寄り添う心と離れる手




  【8】



 窓の外の風はまだ騒いでいる。
 それでも寝た時よりはかなり落ち着いてきていて、この分では明るくなる頃には大方止みそうかとセイネリアは思う。
 夜明け前、窓の外が白くなりだしたこの時間は、やっと部屋の中も少しだけ明るくなってくる。腕の中にいる銀髪の青年の顔を薄暗いながらも見る事ができて、最強と呼ばれた男の顔に緩やかな笑みが浮かんだ。
 相変わらず、眠っている時のシーグルの顔は子供のようにあどけない。抱いて眠ってやればいつのまにか彼の方からもこちらに体を擦り寄せてきていて、朝方の少し冷える頃には体温を求めて更に体をくっつけてくる。その時の、安心しきった表情でこちらの胸に顔を埋めてくる彼を見ているだけで、どれだけ自分が幸せだと感じているか、彼にはわからないだろう。

 いつまでも、こうしていられればいいものを。

 そう考えてしまう程に、その時の幸福感は麻薬のように甘美で、それを手放す事は耐え難い。
 外の風が静かになってくれば彼の小さな寝息も聞こえてきて、その音と合わせて胸がゆっくりと動くそのさまに彼の命を感じて嬉しくなる。更に明るくなってくれば、手の中の銀の髪が光を弾いてきらきらと輝き、彼の白い容貌をいっそう引き立たせる。髪と同じくその睫が光を纏って時折細かに震えるのを飽きる事なく眺められる。
 
 本当に、ずっとこの腕の中に彼を抱いていられればいいのに。

 離したくない、放したくない。どうすれば離さないでいられるだろうか――彼を取り戻してから、セイネリアはずっとそれだけを考えていた。どうすればこのままこの腕の中に留まってくれるのか、それだけを考えて、彼がまた去っていくだろう予感に怯えていた。
 まったく、どれだけ自分は臆病者なのだと、自分を嘲笑った事は数え切れない。

 理性は分かっている、それでも彼はこの腕から離れて家族を選ぶだろうと。
 けれど感情は否定する、どうにかして彼を引き止める方法を探せと。

 いくら彼が生きていることは分かっていても、彼が彼のまま無事でいるかそれが不安で、怖くて、彼を探している間は生きた心地がしなかった。剣が心に入ってくるのを抑えられないくらい、心が動揺して隙を作ってしまった。
 それで実感出来てしまった。もしシーグルが死んだら、自分は完全に破滅する。剣を抑えるどころではなく、自ら破滅を受け入れるだろうと、それを確信出来てしまった。

 彼がそばにいなくても彼が無事で平和に暮らしているというならいい、彼を手に入れられない事も耐えられない事じゃない――前に彼に言った通り、それは真実であって間違いではない。
 だが、手放したままではいつ失うかもしれないと心が不安を囁く。自分の手が届かないところで取り返しのつかない事になるかもしれない、気づいた時には手遅れで、その手に取り戻せるのは『彼』でなくなった『彼』かもしれない――それに怯える心の声は、思考を狂わせる程に大きくなっていく。感情を揺さぶり、強靱だと思っていた自分の精神のあちこちに穴を開けていく。

「俺が本当に欲しいのも、無くしたくないのも、お前だけだ」

 眠る彼を見て呟けば、銀色の睫がピクリと揺れる。セイネリアは思わず顔を彼の顔に近づけ、その瞼のすこし上をそっと唇で触れた。

「行くな、シーグル」

 行かないでくれ、と。ほとんど音にならない声で、セイネリアは彼に囁く。自分のそばにいてくれるなら何があっても守ってやる……そんな言葉、彼が喜んで受け入れてなどくれないとわかっていても言いたくなる。
 腕の中で、規則正しく聞こえていた彼の吐息が途切れる。小さく唸って、身じろぎして、瞼がぴくぴくと何度も動く。
 その様をじっと見ていれば、ゆっくりと瞼があがって、白い容貌の中にくっきりとした濃い青色が姿を現す。昨日は起きた途端に驚いた彼の瞳は、今日は緩やかに細められて微笑んだ。

「おはよう」
「おはよう」

 言われた言葉をそのまま返して、セイネリアはまた黙る。そのままじっとこちらを見つめていた青い瞳からはやがて笑みが消えて、彼の手がこちらの頬にのびてきて触れた。

「そんなに、不安か?」

 シーグルは笑う。ただし今度は穏やかな先ほどのほほえみと違って苦しそうに、辛そうに彼は笑う。それで彼が何を察したのかわかってしまったセイネリアは、咄嗟に呟いた。

「だめだ」

 シーグルの表情がますます苦しげにゆがむ。

「セイネリア……」
「だめだ……言うな」

 もはや笑みと呼べないその顔で、手でこちらの頬に触れたまま彼は大きくため息をついた。

「お前、やっぱりわざとだな」

 セイネリアは何も言わず、ただ唇をきつく閉じる。シーグルの手は優しくセイネリアの頬を撫でる。

「ラタはお前が連絡をするまでは来ない、最初からそういうつもりでここへ来た、違うか?」
「どうしてそう思う?」

 シーグルはそれに困ったように眉を寄せる。

「ラタと別れた時、お前、ほとんど指示を出してなかったろ。それにいくら何でも余りにも彼のことを口に出さなすぎた。いつものお前なら彼と別れた時にでも、彼がどれくらいで合流するか言うだろ。言わなかったのは……決めてなかったからだ。お前は明らかに彼の事をわざと言わなかった。そして、聞かれたくなかった」

 セイネリアは口元だけを自嘲に歪めて、軽く鼻で笑う。それから頬にある彼の手を掴むと、自分の顔をそのままシーグルの頭の上に落とした。これで、彼にこちらの顔は見えない筈だった。

「セイネリア、お前はいつまでここにいるつもりだったんだ?」

 静かな声で尋ねてくるシーグルに、声から感情を消して、顔を見せずに、セイネリアはただ答える。

「お前が何も言わなければ、何時までも」
「馬鹿を言うな、お前はずっとここにいていい人間じゃないだろ」
「お前が望んでくれるなら、他は全て捨てるだけだ」
「俺はそんな事望まない」
「俺は、望んだ」

 それでシーグルも何もいえなくなる。だからセイネリアが彼に言う。

「お前が俺と共にいてくれるというなら、俺は他すべてを捨てていい」
「冗談でも言っていい言葉じゃない。お前には一生の契約をして従っている部下がいるじゃないか」
「そんなものがお前と比べられると思うのか?」
「お前は責任を投げ出すような人間じゃなかったはずだ」
「責任程度、お前と計りに掛けられるものじゃない」

 いくら言っても、言葉が上滑りして彼に届いていない事がセイネリアには分かっていた。これが本心の言葉だと分かっているくせに、シーグルはそれを冗談という事にして終わらせてしまう。
 理性は分かっている。彼の行動は分かりすぎる程に分かっている。
 けれども感情はそれを受け入れられない。離したくないとずっと暴れる。
 だからセイネリアは、無駄だと分かっていても言わずにはいられなかった。出来るだけの感情を殺して、顔を上げて彼の顔を見る。

「このまま俺と来い、シーグル。お前はもう正式には死んだ事になっている。このまま帰らなくて誰もお前を責めない」

 そうすれば彼は一瞬だけ目を細めてから、はっきりとした視線を向けて言った。

「俺は、お前とはいけない」

 決定的な言葉をあっさり言う彼に、セイネリアは怒りさえ感じる。
 分かっていても、何故だと叫びたくなる。
 手をつかまれた状態から、それでもシーグルは指を伸ばしてセイネリアの頬に触れ、そっと指先だけで頬を撫ぜてくる。

「生きているなら俺は帰らなくてはならない。自分の責任を捨てられない……だから、お前を選べない」

 今度は優しい声で言ってくる彼の言葉はやはり聞きたくない内容でしかなく、セイネリアはただ歯を噛みしめる事しか出来なかった。

「お前には感謝している。……俺は、レザの元でずっと……お前が……来てくれればと思っていた」
「俺が来たなら、お前を帰さずに連れて行くと思わなかったのか? お前は約束を守らなかった、だからもう離さない――そう俺が言う事は予想していた筈だ」

 セイネリアが彼とした約束は、彼を手放す代わりにちゃんと彼が自分自身を守る事というものだった。それからすれば彼は約束を破っている。それはシーグルも承知している筈だった。

「それでも……お前はまた、俺を離してくれる」

 けれども、そう答えた彼の言葉にセイネリアの口元には皮肉げな笑みが浮かぶ。

「どうして、そう思う?」

 自分が彼の言う事を分かっているからこそ――彼もまた、セイネリアの思考と行動を分かっている。そして当然セイネリアも、自分が結局はまたこの手を離してしまうだろう事を分かっている。

「俺が俺である為には――俺は帰らなくてはならないからだ。お前が愛してくれる俺という人間は、責任を全て捨てて幸福な夢を見ようとは思わないからだ」

 だから彼の言葉は自分の思っている事そのままで、分かりすぎる程分かっているからこそそれに反論出来ない。

「お前は……本当に、俺に対しては酷い事を平気で言う」
「あぁ、俺はお前には酷い事ばかりを言っている」

 結局理性が予想した通りの状況に追い込まれていくセイネリアには、去ろうとする彼を罵るくらいしか出来る事はない。
 そして、自分の罪を受け止める事に慣れている彼は、それを否定せずに受け止める。
 そんな彼の強さを愛しく思う反面、憎くさえあって、荒れ狂う感情が精神の均衡をあやしくする。
 セイネリアは彼の体を引き寄せて抱き込むと、再び彼の頭に顔を埋めて呟くように言った。

「シーグル、お前が俺の元に居てくれるならお前の望みは叶えてやる。お前が捨ててきたものが心配だというなら俺が代わりに守ってやる。俺の力全てを使ってお前の果たせなかった事を成し遂げてやる。お前が捨てた責任にお前が押しつぶされない為になら何でもしてやる」
「セイネリア、俺はそこまでお前にさせる事は――」

 困惑した彼が顔を見ようとするものの、セイネリアはそのままの体勢で、彼を見る事なく言葉を続ける。

「ならどうすればいい? どうすればお前は俺の元にこのままいてくれる」
「だめだセイネリアは、俺は……」
「お前の為に、お前の望むものだけを与えてやる。嫌だというなら抱けなくてもいい、傍にいて触れられるだけでいい……それが言葉だけではない事は分かった筈だ」

 そこまで言うと、腕の中のシーグルの体から力が抜けたのが分かった。
 ため息をついた彼が、顔をこちらの胸につけて静かに言う。

「やっぱりお前、わざと俺を抱かなかったんだな」





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 セイネリアさんこういう意図でした。この人の場合どうでもいい人程簡単にヤるようです。



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