残された者と追う者の地




  【2】



「ナレド、俺は大丈夫だからついてくるな、お前がくると足手まといだ」

 それだけを告げて、シーグルの馬は今来た道を引き返す。
 既に敵は逃げた部隊を追いかける事は止めて、残った兵達を包囲しようと動き出していた。それでもまだ、丁度クリュース軍を分断している箇所では敵の層はそこまで厚くなってはいない。だからそちらの方面の敵によく見えるようにシーグルが近づいていけば、気付いた敵達から次々と声が上がる。

「あれは『紋章つき』だ。『紋章つき』が一人でいやがる」

 蛮族達は分かっている、一般兵をいくら殺したところで大した金にはならない。けれど『紋章つき』である貴族を捕獲すれば確実に金になる。例え殺したとしても、その鎧の引き渡しだけでも十分金にはなる。そうしてなにより、名のある者を倒したのなら名声が手に入る。

 シーグルに向かって雨のような大量の矢が放たれる。だが魔剣を抜いて馬を走らせているシーグルには当たらない。そして矢の雨が止んだ次の瞬間には、取り残されたクリュース兵を取り囲もうとしていた敵達の陣形が崩れ出した。
 クリュース軍を分断していた部分の敵達が、まるで包囲陣の蓋が開くよう離れて行き、そこをクリュース兵達が抜け出そうと一斉に突撃を仕掛ける。敵の包囲陣が崩れていくのをを見届けながらも、シーグルは必死に馬を走らせた。

――追いつかれない限りは、大丈夫な筈だが……。

 遠距離攻撃をどうにか出来るなら、敵に近づかれない限りは危険はない。シーグルはそのまま馬を走らせて敵の陣形を崩した後、大回りで自軍の本体に戻るつもりであった。その思惑は今のところは上手くいっているように見えて、遠くから見ている者達にも、シーグルと敵の距離は縮まるどころか離れるばかりでそのまま彼が逃げ切れるように見えた。
 敵の陣形が崩れた事で、先行で逃げた部隊も分断された後続部隊を助けに行き、どうにか合流を果たす事が出来る。とはいえ未だ敵の方が数では確実に多い為、撤退命令は変わる事なく、クリュース軍はひたすら逃げるしかなかった。

「だからっ、何やってんだあの人はっ」

 シーグルが飛び出してすぐ、それを見ていたグス達第七予備隊の面々は、全員が急いでそれを追い掛ける為に本陣を飛び出した。流石にシーグルのように矢を避けられる訳ではないため蛮族達の弓の射程に入らないようにしなくてはならなかったが、シーグルを放って一人にしておける訳がない。もし何かあった時に彼の盾になるつもりで、彼らは迷う事なくシーグルを追いかけて馬を走らせた。

「アルスオード様……」

 一方で、残されたナレドは迷っていた。自分がいけば足手まといになるのは確実だと分かっている分、どうしようかと泣きそうな顔で、敬愛してやまない主と彼の部下が走っていくのをただ見る事しか出来なかった。
 しかしそんな彼に向かって、知らない声が掛けられる。

「お願いです、私をシルバスピナ卿の元に連れて行ってください」

 馬上から声を見下ろせば、少年兵と思われる小柄な人物がそこにいた。

「私はクーア神官です。いざとなったらあの方を転送で飛ばす事が出来ます、ですから……」
「でも……」

 ナレドの腕では、シーグルに馬で追いつける自信はなかった。それに隊員達がやっていたように、敵の弓の射程ぎりぎりを狙って走らせられる自信もない。
 けれど、そうして躊躇していたナレドに遠くから呼びかけてくる声がする。見れば、魔法使いの部隊にいた筈のキールが、息を切らしてやってくるところだった。

「その子を早くシーグル様の元へ。私が援護の術を掛けますからっ、ただ真っ直ぐにシーグル様の元を目指しなさいっ」

 それでナレドも決断する。すぐに少年の手を取って彼を持ち上げ、後ろに乗せる。背は伸びたといってもナレドは細い為軽く、身に付けている装備も軽い。それに小柄な少年の体重が加わったところで馬は十分走れると思った。
 キールから、何か呪文を唱える声が聞こえる。ナレドはごくりと息を飲む、そして。

「さぁ、いってください」

 呪文が止むと同時にキールがそう言って、ナレドは大声でそれに、はい、と返すと馬を走らせた。
 シーグルが馬を走らせている道筋は、真っ直ぐではなく半円を描いたような軌道を描いている。大回りをしても最後には本体と合流するつもりである為だが、だからこそ直線で追いかければどうにかナレドでも追いつけると思われた。キールの掛けてくれた呪文が何かは本人には分からないものの、少なくとも敵がこちらを目指してくることも矢が飛んでくる事もないので、ナレドはただシーグルに追いつくことだけを考えてひたすら馬を走らせた。

 だから現在のところ彼らの状態は、走るシーグルをバラバラと追いかける蛮族達と、その蛮族達とは違う角度からシーグルに向かう第七予備隊の者達、そしてナレドという図になっていた。蛮族達は大半が徒歩だからほぼ追いつけそうになく、実際に既に追う事を諦めてしまった者が多かったが、馬に乗っている者はしつこくシーグルに追いすがっている。

 だが、そこで突然、その群れの先頭を走るシーグルの馬が転倒した。

 何が起きたのか分からない面々の中、シーグルの体が馬から放り出される。
 追いかける者達がそれぞれの声を上げる。蛮族達は歓喜の声を、シーグルの部下達は驚愕と不安の声を。そして、ナレドの後ろにいた少年が、少女のような高い声で悲鳴を上げた。







 がくりと、馬が前足から崩れて視界が急に落ちた後、放りだされた浮遊感の中で、シーグルは何が起こったのかを考えていた。

――馬に矢が当たったのだろうか? いや、そんな筈はない。

 もう敵陣からは相当の距離があり、弓の射程からはとうに抜けている。
 考えられる事は、地面に穴か障害になる何かがあって馬が足を取られたか、もしくは疲労骨折でもしたか。何にしろ、こんな時にあまりにも馬鹿馬鹿しい失態だった。運が悪い――それだけで全てを諦めたくはなくても、これで死んだら自業自得以外の何ものでもないなとシーグル思った。

 そうして、地面に叩きつけられる衝撃の後、全身を襲う苦痛に息が出来なくて、一瞬だけシーグルの意識は途切れた。すぐに意識は回復したものの、気づいてすぐは体中が痛んで、苦しくて、まったく動く事が出来なかった。

――それでもまだ、死んではいないか。

 シーグルは大きく口を開けて、思い切り息を吸い込んだ。
 直後、喉の奥から逆流するように競りあがってきた血が口から溢れだし、シーグルはそこで吐血から咳をする。それでも、少し落ち着けば呼吸が回復して、少なくともまだ生きている事が実感出来た。
 だが、体を動かそうとすればあちこちが痛んで、とてもではないが起き上がる事は出来そうになかった。幼い頃から馬に乗っていたシーグルにとって落馬が初めてなどという事はないが、あれだけ走らせている状態で、しかも馬がつぶれて放り出されたなんて経験はさすがにない。その状況では、生きてるだけでも運がいいとさえいえる。旧貴族の象徴でもある魔法鍛冶の鎧のお蔭だろう。
 シーグルはもう一度体に力を入れた。今度は慎重に指先を動かしてから、手を握って開いて神経が通っている事を確認し、それから腕全体に力を入れて体を起き上がらせる。上半身を持ち上げて、下肢をひいて足を立てようとしたシーグルは、そこで左足に走った痛みに歯を噛みしめた。

「これは……へたをすると折れたか」

 すぐに右足にも力を入れて、そちらは痛みながらも動く事を確認する。
 それから右足に体重を掛けて立膝の姿勢にまですると、腰から剣を抜きそれを杖にして立ち上がった。近づいてくる地響きの方向を見つめ、ほぼ右足だけでどうにか立ったシーグルは、地面についたままの剣から片手を離し、その手に短剣の感触をイメージする。そうすればイメージ通りに、落馬の衝撃で放り投げた筈の魔剣がその手の中に現れる。

「さて、これでどれだけ時間が稼げるかだな」

 魔剣を軽く振ればその場に一瞬風が舞う。
 この足では長剣は使えないから杖代わりにしかならない。風で怯ませて、攻撃もこの魔剣自体で受けるしかないだろう。使えない左足の代わりに左手で剣をを杖にして支え、右手で魔剣を振ればどうにかいけそうかとシーグルは考える。
 馬で走っている最中から、シーグルにはグス達がこちらへ向かってきているのが見えていた。他にも、バッセム卿やガヤズ卿配下の者も何人かこちらへ向かおうとしているのが見えた。敵がここに来てから彼らがやってくるまで、それまで持ちこたえるしかないと自分に言い聞かせる。

 運などには頼らない、今は出来る事、考えられる事、やれるだけの事全てをやるだけだった。







 寿命が縮んだ、とはまさにこういう事を言うのだろう、というのがグスの思った事だった。
 シーグルの馬が突然潰れた時には、グスは心臓が止まるかという程驚いた。投げ出されたまま動かないシーグルの様子には、見ていて生きた心地がしなかった。なかなか近づかないそこまでの距離を呪った。
 その後に、シーグルが立ちあがったところまでは見えていたが、それに安堵する間もなくその姿は蛮族達の影で見えなくなってしまった。追いついた敵兵の数はまだ数人というところだったが、あの状況でシーグルが怪我をしていないとは思えない。

――リパの神よ、本当にいるならあの人だけは助けてくれ。あの人以上にあんたの教えを守ってる人間はそうそうにいない、あの人以上にあんたの加護って奴を受ける権利のある人間はまずいないだろ。

 国外からやってきたグスの神は三十月神教の神ではない。それでも今はシーグルの為、彼の神へと祈る。
 向かう先から聞こえる怒声と立ち上る土煙に、グスの顔は険しさを増していた。





――本当に、悪い事というのは重なるものだ。

 シーグルは乱れた息を整えて、口元に自嘲を浮かべる。
 左足が使えない状態で、ただでさえ短剣だけで対処しなくてはならないのに、体力がいつも以上にもたない。その原因は分かっていた、あの傭兵達に襲われた所為だ。
 彼らに襲われたのは一昨日の晩の事で、クルスの術で傷口は塞がれたもののまだ本調子に戻っているとはいえない状況だった。それでこんな無茶な体勢で戦っているのだから、体力がもたないのも当然ではある。
 それでも、それを言い訳にして諦めていい訳でもない。それこそここで諦めたら、傷を治してマトモに動けるようにしてくれたクルスに合わせる顔がない――優しい神官の顔を思い出せば、シーグルの唇に自然と柔らかい笑みが湧く。そうして息を大きく吐くと、歯を噛みしめ、再び体に力を入れて意識を引き上げ相手を睨む。投降はまだだ、それを選ぶのは最後を覚悟してからだった。
 シーグルは短剣を構える。向かってくる剣を受け流してから、風を呼び、土煙を上げて相手を下がらせる。
 この状態でもどうにか対処出来ているのは、現状、敵はシーグルに本気で掛かって来ていないからでもあった。この状態を嘗めるなというの無理なくらいだろうが、ともかくどうみても簡単に捕まえられそうなシーグルに、彼らは一斉にかかってくる事はせず一人づつ向かってきていたのだった。他の連中はそれを見て、笑い、囃したてている。まるで見世物だなと思いながら、シーグルとしてはその状況を利用して時間稼ぎをするつもりだった。
 アウグについては、貴族騎士として彼らの言葉を多少は教えられていても、さすがに蛮族の言葉についてはシーグルもまったくわからない。だから彼らが何を言っているのかはわからないのだが、彼らの様子からある程度は分かる事もある。
 どうやらここにいる連中は殆ど皆、違う部族の連中だ。
 だからこそ、シーグルに襲い掛かって失敗する者には心底馬鹿にした野次が上がる。どちらが先にシーグルに向かうか掴みあって喧嘩をしている者もいた。
 足の痛みは酷すぎて半分麻痺してきていたが、胸の痛みも酷い事になってきていて、気を抜けば意識がふっと消えそうになる。それでも恐らく後少しだと自分を叱咤して、シーグルは気力を奮い立たせた。

「隊長っ、ご無事ですかっ」

 目の前の男の悲鳴と知った声が聞こえた時、殆ど意識が消えて気力で立っていたシーグルの体は、その場で剣に寄りかかるように傾いていった。
 視界がぼやける、喧騒が遠くなる。
 けれど、倒れる前に体を支えてくれた者がいる。

「怪我は足ですか? 俺……掴まって……」

 それが見知った気配と声だと分かった途端、シーグルの視界は急激に闇に包まれた。音はどんんどん遠くなって、意識が暗闇に沈んで行く。

「すまない……」

 それでも、最後にそれだけを呟いて、シーグルは完全に意識を手放した。



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次回は、シーグルを助けようとその場にいる者達があれこれ。
 



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