喜びと後悔の狭間で




  【5】



 ウィアの家、つまるところリパの大神官であるテレイズの屋敷にシーグルが来たのは、5年近く前の事となる。クーア神官達に捕まって犯されて、初めてセイネリアの傭兵団に連れて行かれて――思い出しながらシーグルは改めて考えた。あの時、セイネリアは自分をもう帰さないつもりで連れて行った。けれど彼は帰してくれた――それは、シーグルが解放しないなら死んでやると脅した所為だった訳だが――あの時のセイネリアはどんな顔をしていただろうか。
 シーグルはあの時、本当に死ぬ気だった。あのままセイネリアの玩具として生きるくらいなら死んでいいと思った。だから死ぬといった言葉はただの脅しではなく、シーグルにとっては本気の言葉だった。
 自分の喉に短剣をつきつけたのを見て――セイネリアは笑ったのだ。あの時、シーグルは彼が何故笑ったのか分からなかった。自分の言葉が本気な筈はないと馬鹿にして笑われたのかとも思った。

『あぁ、分かった。お前を解放しよう。――俺の、負けだ』

 セイネリアはそう言った。
 思えばあの時から、彼が自分を見つめる瞳は変わったのだ。
 彼が笑ったのは、シーグルの事ではなく彼自身に対して。あの時自分に向けた彼の歪んだ笑みは自嘲の笑みだったのだ。
 それからの彼はずっと自分を苦しそうに見つめるようになった。それをシーグルはずっと気付かないふりをしていた。憎むべき男が自分を想ってくれているなど気付きたくなかったから。……気付いたら憎めなくなるのが怖かったから。

――つまり俺は、既に心が揺れていたんだ。

 初めて見た時から、最強の騎士セイネリア・クロッセスに憧れていた。彼の友人になれて嬉しかった。その彼に裏切られて憎んだ――けれどもやはり、彼に憧れていた。彼の強さが羨ましくて、彼のようになりたくて、彼のように生きたくて――それが無理な事が分かっているからこそ焦がれた。その彼に愛していると言われて、本当は心の何処かでは嬉しいと思っていたのではなかっただろうか。
 けれども、自分の立場とプライドを守る為に、シーグルは拒絶する事しか出来なかった。認めてしまったら自分は壊れるしかないと思った。

 だが今、自分はこうしてここにいる。

 彼を愛していると自覚して、彼になら全てを委ねる事さえできる自分を理解して、それでも尚、やはり彼を選べないと決めてここにいる。

 彼を、愛している。

 孤高の黒い騎士のその強さに憧れて、シーグルを失うのが怖いと言う彼の弱さを愛しいと思う。シーグルだけが欲しいのだと、切実に、全身全霊を掛けて告げる彼を愛している。
 あの男を想うだけで胸が痛くて堪らないこの感覚は、彼を愛しているからなのだろうと今では理解している。
 それでもシーグルは彼を選ばない。彼を選べない。
 この胸の痛みをずっと抱えていく事を覚悟して、シーグルがシーグルであるからには彼を選ぶ事は出来ない。たくさんの大切な人達を、そして、幼いころから必死に足掻いてきた自分自身を裏切る事はシーグルには出来なかった。

 だからこれは、ただのけじめ。
 そうして、一生妻となる女性(ひと)だけを愛すると誓った自分を戒める為。
 セイネリアを傷つけて、ロージェンティを裏切った自分を誰かに知って欲しかったとそれだけの事ではある。

「準備が出来たよ。始めてもいいかな?」
「はい、お願いします」

 テレイズの声に、シーグルは顔を上げる。
 気付けば、部屋の中にはリパ神殿特有の香炉の匂いが漂い出していて、シーグルは大きく息を吐いた。
 この部屋は屋敷の2階、テレイズの説明では彼の書斎となるらしい。説明通りに周りは本やら書類が積み上げてあって、それらや並ぶ本棚に圧迫されて実際の部屋の広さの割には狭く感じる。その部屋の中でもここは窓から遠い場所であるから薄暗く、ランプ台が設置されているがその明かりはかなり絞られていてそこまで明るくは感じない。ある程度の狭さを感じる事も、明るすぎないのも、シーグルの『告白』を聞く為にテレイズがあえてそうしているのだろう。
 リパの正神官の仕事の中には、信徒の罪の告白を聞くというものがある。勿論、神官は聞いた事を他言しないし、告白者は嘘をつかない。正神官のみが使える『誓約』の術によってそれを確かなものとして『告白』は行われる。
 とはいえ、例外もある。
 『誓約』の術によって神官は聞いた事を他言できないようにされるが、重要犯罪に関する件に関しては、主席大神官の判断によって告白の内容を口にする事が求められる可能性もある。
 今回シーグルがリパの大神殿にいかず、個人的にテレイズに頼んだのはこの辺りの事情が関係していた。現状、シーグルの立場として、何時何に巻き込まれる事があるか分からない。セイネリアの忠告にもあったように、何かきっかけになることがあれば、王はシーグルを罪人に仕立て上げようとする可能性もある。
 だから、テレイズがシーグルの告白を聞いたという事を、大神殿の記録として残しておきたくなかったのだ。何かがあった時に、兄の大切な人の家族である彼に迷惑を掛けたくなかった。プライベートでの『告白』ならば、テレイズは大神殿への報告義務はない。シーグルに何かあっても、彼自身が言い出さない限りは火の粉が彼にまでかかることはないだろう。
 勿論それは、テレイズのことをシーグルに何があっても無視が出来る冷たい人間だと思っているという訳ではない。彼にとって一番大切なのがウィアであるから、少しでもウィアに危険が及ぶような選択を彼なら絶対にしないと思っているからだった。

「では、始めようか」

 そうしてテレイズは最初の『誓約』の術を唱えだす。
 『誓約』が終ると、次に紡がれる呪文は『告白』の為のもの。香の匂いと心地よく響く彼の声に、体の感覚が遠くなって、意識がふわふわと浮かんでいく。薄れていた記憶達が鮮明に頭の中に蘇ってくる。

「俺が、あいつと初めて会ったのはネイサグ砦の防衛戦で――」

 目を閉じたままのシーグルの声が、淡々と部屋の中へと響いた。








 既に日の落ちた窓の外を見ながら、薄明かりの部屋の中でテレイズは一人本を読みながら軽く酒を飲んでいた。広い大神官用に作られた屋敷の中には、今、テレイズ一人しかいない。ウィアはシーグルを送ると言ってシルバスピナの首都の屋敷に行ったから、今日はそのまま泊まってくるだろう。珍しくヴィセントも今日は付いていったから、彼も一緒に泊まってくると思われた。
 静かな部屋で一人、テレイズはじっくりと本を読みながら先ほどまでの長い彼の『告白』を思い出し、考えていた。

 銀髪の青年、おそらくこの国の行く末を決める鍵ともなる存在である彼は、迷いなく言った。

「俺は、セイネリアを愛している」

 罪の告白である筈なのに、その声は恥じる事なく清々しい程の自信をもったはっきりとした声で、テレイズはらしくなくある種の感動を覚えた。

――まったく、この青年は。

 どうして彼は、これ程濁らず真っ直ぐに生きていけるのだろうとテレイズは思う。普通なら、汚れてひねくれきって、誰も信じられない人間になって当然とも言えるだけの目にあっているのに、彼の心はそれらを受け止めて尚澄み切っている。
 自分の罪と弱さを認めて、それでも彼は真っ直ぐ前を向くだけの強さを持っている。

 彼の告白を聞いて、この青年とセイネリア・クロッセスの本当の関係――そこへ至るまでの物語を知ってしまったからには、テレイズでさえいつも通りの斜に構えた考え方をする気にはなれなかった。大神殿では『冷徹な笑顔の策士』として恐れられるテレイズが少なからず心を動かされてしまった事を自覚する。
 そうして思う、こんな彼だからこそ、あのセイネリア・クロッセスが愛したのだろうと。
 それはもしかしたら、テレイズにとってウィアが何よりも愛しく大切であるというその感覚に近いのかもしれない。ウィアとは違う方向性の、けれども真っ直ぐで曇らない心の持ち主。自分の中の濁りと汚れが分かっている者にとっては、何よりも眩しく、惹かれて止まない存在。
 これはまいったなと、テレイズは自然と自嘲じみた笑いが出るのを止められなかった。シーグル本人が去った部屋で一人、自分がこんな気持ちになることがあるのかと思えば声を出して笑ってしまう。
 他人に対して何の打算もなく、ただどうにかしてやりたいだなんて思ったのは初めてだったかもしれない。
 ウィアにあれだけ言っていたのに、心情的に彼を助けたくなる。この青年がこのままでいられる為に、力を貸してやりたいとそう思ってしまう。

 それでもテレイズは自分がどんな人間かを分かっていた。いざ彼に何かあったときに、自分の立場を捨ててまで彼を助けてやる事はない。おそらく、だからこそ、彼は自分に告白したのだと思う。

――そこが彼の惜しいところだろうな。

 幼い頃から人に頼る事をせず全て自力でどうにかしてきたからこそ、彼は人に頼る事が出来ないのだ。頼れないからこそ、まず自分が動いてしまう。人には極力迷惑をかけたくないと考える。
 だが、それではだめなのだと、テレイズは呟く。
 彼の立場なら、人に任せた方が上手くいく。彼がもっと人に頼り、自分は下がる事が出来る性格だったら、彼を助けたいと思う人々を率いてこの国を変えられるかもしれないのに。もし彼自身がそこまで優秀な人物でなかったなら、彼は大人しく守られる立場に甘んじて人に頼る事が出来たろうにとさえ思う。
 現状、まだ表立った派手な問題まで起きていないが、王宮周りの不穏な動きはテレイズの耳にもいろいろ入って来ていた。まだ下っ端ばかりだからそこまで騒がれていないが、王の不評を買って粛清された者の話も少しづつ入ってきていて、このままでは世が荒れるという兆しがあちこちに見えていた。

 だから、いっそ。

 今後王が派出に好き勝手を始めたなら、シーグルが王に反旗を翻せば面白いのに、とテレイズは考える。
 彼は兵士に、民衆に人気がある。この場合あの見目麗しい容姿も効果的だ。現在でもまだ騎士という立場を守る家というのも印象がいい。もし王が貴族院と対立する事になれば、彼が貴族院側の先陣に立てばいい。彼の家柄的にも、民衆や兵士からの支持という面でも、彼以上に反王政側の象徴に相応しい者はいない。しかも彼にはあのセイネリア・クロッセスがついているのだ。考えれば考える程、その想像が実現すれば面白いことになるだろうとテレイズは思う。
 それでも――知らず浮かんでいた唇の笑みを消すと、テレイズは呟いた。

「そこまでを彼に求めるのは酷か」

 彼には、それが出来るだけのしたたかさが足りない。
 余りにも真っ直ぐ過ぎて、純粋すぎて、彼にはそれが出来ない。
 君主である王に反旗を翻す事、たくさんの貴族や部下やセイネリア・クロッセスを利用してでも目的の為に冷徹に駒を動かす事――彼にそれが出来るとは思えない。彼は人々のまとめ役にはなれても頂点には立てない人物だ。

「そういう面ではウィアとは大分違うな」

 ウィアなら、人を利用する事も気にしない。迷惑をかけるのを分かっていても自分の思うことを押し通す適度のわがままさがある。ただ、悪気がない上に面と向かって堂々とするから性根が腐らないのだ。多分、彼に求められている役からすれば、ウィアのような真っ直ぐさの方が適しているのだろう。

「だが、立場的には彼以上の適任はいないんだがな」

 それを分かっているから、今後、必ず彼は王宮の権力抗争の鍵になるとテレイズは予想する。彼が何を選択するかによって国のあり方が変る日が必ずくる。
 その時に――気持ちだけなら、彼を助けてやりたいと思うのだが、とテレイズは自嘲気味に思う事しか出来なかった。




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 久しぶり登場のテレイズにーちゃん。この人も難しい立場なんです。



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