夕暮れと夜の間の闇




  【9】




「剣を手にいれた時、魔剣から俺にイメージで語り掛けてきたのは騎士の魂だった。この剣に望みを願うなと、直接この剣に何かを願わなければ剣に飲まれずに済むとな。ただ剣を振れば溢れた魔力を飛ばす事が出来るというのは自然と分って、その力の馬鹿馬鹿しさを見てもその時は使わなければいいだけだと思った。……だが問題は狂った魔法使いの魂でもなければ魔剣の膨大な魔力それ自体でもなく、その力に願った騎士の魂の方だったという訳だ」

 シーグルは騎士の魂が魔法使いギネルセラからセイネリアを守っているのだと思っていた。いや、確かに剣に飲まれないように障壁になっているのかもしれないが、それもこれも騎士自身の身勝手な願いの為だと思えばその騎士に同情していた自分が愚かにさえ思えた。
 セイネリアは手に持ったままだったグラスの中身を、今度は全て飲み干してからテーブルに置いた。グラスを離した手はテーブルに置かれて固く握られ、ぐ、と余りにも強く握られたせいで音まで聞こえた。

「いくら鍛えてもこれ以上強くなれないなら、もう二度と自分が強くなれたと実感する事は出来ない。他人に与えられた力で勝って何が楽しいものか、命の危険のない戦いなぞただの作業だ。俺の心に残っていた熱は全部消え失せて、生きる意味が分らないのに死ぬ事は不可能でこの先いつまでも生き続けなくてはならなくなった。それで絶望せずに済む訳がない……あぁいや、俺はそれをその時は絶望だと気づかなかった、幸いその時点の俺の心はもう殆ど死んでいたからな。……だから途方にくれただけだった、望むものが完全になくなって何の為に生きて行けばいいのか分からなくなっただけだった」

 セイネリアの声はどこまでも平坦で抑揚がなく、ただ淡々と紡がれていく。瞳に昏い憎しみを湛えながら途中から遠くを見つめていた彼は、まだ瞳は遠いもののゆっくりとシーグルにまた顔を向けた。

「……騎士の技能の所為で確かに俺は名実共に本当に最強の騎士となった。どんな人間でも一度戦えば諦める、借り物の強さにひれ伏す。戦っても俺はまったく楽しくもないのに、騎士の魂がほくそえんでいるのだけは分った。戦えば戦うだけ胸糞が悪くなった。だが……そんな中でお前だけは諦めなかった」

 そこでやっと彼の瞳が現実を見るようにちゃんとシーグルの顔を捉えた。憎しみとは違う感情を乗せた琥珀の瞳を細めて、彼は自分をじっと見つめてきた。

「壊すつもりで弄んだのに壊れなかった、どれだけ地面に這いつくばらせても、どれだけ虐げてもお前は俺に向かってきた、そうして実際戦う度にお前は確実に強くなっていった。俺はそれが楽しかった、冷え切っていた心が熱を感じる程に」

 愛おし気に自分を見つめる彼の瞳を、シーグルは複雑な思いで見つめていた。
 あの頃……最強の騎士と呼ばれたあの時の彼が実は絶望していたなんて、シーグルには想像さえ出来なかった。誰よりも強く自信に満ち、傲慢で尊大で、他人も状況も思い通りに操ってみせる、そんな男が全てを諦めて生きる意味を失っていたなんて思いもしない。そこまで深い絶望の中にいたなんてわかる筈がない。
 シーグルにとってその強さは憧れであり、その傲慢さで自分を貶めた彼は憎しみの対象だった。

「お前に向かう感情の正体が分かった時――正直自分が信じられなかったが……それがどれほどの喜びだったかお前に分かるか? マトモな人間のように他人を大切に思い、本気で欲しいと思って他人を抱いたのは初めてだった。お前に拒絶されて心が苦痛を訴えても、それは俺に人らしい心があるという証明でもあった。お前の存在だけが俺の心に熱をくれた、喜びと暖かさと……人が幸福と感じる感覚は全てお前がいたから知る事が出来た」

 彼の声に感情はなくとも、琥珀の瞳は恐らく彼の全ての感情を乗せて自分だけを見つめていた。それだけで彼がどれだけ自分を深く愛しているのかというのがシーグルには分かった。だが正直、今更に彼がどれほどの理由があって自分を愛しているかなんて聞いたところでシーグルにはどうしようもない。彼の絶望には同情しても、それをどうにかする術など途方もなさ過ぎて思いつく訳がなかった。死ねない男が自分を愛して、失う事を恐れて――考えてもその先には彼に更なる絶望が待っているとしか思えなかった。

「なら何故、そこまで俺を……後悔した筈だ、俺が死ぬのが怖いというのなら、確実に先に死ぬ俺にそこまで感情を傾けたことこそを後悔したんじゃないのか?」

 それにセイネリアは悲しそうに笑う。けれど自分を見つめるその瞳は優しく、愛おし気で、その瞳に晒される事がシーグルには辛かった。

「いや、後悔はしなかったさ。お前に会うまでの俺はただの心の死んだでくの坊だった。生きていく意味などないのに死ねない、心が死んでいなかったら地獄のように思えただろうな……だからこそ自分に人を想えるだけの心があったとそう実感出来たのは何にも代えがたい喜びだった。例えお前を手に入れられなくても、俺の中に生まれた感情それ自体に後悔などしたことはない」

 そこまでの想いなど、シーグルには分からない、理解など出来る訳がない。全ての望みをなくし、人であることも諦めていた男が見つけた唯一心が求めたもの――それが自分だなんて言われても実感できる訳がない。

「だめだセイネリア……俺には分からない。お前の気持ちなど想像も出来ない、お前の喜びなんて理解出来ない。なら何故、今のお前はそんなに苦しんでいるんだ。俺を手に入れたのに満たされていないんだ」

 それにセイネリアはまた悲しそうに口元だけで僅かに笑って、今度は自嘲に唇を歪めて視線をテーブルの上で握り締めた己の拳に向けた。

「そうだ……その感情を手に入れられただけで俺は十分だと思っていた。お前が俺のものにならなくても、お前が俺を選ばないなら仕方ないと思っていた。お前の知らないところでお前に何かしてやれれば、お前がお前のまま幸せに暮らしてくれるならそれで良かったんだ。……だが、奇跡が起こった」
「奇跡?」

 テーブルの上のセイネリアの拳がまた強く握られて音を鳴らす。けれどセイネリアの顔からは表情が消える。僅かに浮かんでいた感情の欠片を全て消して、彼は静かな声で言った。

「あぁ……俺にとっては奇跡だった。だがお前にとっては呪いだ。黒の剣の中にいる騎士と同じ事を俺はお前にしていた」

 シーグルは思わず息を飲んだ。セイネリアの言葉を理解して、少しだけ気が遠くなり、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。それから、ゆっくりと自分の手を持ち上げてその掌を見つめ、呆然としながらも自分の記憶を辿って呟いた。

「待て……だが俺は怪我をしてもお前のように治る事はない、体も鈍る、お前だって俺に何かあるのを心配していたじゃないか」

 そうだ、足を折ってアウグで冬の間はほぼずっと治療の日々を過ごした、治ってからは体が鈍り切っていたのに悩まされた、その後にも何度か酷い性行為で治療を受けた、傭兵団に来てからだってそうだ、何かある度にエルやサーフェス、ロスクァールが三人がかりで治療してくれた。それにそもそも自分が死なないのなら、セイネリアがあそこまで自分に何かあるのを恐れる必要などない筈だった。

「それはお前が俺と完全に同じではないからだ。俺は魔剣に向けてお前にそうなって欲しいと願った訳じゃない。ただ無意識下で願っていたのは否定出来ないな……お前がずっと俺と共にいてくれればと、この絶望的な生の中でお前さえ俺の傍にいてくれたならと。それを無意識下で願いながら、俺の感情はお前だけに注がれていた。その所為かいつの間にか剣の力がお前にも流れていき……そうしてお前の体は時を止めた。恐らく俺の願望を剣が勝手に叶えたんだろうが……俺にも想定外の出来事だ」

 あぁ、そういう事か――シーグルは呆然としたままそう思った。それだけならシーグルに覚えがないと言えば嘘になる。結婚した後くらいから、前と変わらない、若く見える、とは良く言われていた言葉だ。まさか本当に体の年齢が止まっていたなんて思いも付かなかったが。

「だから俺は、お前を俺のもとに連れてくる事にした。どんな手段を使っても、お前に憎まれても、お前が俺のもとにいなくてはならないようにしたんだ」

 その言葉でシーグルは、自分の頭の中で現在の状況と彼の言葉が綺麗に合わさって気づいてしまった。

「つまり、俺が死んだ事にしたのもそうする必要があったという事なんだな。周りに不審に思われる前に、俺を知る者達から俺を引き離す必要があったと」
「そうだ」

 セイネリアの返事を聞いた途端、一瞬、頭にナレドの姿が浮かんでシーグルは手で口を覆う。沸き起こった感情は確実に怒りだ、頭が怒りで一杯になって吐き出してしまいたくなる。彼を罵って、殴りつけて、そんな事をしてもあの純朴な青年は戻ってこないのに感情のまま彼にぶつけてしまいたくなる。
 シーグルは押さえた口の中で一度歯を噛みしめると、深呼吸と同時に手を離してセイネリアを見つめた。

「なら何故、こんな手段を取る前に俺に言わなかった。あぁ確かに、俺は自分の立場を優先してどうしてもお前を選ぶ事は出来なかった。だがな、俺が普通の人間として暮らせない状況になっていたというなら考えも変わらざる得ないだろ。お前は自分と来てほしいと俺に言ってきたくせにそれを俺に告げなかったじゃないか、その時点でお前が全てを打ち明けてくれたなら、俺だって……俺だって……お前と行く道も……もっと別の皆との離れ方を考える事だって出来た筈だ……」

 言っている途中から涙が出て、嗚咽に混ざって上手く言葉にできなくなる。出来るだけ感情を殺して冷静に彼に言おうとしたのに、それを裏切って感情は溢れ涙は出てくる。最強の騎士――その力は憧れであり、その強さと人を動かす力は尊敬すべきものだった……なのに何故、彼はこんな重要な事を黙って、勝手にもう引き返せない程に多くを巻き込んでこんな状況を作ってしまったのだろう。
 彼に憧れていたからそれが悔しくて、情けなくて。彼を愛しているからこそ悲しかった。そんなに自分と共にいて欲しかったのなら、どうして共に行ける道を一緒に考えようと思ってくれなかったのか。

「お前が怒る事は分かっていた。お前が俺を許せなくても仕方ない」
「黙れっ、分っているなら何故行動を起こす前に俺に言わなかった」
「お前の時が止まったと確定するのに時間が掛かった、最初は可能性だけの話だった」
「それでも、可能性が分かっただけでも言ってくれれば良かったんだ。それだけで俺だって考えるだけの時間が出来た」
「……出来なかった、俺はお前に出来るだけそれを知らせたくなかった」
「何故だ、何故……」

 セイネリアはピクリとも動くことなく、表情も変えず、シーグルの顔を見ないままで呟いた。

「お前には出来るだけ気づいて欲しくなかった。通常の人でなくなった事に気付いたお前が……変わるのが見たくなかった」

 言って彼は立ち上がる。立ち上がってこちらに向かって一歩踏み出す。その瞳は苦しそうで、自分に助けを求めて縋ってくるようで……だが、今のシーグルはそれを分って尚、彼を許す気にはなれなかった。彼の手が伸ばされて触れようとする直前、シーグルは彼の顔から眼を反らして強い声で言った。

「だめだ、今はお前を許せないし、触れられたくもない。契約は破らない、すべき仕事ならする……だが、少し頭を整理する時間が欲しい」

 セイネリアは手を止めると、その掌をぎゅっと握り締めて下におろした。それから足音と気配で、彼が部屋から出て行った事をシーグルは知った。
 部屋の中は静まり返っていた。外から祭り前の街の喧騒が聞こえるのに、シーグルの体感では寒さを感じる程に静寂だと思えた。
 だがやがて、シーグルはテーブルの上の酒に目をやって、瓶に僅かに残る彼の瞳のような琥珀の液体を見つめるとそれに手を伸ばした。

「セイネリア・クロッセスの大馬鹿野郎」

 小さく呟いて、瓶からグラスに液体を注ぐ。それでもその量は底にうっすらと色がつく程度だがったが。
 そうして注いだグラスを一気に飲み干して、シーグルは再び呟いた。

「我がままで身勝手で、臆病者。あぁ嫌ってやる、憎んでやるさ…………馬鹿め」




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 シーグルそら怒るよなってとこで……酒置いてくなよセイネリアw。
 



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