後悔の剣が断つもの





  【10】




 ――俺を笑うか、カリン。

 掛けられた声に、聞き違いかと思ったカリンはそれを聞き返していいのかどうか迷った。
 セイネリアという人物を知っているなら、まさか本人の口から出てくるとは思えない台詞だ。迷った末、聞き返す事が出来なくて、カリンはただ沈黙するしかなかった。

 セイネリアの執務室。カリンは、これから敵対傭兵団へ行く主の鎧着用を手伝っていた。
 基本的に、冒険者上がりの騎士は従者を持たない為、鎧は一人で着れる事が普通で、セイネリアもその例に漏れない。ただ、打ち合わせをしながらや、急ぎの時はカリンが手伝う事もある、今回もその為だ。

 つい先程、この傭兵団を普段から敵視している一角海獣傭兵団から使者がやってきた。既にカリンが持ち帰った鏡から、シーグルを連れ去った者の姿を探りだしてはいたので、使者が来たのは予想通りの事ではあったが。
 向こうの要求も予想通り。

 あの傭兵団の長であるアルスベイトは、常々セイネリアに勝負を挑んできていた。

 この首都で、規模が大きいとされる傭兵団は4つ。その中でもアルスベイトの一角海獣傭兵団は人数で最大規模を誇る。だが、それでも仕事を頼む場合の格付けでは、黒の剣傭兵団よりも下に見られる事が多かった。
 その為、アルスベイトは常々セイネリアに、どちらが上か勝負をしようと持ちかけて来ていたが、そんな馬鹿馬鹿しい茶番にセイネリアが付き合う筈などなく、今まで悉く無視をし続けて来ていた。
 セイネリアにとって、アルスベイトの自己満足に付き合うなど馬鹿げている事ではあったし、あの男が『セイネリアは逃げている、俺の方が上だ』と主張して回る事には、実はこちらにとって有益な面もあったからだった。

 少しばかりセイネリアとこの傭兵団は、有名になりすぎていた。だから、それに対抗する勢力がいる、と思わせていた方が、この国の権力者連中が安心する。いざとなれば潰し合わせられると思わせる事で、この傭兵団に対する彼らの危機感へのクッションの役割を果たしてくれる。

 そんな思惑があるから、相手に好きなように囀らせていたセイネリアだったが、アルスベイトの方は、それで勝手に自己満足へ浸ってくれる程の愚か者でもなかった。
 あれだけの傭兵団を作り上げたのだから当然だといえば当然であるが、人を束ねるに見合うだけの強さ、その強さに見合うだけの自信と矜持、それを持っていた所為で、どうしても自分の実力でセイネリアより上だという事を示したがった。

 ――だが、まさかそれだけの為にこんな手を使うとは。

 カリンがシーグルを追う事に失敗し、それでも彼を連れ去った者が何者かであるかを報告しに行った時、セイネリアはカリンを責める事はなかった。
 だが、彼は怒っていた。
 もちろん、怒鳴りつけるような、明らかに怒気を撒き散らすような事はせず、セイネリアの態度はあくまで冷静ではあった。だが、主が苛立ち、怒りと苦しみに苛まれている事が気配でわかる程、彼が動揺しているのがカリンには分かってしまった。

 彼がそんな姿を見せるのは、あの銀髪の騎士の青年に関してだけだった。
 あの青年だけが、セイネリアを普通の人間にしてしまう。

 だから、使者がやってきて要求を伝えた時、セイネリアがなんと答えるか、カリンには分かっていた。愛する男が何を想い、どうするか、カリンは最初から承知していた。

 それを笑える筈がない。
 もちろん、セイネリアが言った言葉は言葉通りの意図ではないのだろう。

「ソフィアを連れていけ」

 突然そう言われて、カリンは思考から現実へと意識を戻す。
 セイネリアが言った名は、まだ幼いクーア神官見習いの少女のものだった。

「あの場に、子供を連れて行くのは危険なのでは……」
「どちらにしろ、クーア神官を連れて行きたいところだろう、ならあの子供が最適だ。子供でも、他の神官連中より自衛も出来るだろ」
「分かりました」

 強くなりたい、と望むあの少女は、現在戦士としての訓練中でもある。
 ただ、カリンがあまり彼女を連れて行きたくなかったのは、あの少女がシーグルに特別な想いを抱いているのを知っているからだ。どんな状態になっているのか知れないシーグルの姿を、見る事になるだろう場所へ彼女を連れていく事をカリンは躊躇した。……勿論、セイネリアの命にカリンが逆らうつもりはないが。

「後は、運び役が必要だな。あいつが自分で歩ける状態でない可能性がある」
「はい、ですが……」
「今お前のところは人手不足だろ、こっちからラダーを連れていけ、後はまだ必要か?」
「出来ればもう一人、偵察役が欲しいですが、私でどうにかします」
「そうか」

 鎧を着け終わり、セイネリアは剣帯に剣を挿していく。
 その中に久しく見ていなかったものを見て、カリンは表情を強張らせた。
 カリンの視線に気付いたセイネリアが、唇に苦笑というよりも自嘲を浮かべる。

「俺はこれをもって行く。だから、俺の事は気にしなくていい」

 見ただけで、普通の物ではないと分かる黒く塗られた鞘――この傭兵団の名でもある魔剣。
 セイネリアがこの剣を持っていたのを、最後にカリンが見たのは一年以上前の事だった。確かにこの剣を持っているセイネリアであれば、例えどれだけの人数の敵の中にいても、彼を心配する必要がなくなる。
 だが、その剣を普段使わない理由を、カリンは知っている。

「では、行って来るか」

 セイネリアは用意が出来ると、兜を持ってカリンに背を向ける。
 だが、部屋を出る直前、彼は足を止めると、振り返らないまま口を開いた。

「カリン」
「はい」

 不意をつかれたカリンが主のその声の硬さに驚けば、一息程の間の後に言葉が続けられる。

「……頼む」

 その言葉一つに、彼のどれだけの感情が込められているのか分かったカリンは、主の背へ向けて深く頭を下げた。








 ――母親が死んだ後。
 シーグルの兄弟達は、母親の名義で借りている部屋を追い出される事になっていた。まだ冒険者として実績が伴っていない兄の名では部屋を借りる事は困難で、彼らはもうすぐ住む場所を無くす事が決っていた。
 だからシーグルは、この屋敷に来てからずっと言われていた、『兄弟や両親とは、もう肉親の関係はないと思え』という祖父の命を分かっていても、兄達が屋敷で住む事が出来るように祖父へ頼む事を決めたのだ。

「……成る程、それで、兄弟をこの屋敷に呼びたいというのだな」
「はい」
「それで、その為にお前は何をする?」

 歳を感じさせない、威厳と張りのある声で、この屋敷の主、シルバスピナ卿はその孫である騎士になったばかりの少年を見下ろして言った。

「何でも。お爺様が言われる事でしたら、私に可能な事は何でも致します」
「ふむ……そうか」

 表情の乏しい、けれども瞳だけは強く真っ直ぐ向けてくる少年の顔を、老人はじっと値踏みするように見つめる。
 少し機嫌が悪そうに見えるその表情を、それでもシーグルはじっと見返す事しか出来なかった。
 黙ったままの祖父は、その決意の程を確認でもしていたのか、暫くはじっとシーグルの顔をただ見つめ、それから徐に口を開いた。

「……いいだろう。但し、代わりにお前に条件を出す、それでもいいなら、だ」

 シーグルの顔に笑みが湧く。
 この家に来て、家族の事に関して、初めて祖父がシーグルの言う事を聞いてくれたのだ。

「ありがとうございます」
「気が早いな、礼を言うのは条件を聞いてからにするものだ」

 だがシーグルは、自分に関しての事であれば、例えどんな条件であろうと飲む覚悟が出来ていた。

「まずこれは前提として言っておくが、お前の兄弟達をここに連れてきても、彼らはシルバスピナの者としては扱わん。使っていない別館を貸してやるだけだ、他には何もしてやらぬ」
「はい」

 それは予想していた事であったし、恐らく兄弟達が自らそれを望むだろう事も予想出来た。

「そしてお前に対する交換条件として……そうだな、お前は二十歳になったらこの家を継ぐ事になる。その後はすぐに結婚しろ。相手は私が決めておく」
「はい……それだけ、で宜しいのですか」

 祖父の言う事を聞く事しか許されていないシーグルにとっては、それは言われなくとも当然覚悟していた事だ。だから今更、それに異がある筈がない。
 驚いたように目を見開いたシーグルに、だが、この家の主として当然、非の打ちどころのない立派な騎士でもある老人は、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。

「そう、確かに条件はそれだけだ。だが、お前は自覚する必要がある。お前の責任で彼らをここに置くということは、お前の行動一つで、彼らの運命も決る。彼らの行動で、お前も影響を受ける。今後彼らはお前の枷になる……意味が、分かるな? 自分に枷を嵌めるのが分かっているなら、彼らをここへ連れてくるといい」

 つまり祖父は、今後シーグルが祖父の意に合わない行動をすれば、兄弟達にもその矛先が行く……恐らく、追い出すと言っているのだろう。またその逆に、兄弟達が問題を起こせば、その責任はシーグルが取らなくてはならないとも。
 シーグルは祖父の言葉を理解した上で、尚、笑みを浮かべた。

「構いません。彼らという枷ならば、私は喜んで受けましょう」








 気がついた時、シーグルは、まだ自分が正気だった事に嗤った。
 次に体を動かそうとして、下肢からどろりと、体内の温度と同じ液体が溢れたのが分かって、その感触に顔を顰めた。
 鼻には吐き出されたものの臭い。
 腕をみれば自分が付けた歯型と乾いてこびりついた男の吐き出したものの跡が見えて、今の自分があのままただ放置されているのだという事を知る。

 ――酷い格好だ。

 我ながら、今の自分の姿を想像すれば嗤う事しか出来ない。
 嗤いながら、瞳からは涙が溢れてくる。
 それでも嗤いが止まらない。それどころか、引き攣る唇だけではなく、喉を震わせて笑い声さえ出てくる。

 本当は、今の自分は既に正気ではないのではないか。

 そう思えるくらいに、何故そこまで自分が笑うのかさえ分からない。
 裸で床に寝転がったまま、ただシーグルは嗤う。
 だが、近づいてくる人の気配で、シーグルは嗤う事を止めた。

「酷い格好だ」

 瞳だけを向ければ、シェン・オリバーの姿が見えた。

「貴様も、俺を抱くのか」

 顔に笑みを浮かべたまま言えば、シェンは眉を顰めて顔を左右に振った。

「遠慮しとくよ。あの男の跡だらけのその体には触れたくないしね」
「確かに、そうだろうな」

 言うと同時にシーグルは、声を上げてまた嗤った。
 その声にシェンは呆れるように肩を竦めると、シーグルの体を覗き込んで溜め息をついた。

「しかし、あの男も一応騎士の称号まで取っていた筈だが、どこまでも動物のような男だね。気に入ったものを自分の体液で只管汚してそのままにしておくなど、まるで獣のマーキングだ」

 さも酷いものを見るように見下ろしてくるシェンに、シーグルは顔からも声からも笑みを消して、その青い瞳で睨む。

「気がすんだか?」

 シェンは驚いたようにシーグルの顔を見た。

「こんなになった俺を見て、貴様は、気が済んだのか?」

 シーグルの言葉を聞くと同時に、シェンは、その口元に僅かに笑みを浮かべた。

「いや、まだだよ」

 シェンが床に寝ているシーグルの顔の傍にしゃがみ込む。
 顔を近付けて、真っ直ぐにシーグルと視線を合わせる。

「人間っていうのはね、まだ涙が出る内は立ち直れる。本当に這い上がれないところまで絶望するとね、涙さえ出なくなるんだ」

 シェンの手が伸びて、シーグルの頬を濡らす涙を拭う。

「こんなになっても、まだ、君の心は堕ち切っていないだろう? そんな綺麗な涙を流せるウチは、まだ君は君のままだ。まだ君の心は全てを棄てていない」

 涙を掬った指を舐めて、シェンが笑う。
 細めた黒い瞳に映る闇は底がなく、シーグルはこの男の中に深すぎる絶望の影を見た。

「体が堕ちても、まだそんなに綺麗なままの心でいるなんて狡いじゃないか。君は絶望と、私への憎しみでもっと心までどす黒く汚れ切ってくれないと」

 シーグルは、この男の得体の知れない絶望と憎しみに初めて恐怖する。
 向けられた純粋な悪意に、思わず体が小刻みに震えた。

 だが、自分が恐怖している事を自覚する前に、別の人間の気配が近づいてきて、シーグルは意識をそちらに向ける事になった。
 シェンもそれに気がついて、すぐに立ち上がった。

「何者だっ」

 侵入者は声を出さない。ただ、風のような速さで部屋の中へ入ってきて、剣に手を掛けたシェンがその剣を抜く前に、細い紐のようなものを投げて、彼をその体制のまま拘束した。
 シーグルはあまりに突然の出来事に、何が起こったのかすぐには分からなかった。
 だが、紐を引いてシェンを転がしてから、それを手繰りよせながらやってきた影を見て状況を理解した。

「ご無事ですか?」

 艶やかな長い黒髪、それから、シェンとは違う闇を瞳の中に持つ女性が、シーグルに向かって歩いてくる。

「貴女は……」

 シーグルが目を見開くと、カリンは安堵するように笑った。

「良かった、今度は間に合ったようですね」

 カリンは、言いながらシーグルの傍にしゃがむと、その背に腕を入れ、体を起こそうとしてくる。シーグルが彼女の腕に掴まりながらどうにか上体を起こせば、部屋の中には他に黒い衣装に身を包んだ人物が後2人いるのが見えた。
 一人は戦士らしく体格のいい壮年といえる歳の男で、その格好からセイネリアの部下だと思うが、シーグルが見た事がない人物だった。彼は、床に倒れたシェンを更に綱で縛り上げている。
 そしてもう一人は、小柄な、というよりも小さな、肩掛けにだけクーア神殿の印をつけた動き易い神官らしくはない格好をした少女だった。その少女の名を、シーグルは知っていた。
 ソフィアと名乗っていたクーアの神官見習の少女は、泣きそうな顔でシーグルの顔をじっと見ていている。

 ――俺を心配、しているのか?

 思うと同時に、シーグルは顔に笑みを作った。
 そうすれば彼女も笑って、掌を祈りの形に組む。
 次にシーグルに浮かんだ笑みは、本当に自然と出たものだった。

「ラダー、そっちが終わったら、シーグル様をお願い。ソフィアは転送の準備を、二人は先にシーグル様を連れて帰っていて、私はボスのところへ行きます」

 言われた二人が了承の返事を返す。カリンは、シーグルをラダーと呼ばれた男に託すと立ち上がった。
 シーグルの体に、ラダーという男のマントがふわりと掛けられる。それから、マントで体をくるむようにしながら、ラダーはシーグルを抱き上げようとした。

「待って、くれ」

 部屋を出ていこうとしていたカリンは、シーグルの声に振り向く。

「セイネリアが、来てる、のか」

 ラダーの腕の中で、シーグルが無理に身を乗り出している。
 カリンは美しく曲線を描く眉根を寄せた。

「本当にセイネリアが来ている……なら、俺も、連れていってくれ」

 カリンは予想していた言葉に溜め息をつく。
 だが、彼女がどうするべきかと考えた直後、部屋が、揺れた。





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思いついて、後から回想シーンを入れたらちょっと長めに。こんなことなら、出だしのセイネリアのシーンは前回と一緒にすれば良かったかなぁ。
救出作戦自体はあっさり?でした。次回はこの救出劇の裏でやってた、セイネリアとアルスベイトの戦闘シーンです。


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