、慈しむように髪を撫ぜ、シーグルの肩口にその顔を埋める。
 シーグルの耳には、感情を抑えて震える彼の吐息だけが聞こえた。

「セイネリア」

 宙を見つめ、唇だけに貼り付けたような笑みを乗せたまま、シーグルは呟く。

「セイネリア、お前が……まだ、俺を欲しいなら、俺の体を好きにしていい」

 抱き締めている腕に、一瞬、強張るように力が入ったのが分かった。
 シーグルの口元の笑みが深くなる。

「こんな体でも、お前にとってはまだ抱くだけの価値があるというなら、好きにすればいい。俺は抵抗しない。俺にはこれくらいしか差し出すものがない」

 セイネリアがゆっくりと顔を上げ、シーグルの顔を見る。
 シーグルはその彼に笑いかける。

「お前が俺の為に何をしても、俺は何も返せない。お前が受け取るものなんて、俺にはこれくらいしか出せるものがない。だったらもう、抵抗するほうがおかしいだろ? 俺はお前のモノなんだろ? それでもいい、今更否定する気もない。お前は今まで通り、勝手に俺を助けて、勝手に俺を抱けばいい。俺にその価値がなくなったら、見限ればいいだけだ」

 セイネリアの手がシーグルの頬に触れる。
 軽く引き寄せるように撫ぜて、そうして細められた琥珀の瞳がシーグルを見つめる。

「自分が、何を言っているのか分かっているのか、シーグル」
「分かっているさ、お前がした事に対しては体で払ってやると言っているんだ。今までだってそうして来ただろ?」

 シーグルは嗤う。
 瞳の中に空虚という闇を抱えたまま。
 深い青の瞳は人形の瞳のようにただ綺麗なだけで、感情を映す事がなく、口元だけが作られたような笑みを浮かべるだけだった。





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そこまでお待たせせずに次をお届け予定です。次回も二人の会話の続きです。



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